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第2話
前触れ
「いずれお前自身が答えを見つけるだろう」
蒼龍の言葉を反芻しながら、砡はため息を吐いた。意味深な言葉を残していく人だ。
気晴らしにと歩み出た内坪には、小さな桜の木が植えられている。もう少し暖かくなれば、美しい花を咲かせるのだろうかとぼんやり考えていたところ、小石を詰めた道を踏みしめるざりざりとした音が聞こえた。振り返ると、自分の頭より高く書籍を積み上げ、それを抱えた下人がふらつきながらこちらへと近づいてくる。
「すみません、蒼龍様の奥様のお部屋はこちらでしょうか?」
顔も見えぬほどに書物を積んだ彼の姿に、砡は思わず肩をすくめた。まるで歩く本棚のようだ。
「……奥様?」
思わず復唱してしまう。まさか自分がそう呼ばれるとは思わなかった。
下男は必死にバランスを取ろうとしている。見かねて、砡は上に積まれた数冊を取ってやった。すると彼はほっとしたように息をつき、ようやく視界が開けたらしく、にこりと笑う。
「あ、見えた! ありがとう!」
自分と年の近そうな若い下男だ。
その素直な喜びように毒気が抜かれ、砡も思わず口角を上げた。
「奥様、は多分私のことです」
「えっ? あ、申し訳ありません!!」
「いえ、驚きますよね」
気まずそうにしながらも、謝る下男を見、砡は軽く息を吐いた。確かに蒼龍の側に仕える身ではあるが、そういう関係ではない。居候しているだけの妻、ただ、そんなことは下男に言うべきことでもなく。訂正するのもまた面倒だった。
その頃、蒼龍は去坂と共に廊下を歩いていた。
「客は誰だ?」
「|玄鴉《げんあ》様がお目通りを、と」
その名を聞いた瞬間、蒼龍の眉尻がぴくりと動いた。
「……面倒な奴が来た」
低く呟くと、去坂が苦笑する。
「ええ、お気持ちは察します」
玄鴉——九帝の一角にして、影の支配者とも言われる男。彼が動くとき、それはすなわち何かの策略が始動する兆しだ。
蒼龍が静かに襖を開けると、そこには黒衣に身を包んだ男がいた。身体は全て何らかの布で覆われており、顔に至っても、極薄い黒の綿紗で隠され面立ちがよくわからない。それなのに【玄鴉】として通されるのは、腰にぶら下げた当主を示す佩章があるからだった。
「やあ、久しぶりだな、蒼龍」
細められた双眸が、愉快そうにこちらを見据えている。玄鴉が口元に微笑を浮かべながら、ゆったりとした動作で茶を傾けた。他人の部屋で随分落ち着いたものだ。
「こんな時間に何の用だ?」
「おや、つれないな。昼を過ぎた位じゃないか。少し旧友と語らう時間が欲しかっただけだよ」
「貴様と語らう趣味はない」
「冷たいなあ。まあいい。実は——」
玄鴉は軽く指を曲げる。すると、控えていた部下が一歩前に出る。
「ある噂を耳にしてね。蒼龍、お前のもとに“面白いもの”があると聞いたんだが」
蒼龍は表情を変えぬまま、玄鴉を見つめた。だが、彼の鋭い眼光をもってしても、この男の底は見えない。
「……お前が興味を持つほどの者はいない」
「ふうん? そうかな」
玄鴉は薄く笑うと、蒼龍の傍へと歩み寄った。
「俺は“面白いもの”が好きでね。特に、お前が隠しているものほど、興味をそそるんだ」
その言葉に、蒼龍の指がわずかに動く。
彼は、砡のことを嗅ぎつけたのか?昨日の今日だ。この男、つくづく油断も隙もない。
「——お前が何を言いたいのか知らんが、余計な詮索はするな。俺の領域に踏み込めば、お前といえど容赦はしない」
蒼龍の低い声に、玄鴉は楽しそうに肩をすくめた。
「怖い怖い。でもな、蒼龍」
玄鴉は蒼龍の背後をちらりと見やる。
「お前の“面白いもの”は、すでに俺の手の届くところにいるかもしれないよ?」
その瞬間、蒼龍の瞳が鋭く光る。
玄鴉の言葉の意味——それを、確かめなければならなかった。
◇◇◇◇◇◇
「それにしても……なかなかの量ですね」
