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第3話
寓話と神話
月明かりが静かに庭を照らし、風が枝葉を揺らす。夜気は冷たく、けれど肌を刺すほどではない。
砡は、行灯を提げた蒼龍に連れられ居所で最も広い庭に来ていた。足元に敷かれた白砂が、ぼんやりと夜の光を反射している。
自分の屋敷故か、砡と蒼龍だけいるこの空間は、どこか寂しい。
「|砡《ぎょく》、始祖が五龍を討伐したという話を知っているか?」
「?はい。『五龍討伐』なら、この国に住んでいる者なら、誰でも知っています。」
『五龍討伐』龍山國始祖の建国神話だ。始祖による龍退治。まだ普通の子供だった頃、寝物語に母から聞かされた。大抵の者がそうであるだろう。
蒼龍は静かに首を縦に振った。
「|二十八宮《ここ》は、かつて始祖が倒した五龍が一つ。|天門族《てんもんぞく》が住んでいた場所だ」
「天門族……?龍は、群れをなしていたのですか?」
砡は、幼い頃に聞かされた伝承を思い起こす。五つの龍を討伐し、龍山國を築いた始祖の偉業。それはあくまで神話のように語られていた。しかし蒼龍の言葉には、神話の幻想を打ち砕くような響きがあった。
「違う。龍とは、当時敵対していた異民族の暗喩だ」
「!」
砡は息をのんだ。そんな話は、今まで聞いたことがない。
蒼龍は庭の奥へと足を進め、その中央で立ち止まる。
「その証拠は、宮殿の倉院に残されている。だが、民間に流布された伝承は、禁忌を破った理由を正当化するために脚色されたものだ。異民族を弒し、彼らの土地を奪い、国を築いた——それが事実だと知れたら反感を買うからな」
「なぜ、そんなことを……?」
砡の問いに、蒼龍は黙って庭の片隅へと歩み寄った。そして、石碑の前で膝をつき、行灯の灯りを翳した。
そこに刻まれた文字が、淡い光に浮かび上がる。
【天門殿】とある。
「……これは?」
「その答えだ。負けた異民族の娘を、側室に召し上げたんだ」
「負けた異民族を……?取引、ですか?」
蒼龍は静かに頷いた。
「天門族は龍山に眠る龍への信仰が篤かった。彼らの民を迂闊に迫害すれば、信仰を利用した大きな反乱が起こる可能性があった。だから、始祖は異民族の娘を側室として迎え入れた。懐柔のためにな」
「……その方は、どうなったのです?」
「始祖の子を身籠もり、女児を産んだ」
「!」
「始祖は、この石碑を建て、ここに公主を住まわせた。しかし、その子は『九帝』には数えられなかった」
その言葉を聞き、砡は胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。
(でも、そうするとどうして蒼龍はここに?)
「つまり……始祖は、自らの血を引く娘を王族として認めなかったのですか?」
「そうだ。血筋の正当性を疑われるのを避けるためだろう」
蒼龍は立ち上がり、行灯をかざす。その光に照らされた彼の横顔は、まるで石像のように無機質だった。
「——その末裔が、俺だ」
「……!!」
砡の胸がざわめいた。
(そう、なのか。やはり)
異民族である公主は敬遠されていた。そこにわざわざ居を構えているのだ根深い事情があるのだと思った。
蒼龍の目が、夜の闇の中で金色に輝いていた。その色を見た瞬間、砡は理解した。夜に猛禽の如く光る黄玉の瞳——かつては異民族の証とされたその色。
「俺は、九帝一族である父と公主の血を継ぐとされる母から産まれた。とはいえ、その成り行きから、前王には敬遠されていた。異民族の血が台頭することを恐れたのだろう。しかし、前王は崩御し、その皇太子もいない」
砡は、蒼龍の言葉を静かに噛み締めた。
「……なぜ、私にこの話を?」
しばらくの沈黙の後、砡はそう問いかけた。歴史の真実を知ることは、国家において時に重すぎる荷となる。ましてや、砡は王位争奪戦において何者でもない——はずだった。
「お前は、俺が妻にしたからな」
蒼龍の声が微かに揺れたように聞こえる。
覇気を纏った普段の姿からは、想像できない孤独を背負う男がそこにいた。
「納得できないか」
「いえ、その意外だったものでしたから」
急に胸元が熱くなり、砡は上衣の衿を引き寄せた。
この男でも、そんな感情をもつことがあるのか。
「九帝に数えられようと、俺とて若輩者の人であることに変わらない」
蒼龍は、行灯を握り直し、ゆるりと背を向けた。
「冷える前に戻るぞ」
「はい」
再び静寂が訪れた庭を後にすると、寝室に戻る途中、蒼龍の言葉を反芻しながら彼の後ろを歩いた。行灯の灯りが揺れ、蒼龍の長い影が廊下に伸びる。
彼は九帝一族でありながら、異民族の血を引いている。だからこそ、前王から敬遠されていた。
その告白を受けた今も、蒼龍は変わらず堂々とした背を見せている。自分の道を生きることに揺るぎないのだろう。
政変に巻き込まれ、家族を失い奴隷へ落ちた自分。そんな自分は、ふってわいた【妻】という立場に乗り、前の主人と関わりあいのある人間が現れただけで動転してしまうぐらい卑小だ。
(どうすれば、こんな風になれる?)