砡は腕に抱えた書物を眺める。その中には見慣れたものもあったが、見たことのない古い巻物も混じっている。無造作に積まれた書物の中から、一冊の書を引き抜いた。
「これは……兵法書?」
思わず呟くと、下男は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お詳しいんですね!」
「いえ、詳しくはないですが、昔少し読んだことがあって」
「へえ~では、これはどうです?」
下男はさっと別の書を取り上げる。そこには珍しい戦術が記された古文書が載っていた。砡は思わず目を見開く。
「『射策要略』?陽前に書かれた軍略本ですよ!こんなものまであるのですか」
「……ええ。九帝一族の所有する書物は、それは凄いですから」
軽く言う下男の様子に、砡は微かな違和感を覚えた。だが、それを言うことは、憚られた。せっかく和やかに話していた雰囲気を壊したくなかった。
(それにたかが本のやりとりで馬鹿馬鹿しい。)
だから、言葉を飲み込んだ。
下男が仕事へ戻ると出て行き。砡は、一人になった。奴隷になって以降、ああいう風に話せたのは久しぶりで少し嬉しかった。前の主人は、猜疑心の塊であったから、使用人も奴隷も皆相互に監視するようにされていて、息吐く暇もなかった。
(また、話せたらいいな。名前聞きそびれてしまった)
砡は腕に抱えた書物を眺めていると、ふと、背後に視線を感じた。
ゆっくりと振り返ると、そこには蒼龍が立っていた。険しい表情のまま、じっとこちらを見つめている。
「……どうかしましたか?」
声をかけると、蒼龍は無言のまま歩み寄り、砡が抱える書を取り上げた。
「これは——」
蒼龍の指が、砡の手にかすかに触れる。その瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
「……誰と話していた」
静かながらも鋭い問い。砡は戸惑いながらも、「ただの下男ですよ」と答えた。
すると、蒼龍の顔がさらに険しくなり、砡の手首を強く引いた。
「俺以外の奴に気を許すな」
その囁きに、砡は息を呑んだ。
冷えた蒼龍の手が、妙に熱く感じられた——。
乱れる感情
|砡《ぎょく》は息を呑んだ。
引き寄せられた腕の力強さに、身体が跳ねる。唐突な動きに抗う間もなく、引かれた先には、|蒼龍《そうりゅう》の冷ややかな眼差しがあった。
「……っ」
胸の奥がざわめく。何かを言おうとした唇は、かすかに震えて言葉にならなかった。
「怖いのか?」
「いえ、私はそんな」
声が揺れる。何も、ただ本当に下男と話していただけのはずなのに、動揺してしまう。
蒼龍は、偽りは許さないとばかりに、左手を痛い位握り、砡の腰をしっかりと抱きしめている。その腕の力強さに加えて、彼の声は低く恫喝した。
「逃げるのか」
蒼龍の唇が、耳元に触れる。砡は反射的に首を横に振った。怖いわけではない。だが、それ以上の何かが胸を締めつけていた。
「なら、なぜ震えている?」
二言目の問いが突き立てられる。
蒼龍の指が、そっと砡の顎を持ち上げる。視線が絡むと、鋭い琥珀色の瞳がまっすぐに砡を捉えた。
「あ……や……わ、私、は」
砡の言葉は掠れ、うまく続かなかった。
蒼龍は微かに目を細める。逃げないと口にした砡の肩に力がこもるのを感じたのか、その腕をさらに引き寄せた。
「なら、答えろ」
問う声は低く、静かだった。けれど、それがかえって砡の心を乱した。
「何を話していた?」
背筋を撫でるような響きが、容赦なく砡を追い詰める。
「……別に、何でも……」
「なら、今ここでその言葉を繰り返してみろ」
砡の喉が詰まる。言う通りに下男との話を伝える。たったそれだけのことが、今はどうしようもなく難しい。
蒼龍は、砡の顎を軽く持ち上げたまま、ほんのわずかに顔を近づけた。
「……できないか?」
至近距離で交わされる問い。黄玉の瞳がじっと砡を覗き込む。
「それとも、俺の目を見て話せないほど、やましいことでもあるのか?」
威圧された言葉を振り払うように、砡は叫んだ。
「ただ、ただ書物について話しただけです!そこまで疑われるなら何でもお調べになってください」
「はっ、何も隠し事はないと言えるのか。俺は武人だ。調べると言ったら生温いことはしないぞ」
瞳を大きくさせ、固まる砡を角の寝台へと連れていき蒼龍は押し倒した。傷ついた顔をした砡であったが何かを諦めたように力を抜く。
「蒼龍様が武人とおっしゃるなら、私は奴隷です。貴方の所有物であるのですから、どうかご自由に」
「……っ、砡!」
蒼龍の顔が歪んだ。押さえ付けられた砡の手首が軋む。
「……お前は、そう言えば俺が手を引くとでも思ったか?」
低く絞り出された声が、砡の耳元で響く。
「違いますか?」
砡は、寝台の上からまっすぐに蒼龍を見上げた。
「所有物が何を思おうと、貴方には関係ないはずです。私はただ、言われるままに従うだけの存在で」
言い切る前に、蒼龍の手が砡の顎を強く引いた。
蒼龍の瞳にギラギラと怒りの炎が見えている。
「……それが、お前の本心か」
怒っている。でも、何にそんな怒ることがあるのだ。出会ったばかりの自分たちに一体何があると。
砡は薄く唇を開くが、言葉にならなかった。
「ならば、言ってみろ」
蒼龍の指が砡の喉元をなぞる。
「俺に抱かれることが、何の意味もないと」
「!」
砡は喉が絞まり息苦しくなるのを感じた。
「どうした? 言葉が出ないのか?」
静かに、蒼龍が顔を近づける。
彼の動きは、獲物を仕留める獣のようにゆっくりと、しかし確実だった。影の落ちる頬の稜線は鋭く、それでいてどこか陶器のような滑らかさを持つ。長く端正な眉は吊り上がり苛立ちが見える。 息をするたびに、彼の逞しい肩がわずかに揺れ、戦士の身体に刻まれた硬い肉が、薄い砡の身体を潰してしまいそうだった。
「ならば、俺が教えてやる――お前は俺の所有物ではない」
「……っ」
砡の瞳が揺れる。
「だがそんなに|柵《しがらみ》が欲しいなら縛り付けてやる。二度と、そんな言葉を吐けないようにな」
そうして蒼龍は、強引に砡の唇を塞いだ。それは口付けと呼ぶには余りにも一方的で暴力的な行為だった。何かから身を守るように、ぐっとつぶった睫毛が震えていたことを、蒼龍は見ていた。
息を継ぐ間も与えず蒼龍が舌をねじ込むと、苦しそうな声が喉奥から漏れる。瞬間、大きな乾いた音が室内に響いた。
乾いた音を立てたのは、砡の振りかぶった右手だった。蒼龍の頬が、微かに赤く染まる。
「……ほう?」
荒く息を吐き出す砡を、蒼龍はじっと見下ろしていた。怒るでもなく、驚くでもなく――ただ、値踏みするような目だ。
「今のは……どういうつもりだ?」
「……っ」
砡は震える掌を見つめた。無意識に振り上げた手のひらは、じんじんと痛む。
「貴方は、私を弄ぶおつもりなのですか」
唇を噛み、震える声で問う。
「いいや?」
蒼龍はゆっくりと顔を傾けると、まるでその言葉が理解できないとでも言うように否定した。 のし掛かっていた身体を退け、立ち上がる。
「俺はただ……試してみたまでだ」
「……試す?」
砡の眉が寄る。
「所有物だと言うなら、それを否定したらどうなるのか」
蒼龍の指先が砡を射す。
「まさか、そんな目をするとはな」
ゆっくりと顔を近付ける蒼龍に、砡の肩がびくりと震える。
「私は一体何を…」
家主を叩いたことに気付き、我に返った砡は、青ざめる。
「お前の本音が聞けて嬉しいよ」
蒼龍が、口元を崩した。それは冷笑とも嘲笑ともつかない、どこか楽しげで余裕を含んだ表情だった。目の奥には探るような色が浮かび、砡の反応をじっくりと観察するかのように、ゆっくりと瞬きをする。その仕草すら計算されたように流麗で、圧倒的な自信を感じさせた。
(悔しい)
砡は唇を噛んだまま、ぎゅっと拳を握りしめる。
この余裕、この貫禄。同じ男として悔しかった。
「それで、何を話したんだ?」
また同じ問いを繰り返す。その声には、もはや冷えた怒りもない。ただ、試すような、愉しむような――そんな色が混じっていた。
玉座の周り
たった1日で、目まぐるしく周囲が変化したのは、7年前以来だろうか。部屋が橙に染まる頃、蒼龍はこの部屋を出ていった。何事もなかったように、あの涼しげな顔のままで。