「貴方は、今の自分をどう思いますか」
「なんだ、問答か」
そうだな、と一言おき。
「どうもしない。母方から受け継いだ血があるからといって、忌むことも称賛することもない。俺は民のため、己のためやるべきことをやる。――ただそれだけだ」
迷いのない声で、答えはすぐに返された。だが、と蒼龍は続ける。
「お前は、どうなのか知りたい。砡よ。【妻】は苦しいか」
「……いいえ。私は……貴方の横に立ちたい」
その言葉は、夜の闇の中に静かに溶けていった。
三人目と四人目
「俺の隣に立ちたい?」
「はい」
蒼龍は微かに目を細めた。砡の返答に驚いたようにも、あるいは興味をそそられたようにも見える。
しかし、すぐにその表情は消え、冷静な声で問い返した。
「俺の隣に立つというのは、どういう意味で言った?」
砡は迷わなかった。
「私は、もうここに生きるしかありません」
蒼龍は黙って聞いていた。砡は続ける。
「これまで、ただ耐えて生きてきました。でもそれだけだった。そんなのは、もう嫌なんです。知らないなんて嫌だ。知りたい、知って強くなりたい。」
貴方のように。
蒼龍は少しの間、沈黙した後、ゆっくりと歩み寄った。そして砡を見下ろしながら口を開いた。
「なるほど。面白いことを言う。だが、お前の言う【知る】とは何を指している?」
「私は……」
拳に力を込めて思いの丈を言おうとした矢先、不意に廊下を走る慌ただしい音が聞こえた。
「蒼龍様!蒼龍様!」
現れたのは、宦官の|去坂《クーバン》である。相当急いだのか老父の額に汗が滲み出ている。
「なんだ喧しいぞ」
「も、申し訳ございません。急ぎお伝えせねばと|八焔《バオヤン》様が……っ」
八焔といえば、牢を出た際に出会った官吏ではなかったか。蒼龍も腹心の名前に態度を改める。
「申せ」
「お調べされていた宝石問屋が全焼したとのことです!」
去坂の言葉がその場の空気を凍らせた。
砡の心臓が強く脈打つ。
「宝石問屋、それって……」
それが、どこの店を指しているのか悟った。かつて自分が奴隷としていた、あの店だ。
目の前が霞む。深く暗い檻、飢えに苦しむ奴隷たちの呻き声、伸ばされる複数の手。散らばる銀塊。冷たい目をした商人の姿が、脳裏に蘇る。
あの場所が……焼けた?