|蒼龍《そうりゅう》が出ていった部屋。|砡《ぎょく》は、寝台の上で仰向けに転がっていた。
(自分があんな風に逆らうと思わなかった)
彼の頬を叩いた右手を翳す。過重な労働と栄養不足で節くれだった手だ。かつて鍛冶屋の跡取りとして坊っちゃん等と呼ばれた面影はない。それが蒼龍の頬を打った。
「笑ってたけど」
ぽつりと零した言葉は、部屋の静けさに吸い込まれた。蒼龍は、叩かれた瞬間、ほんのわずかに目を細めた。驚きだったのか、それとも別の感情だったのか。だが、すぐに、楽しむような微笑を浮かべた。
叩いてから時間を置いたはずなのに、蒼龍に触れた手の熱が消えない。蒼龍はどうだろうか。
(争いに関わることの多い武官にとっては、大したことのない痛みなのかな)
自分の小さな手のひらなど、蚊が刺した程度にも思わなかったのかもしれない。
けれど、それでも——
——あの瞬間、何かが、決定的に変わった気がする。蒼龍は部屋にいる間じっと、砡を見詰めていたのだから。
砡はゆっくりと寝台の上で身を起こした。壁に掛けられた燭台が、小さく揺れている。
(何を考えているんだ私は...)
蒼龍の言葉が、微笑が、視線が、まとわりつくように頭の中に残っている。
空気は冷たいはずなのに、なぜか胸が熱い。
砡は乱暴に髪をかきあげた。
「……違う。やめろ、こんな」
そう呟くと、まるで逃げるように、寝台の端へと身を寄せた。心臓の鼓動が妙に耳に障る。まるで、足場が崩れていくような不安定な感覚。
奴隷になってから、ずっと恐怖心と警戒心だけで過ごしてきた。だが今は、別の感情が胸の奥をざわつかせる。
砡は思わず、拳を握りしめた。
(あんなもの……信じるな)
――期待すれば裏切られる。人は裏切るものだと、家が滅んだ時わかったじゃないか。
砡は、余計な期待を押し殺すように、ぎゅっと目を閉じ、寝台に顔を埋めた。
夜の帳が完全に降りる頃、砡は寝台の上で目を開いた。
眠れそうになかった。
体の奥に重く溜まった疲れは確かにあるのに、意識は妙に冴えている。心臓の鼓動だけが耳に響く静かな部屋。ほんの少しでも眠ってしまえば、この熱が引いてくれるかもしれないと思ったが、無駄だった。
(考えるな)
蒼龍の言葉が、視線が、笑みがこびりついて離れない。頭を振っても、拳を握りしめても、どうにもならなかった。
——コン。
唐突に、部屋の扉を軽く叩く音がした。
砡は息を詰め、寝台の上で身を固くする。こんな時間に誰が?
再び、コン、と控えめな音。
誰かが入るつもりはないらしい。様子を窺うような遠慮がちさがあった。砡は慎重に起き上がり、そっと扉へと歩み寄る。
「……誰だ」
低く問いかけると、わずかな沈黙の後、意外な声が返ってきた。
「私だよ」
思わず眉をひそめる。女の声。それも、どこか聞き覚えのあるものだった。
——いや、間違えようがない。
砡は躊躇いがちに扉を開く。
そこに立っていたのは、見慣れた装いの女人だった。
「……あんたは」
女人は一歩、砡の方へ近づいた。深く被った頭巾の奥から、朱い唇が覗く。
「久しいね」
懐かしげなその声音に、砡は息をのんだ。
「——どうして、ここに?」
女人は答えず、代わりに小さな包みを差し出した。深緑の絹に金の刺繍が入っている。前主人の家紋だった。
「……受け取れ。詳しい話はあとだ。これを開ければ、わかる」
砡は無意識に震える手で、それを受け取った。
胸の奥で、ざわめきがいっそう強くなるのを感じながら。
遠く、廊下の奥で足音がした。女人はそれを聞きつけると、低く囁く。
「また来る」
そして影のように素早く姿を消した。
包みを見つめながら、砡はじっと考える。左手につけられた奴隷紋が疼く気がした。
砡は慎重に包みを開いた。
中から現れたのは、一枚の書状。そして、見覚えのある装飾の施された小さな鍵。
「これは……」
僅かに震える指で書状を広げる。そこに記されていた言葉を目にした瞬間、砡の血の気が引いた。
——これが王座争いか!
◇◇◇◇◇◇
一方、蒼龍は別室で玄鴉《げんあ》と向き合っていた。蒼龍にとって面倒な相手は、砡の部屋で時間を潰した後も待っていたらしい。
「……それで? 俺をからかって楽しんだだけじゃないだろう。わざわざ来た理由は何だ」
蒼龍は静かに問いかけた。
燭台の淡い光が、彼の横顔に陰影を落とす。表情は微動だにせず、冷静そのものだった。まるで玄鴉の挑発など取るに足らないものだと言わんばかりに。
一方の玄鴉は、薄く笑みを浮かべながら、指先で漆塗りの卓を弾いた。カン、と小気味よい音が響く。
「はは、そんなに警戒しなくてもいい。俺はただ、お前の出方を見に来ただけさ」
盃を軽く回し、琥珀色の酒が揺れる。玄鴉は楽しげにそれを口に含むと、蒼龍を値踏みするような視線を向けた。
「俺より他の候補者を見ろ。炎煌、煌烈など後ろ楯が大きい。最近は特に派手に動いてるじゃないか」
「あの二人はわかりやすいのさ。他人事だが蒼龍、お前もその一人だろう?」
玄鴉は、揺れる燭台の明かりの中で薄く笑う。
「俺は貴族の支持も持たず、宮中のしがらみにも興味はない。ただ、成すべきことを成しているだけだ」
蒼龍は淡々と答えた。
「ふむ……。では、成すべきことの先に、王座はないと?」
「……どうだろうな」
蒼龍は視線を伏せ、杯を揺らした。淡く波打つ酒の表面に、微かな迷いが映る。
玄鴉は、その瞬間を見逃さない。
「お前は狙っていないつもりでも、周囲はそうは見ないぞ。特に、龍命石の行方を追っていたことは——」
「俺が動けば、そういう目で見られるのはわかっている」
蒼龍は言葉を切り、杯を置いた。
「だが、俺が王座を狙うかどうかは、俺が決めることだ」
玄鴉は口元を歪めた。
「——本当にそうか?」
静寂が落ちる。燭台の灯りが、二人の影を長く伸ばしていた。
「それとも……砡のために、王座を狙う気になったか?」
蒼龍の指が、僅かに杯の縁を擦る。
「……くだらない」
「そうは見えないぞ、蒼龍」
玄鴉は目を細め、ゆっくりと酒を飲んだ。
その瞳の奥には、ただの政争ではない、別の興味が光っていた。
石に宿るモノ→謀りごと
無銘府地下。龍山國宮殿より南東へ三十六里下る。かつての刑場跡に建てられた慰霊のための場所である。しかし実際は、密やかに|調《しらべ》をするのに適した場所とされ使われていた。
|八焔《バオヤン》は、石を見つめていた。
厳密には、それが【石】であるかどうかも定かではない。ただの石っころではないことは確かだ。
「これが……|龍命石《りゅうめいせき》、か」
蒼龍から直々に命じられ、彼はこの石を調べていた。
龍命石――
それは古代この地に生きた龍の血が染み込み、長い時を経て霊力を宿したとされる希少な鉱石である。その力は計り知れず、持つ者に強大な加護をもたらすといわれる。始祖帝君が五龍を倒したのもその力が故だと。
だが、八焔の知る限り、加護など眉唾物だ。代々龍命石を受け継いできたのは、王家だ。それが本当であるなら、前王が病死、ましてや皇太子がすぐ後に落命することなどなかっただろう。
八焔個人としては、むしろ縁起が悪いと捨ててしまいたい代物だが、それが王座争いに関わる代物となるならば、慎重に扱わねばならない。
「八焔殿、これが例の石か?」
声をかけたのは、蒼龍の配下である|郎中《ろうじゅう》の一人だった。八焔は頷く。
「そうだ。だが、何も感じないな。広義では、王位を継ぐ者だけがわかるとされたが本当かどうか」
彼は指で石をなぞった。その表面は滑らかで、わずかに冷たい。
「しかし、刑部尚書が綿密に調べた経路だと聞きましたよ。これ以上ない程確かでは」
「そうだな残念だ」
残念?と郎中は繰り返す。
「私では、王になり得ないようだ」
おどけたように言う八焔に、郎中が飛び上がって周囲を見渡した。
「不敬ですぞ!八焔殿っ、謀反と取られてもおかしくない…っ死にたいのですか」
恐れか怒りか、眉を吊り上げて小声でがなる郎中に八焔は肩を竦めながらも、ふっと目を細めた。冗談のように振る舞ったが、心の奥底ではまるで笑っていなかった。
──王位を継ぐ者だけが、この石の力を使える。
そんな言い伝えがあるならば、龍命石は単なる迷信の産物か、それとも何らかの仕掛けが施されているのか。どちらにせよ、王家の象徴として担ぎ上げられたこの石には、多くの者の思惑が絡み合っている。皇太子の死後、石が行方不明になっていたことからも窺える。
誰かがこの石を使って謀を巡らせている。そう考えた時、八焔の脳裏に浮かんだのは、蒼龍と対立する九帝の候補たちだった。
「少しこちらからも探ってみるか」
八焔は腕を組み、思案する。
◇◇◇◇◇◇
砡は、己の手の内にある物を見下ろした。
細やかな布に包まれたそれは、あの女人から渡された鍵である。前主人の部屋奥にある隠し部屋に繋がるものらしい。つけられていた書状には、【真なる石あり】とある。
(この折に、これは……龍命石のことを言っているのか?)