世界が傾くような感覚に襲われた。
蒼龍の視線が砡に向けられる。
「お前……どうした?」
砡は唇を噛み、すぐに表情を整えた。
「いえ、大丈夫です」
だが、蒼龍の目はごまかせない。
「……そんな顔をして大丈夫なものか」
蒼龍は、羽織っていた上着を脱ぐと砡に掛ける。夜風を遮る厚い生地が、まるで砡を守るようだった。
驚いて返そうとするが、視線を逸らされてしまう。
「ともかく、現場へ向かう」
「っ私も行きます」
砡は即座に言った。
蒼龍は少し目を細めたが、反対はしなかった。
「馬車を用意しろ」
去坂が再び駆けていくのを見送りながら、砡は拳を握りしめる。
今、何が起きているのか知りたい。
きっとこれは、偶然じゃない。
夜の街は、焦げた臭いに包まれていた。
宝石問屋の店があった場所には、焼け焦げた瓦礫が積み重なり、燻った煙が立つ。灰が雪のように舞い兵たちが周囲を固め、消火の名残りで地面にはまだ水が流れていた。
蒼龍と砡が到着すると、すでに八焔ともう一人の男が待っていた。
「お前も来たか、蒼龍」
「|煌烈《こうれつ》」
|煌烈《こうれつ》。
九帝の一人であり、蒼龍と同じく武官だが、武断派で、その手法は苛烈。部下への統制も極端に厳しいという。
(たしか、王位有力候補の一人だ)
煌烈は、砡に一瞬目をやるが興味なさげに視線を戻した。蒼龍とは違う威圧感がある煌烈であったためそれには肩を下ろした。
砡は、去坂に教えられた有力者の名前を思い出す中、煌烈は焦げた建物を背に、腕を組んでいた。
「……どういう状況だ」
「ここは、お前が先日検挙したらしいな。見ての通りだ。燃え尽きた」
煌烈は瓦礫を蹴り、焼け焦げた死体を示した。
藁敷に乗せられた遺体は、五体。男女の区別がつかぬほどだった。
「ここにいた者の殆どは焼死。だが、こいつだけは違う」
少し離して安置されていた藁敷を捲る。
指し示された六体目の死体は、喉を深く斬られていた。焼け出され煤で黒くなっているが面相がわかる程度である。ただし、それが違和感に繋がっている。喉の切り口があまりに鋭いせいか素人の砡であってもそれが不自然であることが知れた。
煌烈が蒼龍へ推論を述べる。
「死体の状況から、燃え広がる前に外に出ていたんだろう。そして斬られた、あるいはこいつが放火の犯人か。面は?」
蒼龍は頭を横に振った。砡も覗き見たが知らぬ顔だ。
「宝石問屋の奉公人は、全員捕えたわけではない……何人かは聴取が終われば解放している。まっとうな取引先もあったようだからな。」
「言い換えれば、まっとうでない奴らもいるわけだ。そいつらの検挙は?」
「まだだ。というより、相手先はわかるが充分な立証ができなかった。」
蒼龍の目が険しくなる。
「なるほど。ならば証拠隠滅のための放火か」
煌烈は口の端を歪め、自身の肩を揉む。
何もかも燃えてしまったというのか、手の内にある秘密の部屋の鍵もこれでは意味がない。あそこにあったかもしれない石はどうなったのか。炭の瓦礫が広がる場所を一刻も早く探さねばならない。また、その価値を考えると周囲にばれるわけにもいかない。
息が詰まりそうになる。
(もしかしたら、犯人は、石が目的で……?)
石のことを知る蒼龍とて気にならないはずはないのに、静かに口を開いた。
「この炎の背後にいる者を探らねば」
煌烈がその言葉に口元を歪める。
「ああ。だが、特にこんなことをしそうなのが一人いるだろう」
煌烈の言葉に、夜の闇が静かにうねったような気がした。煌烈と蒼龍が込む中、砡は一人ついていけず眉をしかめる。
(一体誰のことを……)
「臆測で会話をするつもりはない」
しかし、その沈黙を破り蒼龍は否定した。
八焔、と低く呼んだ蒼龍の目が冷える。
「更に詳しい調査を命じる。誰かが ‘手を回した’ のか、それともただの事故か……どちらにせよ、背後を探れ」
「はっ」
八焔が去ると、煌烈が蒼龍を見た。
「御史台きっての遣り手もお前の手駒か」
「九帝としての仕事をしているだけだ」
蒼龍の静かな声音に、煌烈は鼻を鳴らした。
「真面目なこった」
その時——。
シャン、シャン。
騒がしい現場に場違いな装飾音がした。
煌烈が顔をしかめる。
「……チッ、 噂をすれば‘あいつ’ も出てきたか」
蒼龍は振り返らず、ただ静かに言う。
「|炎煌《えんこう》」
闇の中から現れたのは、金糸を織り込んだ華やかな衣を纏った男だった。黒い長髪を結いあげもせず、ゆったりと垂らし小さな銀の二枚貝がいくつも散らしてある。
|炎煌《えんこう》。
九帝の一人にして、莫大な財を持つ策謀家。
彼は口元に微笑を浮かべながら、ゆったりと近づいてきた。
「蒼龍殿、煌烈殿。お久しぶりです」
軽やかな声。その声音とは裏腹に、彼の目は冷たい光を帯びている。
「おやおや、これはまた ‘物騒な事件’ が起きましたね」
焦げ臭さが嫌になるのか、炎煌は、袖で鼻を覆いつつ瓦礫になった宝石問屋を見つめる。
煌烈が腕を組み睨み付けた。
「お前が言うと、全部 ‘仕組まれたもの’ に聞こえるな」
炎煌は笑った。
「そんな、私を疑わないでください。私はただ ‘良い取引’ をしたいだけです」
その目が、砡を捉えた。
「……?」
興味を持ったような、値踏みするような目。
砡が無意識に肩を強張らせる。|あれ《..》に似た目を見たことがある。奴隷であった間、
「蒼龍殿。そちらの ‘少年’、何か ‘面白い価値’ をお持ちなのでは?」
その言葉に、ぞわりと背筋を這い上がる気持ち悪さを感じる。唐突に蒼龍が砡の手を取り引き寄せた。
(蒼龍様!?)
硬い剣|胼胝《たこ》のある太い指が絡むと脈拍が早くなる。
(どうして?)
砡が戸惑い動けないでいる間に、蒼龍は目を細め威嚇した。
「炎煌、お前が ‘手を出す’ 相手ではない」
「ふふ、では ‘今は’ やめておきましょう」
炎煌は笑いながらも、砡から視線を外さなかった。
(炎煌、気持ち悪い人だ……。でも蒼龍様、私を庇ってくれた?)
励まされたような気になり、砡は胸が高鳴った。
ここで生きるなら——いずれ、有力者たちとも向き合わなければならない。強くならねば。
そして、その様子を夜の影の中から、もう一人の男が見ていた。
|玄鴉《げんあ》は焼け跡を見つめながら、低く呟く。
「…… さて、どう出るかな」
不思議な出会い
雨は、静かに降り続いていた。
軒先から落ちる雨粒が、土を濡らして細かな波紋を描く。庭の木々は重たげに枝を垂らし、苦しそうだ。
それは、まるで砡の心が形になったかのようだった。
砡は縁側に腰を下ろし、雨音に耳を澄ませながらぼんやりと外を眺めていた。
蒼龍の邸での暮らしは、少しずつ馴染み始めている。けれど、その平穏に浸るほどに、あの火事で失ったもの、己の存在の曖昧さが浮き彫りになるのだった。
──|蒼龍《そうりゅう》の妻。
そんな言葉が、砡の耳に幾度となく囁かれている。ここへ来た当初は、蒼龍と去坂だけが砡の知る人物だった。しかし、あの火事で他の九帝に遭遇して以降、この屋敷内でも噂になったのだ。奴隷から引き揚げた妻。蒼龍様のご乱心。恥知らずの詐欺師。
(当たり前……か)
この館に仕える者達にとって、蒼龍は、頂に立つ高貴な存在だ。九帝の一人で、ましてや有力者である。そんな人物の横にある日突然【奴隷が妻となる】と知らされたら。
(誰だって猜疑心を懐く)
噂は、屋敷の下男や侍女たちの間に広がり、嫌がらせこそないものの、視線は厳しい。
「身分も知れぬ者が、いつまであの座にいられるか」
雨音の隙間から、そんな声が今も聞こえてくる気がした。
これは、偽装結婚だ。愛などではない――ないのだ。
考え始めると、胸の奥に重たいものが沈んでいく。ふと、砡はそっと己の手を見つめた。
薄く白い肌に雨の冷気が染み込むようだった。指先をわずかに握りしめると、蒼龍が庇ってくれたあの瞬間が浮かんだ。頬に熱が集まるのを自覚したくなくて、立てた膝に顔を埋めた。
「|砡《ぎょく》様。雨の日は心が沈むものですが、甘い菓子は気持ちを和らげてくれますよ」
かけられた声に、我に返り顔を上げる。
そこにいたのは、|去坂《クーバン》であった。盆に菓子を乗せている。|蜂蜜糕《ほうみつこう》だ。
「蜂蜜糕は、蜂蜜をたっぷり使って蒸しあげております。美味しゅうございますよ」
「はちみつ……好きです。あ、お茶を入れましょう」
何にしようか悩み、菊花茶にした。
風通しのよい棚上に置いた竹籠を手に取る。蜂蜜糕が蜂蜜を使っているので、今回は蜜漬けでないものを選んだ。併せて茶器も運ぶ。
「去坂も一緒に飲もう」
「よろしいのでございますか」
「話し相手になってほしいんだ」
では、と下座に座る去坂に微笑して、茶器に湯を注いだ。温まる器からお湯を捨て、菊花と湯を淹れた。
「お上手になられましたね」
「去坂が丁寧に教えてくれたから身に付いたんだ」
ご謙遜をと、軽く首を振りながらも、この老父は、嬉しそうであった。
雨で冷えた体に茶器の温もりが心地いい。
取り留めもない話から始まり、砡は暫し、団欒を楽しんだ。
「蜂蜜糕は、去坂が作ったの?」