だとすれば、大変なことだ。蒼龍の手に渡った龍命石が偽物である可能性があるのだ。
表立って騒ぎ立てるのは得策ではない。しかし、一人で考え込むには、あまりにも判断がつかぬ話だ。
砡は小さく息を吐き、静かに立ち上がった。
宵闇の中、静かに廊下を進む。どこかで、かすかな笑い声が響いたが、それに足を止めることはなかった。
その時、背後から声がかかった。
「何をしている」
振り返ると、そこに立っていたのは蒼龍だった。
月光を背に受けたその姿は、まるで夜の王のように冷たい気配をまとっている。砡は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えながらも、ゆっくりと頭を垂れた。
「少し夜風に当たりたくて」
「ほお」
蒼龍はじっと砡を見据える。その視線が、砡の手元へと落ちる。
「その手のものは」
砡は、わずかに手を握り締めた。
この品を、蒼龍に見せるべきなのか。あるいは、もう少し慎重にことを運ぶべきか。迷いが、砡の胸中に渦巻いていた。
(見せろと言われるだろうか)
ちら、と窺うが、奪ったりする様子はない。蒼龍の視線は一瞬、砡の仕草を追ったが、それ以上は踏み込んでこない。意外な思いが顔に出ていたのか、蒼龍は僅かに片眉を吊り上げたが、それだけだった。だからだろうか、素直に彼へ言ってみようと思ったのは。
「実は……」
砡は、先程起こった出来事を説明した。
話を聞くと思索するように、蒼龍は腕を組み。黙して庭を眺める。
砡は、先程起こった出来事を説明した。
話を聞くと思索するように、蒼龍は腕を組み、黙して庭を眺める。
「なるほど」
低く呟いた後、蒼龍はしばし沈黙した。
「つまり、その鍵の先にあるものが、本物の龍命石である可能性がある……ということか」
砡は頷く。蒼龍はゆっくりと目を閉じる。思考を巡らせているらしい。夜の冷気が肌を撫で、かすかに衣の裾を揺らした。遠くで虫の鳴く声が響く。
息の詰まりを覚えた頃、蒼龍は、口を開いた。
「この件は慎重に進めねばならん。軽率に動けば、思わぬ者に利用されることとなるやもしれぬ」
静かに、しかし確かな決意を滲ませるように、蒼龍は言葉を紡いだ。
「砡、お前はその鍵をしばらく持っていろ。……誰にも気取られるな」
その言葉に、砡は小さく頷いた。
「俺がずっとついてやるのが一番良いのだろうが、そうはいかん。|去坂《クーバン》をなるべく傍に置き、何かあればすぐ伝えよ」
「はい。承知いたしました」
「それはそうと砡。」
蒼龍がそう言葉を続けると、砡は無意識に背筋を伸ばした。その仕草に、蒼龍は微かに目を細める。
「そう警戒するな。夜風に当たりに来たといったな。少し散策をしないか」
「え?」
「入ったばかりでは、不便もあるだろう。この二十八宮(蒼龍の居所)を案内できないかと思ってな」
その声音は、今までのものとは違い 柔らかい響きを帯びていた。
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