「ふふ、私も昔厨房を通ったことがありますが。今はめっきり。こちらは、市内の有名な茶館で仕入れたものでございます」
「そうなんだ。何ていうお店?」
「|金華彩《きんかさい》です。茶が有名ですが、点心を始め菓子が豊富なので宮中でも人気でして」
へぇ、と返しながら、蜂蜜糕をつつく。口の中に広がる甘味が何とも言えず、頬を弛める。それを去坂が見ていたので、口許を引き締めた。恥ずかしいものを見られた。
(男が菓子一つでニヤつくなんて)
誤魔化すように、苦味を求めて器に残った菊花茶を飲み干した。
数日後、朝の経書を勉め終えた砡の元へ、忙しいはずの蒼龍がやって来た。寝る間が短くとも武官姿は崩れることのない男であるが、顔を見れば流石に血色が悪い。
「どうなさいました?」
お体は、と続けようか迷い止める。自他共に厳しい蒼龍は、そんな尋ね方をすれば、否定して終わりなはずだ。
「少し寝たい。寝所に案内してくれ」
「えっ」
「なんだ、駄目なのか」
「いえ!そんな……ご、ご案内します」
蒼龍の発言に驚いて、否定したように声を出してしまったが、何とか寝台のある部屋へ案内する。
応接間からその後ろの部屋へ向かう。四季の描かれた屏風で仕切られたその部屋には、窓がある。
まだ昼前なため、窓から注ぐ光は優しく床に落ちていた。木の香りを残した寝台には、白絹の布団が端正に整えられ、枕元にはささやかな香炉が鎮座している。夜半焚く、白檀の香りも日中となればない。
「香を焚きましょうか」
「いや、今はない方がありがたい」
ふらり、と寝台に近付いた蒼龍は、そのまま倒れ寝入ってしまった。僅か呆気にとられたが、邪魔をしないよう掛け布をすると部屋から出る。
今、蒼龍といるとどうにも緊張してならない。
こういう時に限って誰も訪れない。いや、砡の部屋を訪ねる者など、蒼龍か去坂くらいだ。下男がたまに訪れるが、言付ける主は今は後ろで寝ている。
座敷に落ち着かなく腰掛けた砡の目は、寝室と出入口を何度も往復して、やがて諦めて瞼を閉じた。
「刺繍でもするかな……」
腰を上げ、棚に仕舞われた箱を取ってくる。
妃の役割を学ぶ中で、勉学だけでなく芸事も必要だった。女の仕事と普通の男なら落胆したかもしれないが、砡は奴隷時代何でもやらされたから然程苦ではない。
蓮の彫り物がされた針箱を開け、現状を忘れる為にとりかかるのであった。
がたり、と隣室からの物音で砡は、意識を刺繍から離した。どうやら没頭していたらしい。
再び屏風の向こうへ行くと、寝台で前頭を押さえる蒼龍がいた。
「どれくらい寝ていた?」
「正午の鐘は、鳴っておりませんから。半刻ほどかと」※半刻は、約一時間。
そうか。と蒼龍は呟き黙ってしまったので、砡は体調が悪いのかと近付く。すると、ぐっと腰を引かれ目の前に倒れ込んでしまった。
「あっ!」
「少し栄養をつけさせてやる」
蒼龍の腕が砡の腰にまわり、砡はその力強い筋肉に安心する。だが、そんな心を他所に彼はその肉付きを確認しただけのようだった。骨と皮まではいかなくとも、何とも頼りない様相に呆れたのだろうか。
「栄養ですか?」
「そうだ。金華彩へ行くぞ、砡」
金華彩
|金華彩《きんかさい》へ行くぞ。
突然の言葉に|砡《ぎょく》は、瞬きで返した。驚いたのである。どう返していいか相手の様子を伺うが、|蒼龍《そうりゅう》は仏頂面で黙っているだけだ。困ってしまって、「あの」とだけ切り出すと口元を曲げて「嫌なのか」と聞かれた。
「いえ。でも、蒼龍様はお忙しいのでは」
「忙しいと言っても、流石に宮中やここに引き込もっているばかりではない。半日の休暇くらいとる。それで、どうなのだ?」
「……はい。それなら」
そして、砡は、蒼龍によって久々に市内へ降り立つことになった。
二日後、|去坂《クーバン》の用意した淡い青磁色をした曲裾袍を身に纏った。銀糸の波紋が刺繍された袍は、派手さはないものの、繊細な美しさを宿していた。耳飾りや簪も身に付けていたが、あくまで控えめにされている。
去坂は、妻として蒼龍と出掛けるのだからと、凝った装飾のものも出してくれたが、砡は奴隷生活が長く落ち着かないと断った。外聞が気になったのもあるかもしれない。
馬車の前で蒼龍が待っていた。
いつもの朱色の武官服に、黒の|披風《ひふう》を羽織り、威厳ある姿によく似合っていた。
(近寄りにくい……)
と砡が思ってしまう程に威圧感もある。
中々近付いて来ない砡を訝しんだのか、蒼龍の方が声をかけたので、観念して走り寄った。
「遅れて申し訳ありません」
「いや、今程着いた所だ。どうした?」
「いえ、緊張してしまって」
「?別におかしなところなどない。よく似合っている」
二人の話は、噛み合っていなかったが、思いもよらず聞けた褒め言葉に、砡は少し俯いて誤魔化した。
蒼龍はそんな砡の様子に、ほんのわずかに首を傾げたものの、それ以上は何も言わず馬車へと促した。
「行くぞ」
「はい」
砡は頷き、蒼龍に続いて馬車へ乗り込む。外から見れば普通の馬車だが、内部は簡素ながらも丁寧に仕立てられた内装が施されていた。軋むことなく進む車輪の音に、砡はほっと息をつく。
窓から差し込む光に揺れる景色を眺めていると、やがて蒼龍へ目を遣った。こちらへ視線を向けるわけでもなく、ただ静かに座っている。
砡は先ほどの言葉を思い返していた。
──よく似合っている。
それは、あまりにも唐突だった。
(あの方が、私を褒めるなど……)
蒼龍は厳格で、必要以上の言葉を口にしない。ましてや感情を表に出すことはほとんどない。それなのに、何のてらいもなく砡を褒めた。その事実がかえって胸をざわつかせる。しかし、いつまでも黙っているわけにもいかない。少しでも緊張をほぐそうと、砡は思い切って話しかけた。
「あの、金華彩というのは、どのような場所なのでしょうか」
「行けば分かる。騒がしいところだ」
「……そうですか」
蒼龍の言葉はいつも簡潔で無駄がない。その分、話を続けるのが難しい。 余計なことを言い、嫌われるのは避けたかった。だから、砡は、唾と共に続く言葉を呑み込み無理やり微笑んだ。
それを見ていた蒼龍は、取り繕うように言葉を足した。
「すまない、言葉が悪かったな。ただあの茶館は、聞くよりも見た方がわかりやすい。扱う物は良いものなんだが」
「!そうなのですね。お菓子がいいとは伺っていたのですが」
「去坂か?」
はい。と砡が答えると蒼龍は、ふと視線を伏せ、何か考えているようだった。けれど結局、再び口を閉ざしてしまう。
「甘い菓子や点心が揃っている。店主に言って一通り出させてやろう」
「えっ、そんなに食べれるでしょうか」
「食べきれなければ、持ち帰ればいい」
そんなに食べられるとは思えんが、少しくらいなら楽しめるだろう。?とからかわれ、砡はまた赤面することになった。歓談する二人を乗せた馬車は静かに揺れながら、市の喧騒へと向かっていく。
馬車は石畳をゆっくりと進み、やがて市の賑わいが聞こえてきた。遠くからでも分かる活気に満ちた声、行き交う人々のざわめき、香ばしい焼き物の香りが風に乗って漂ってくる。
金華彩は、市内でも特に栄えた一角にあった。周囲の店々は色とりどりの布を軒先に掲げ、黄金や翡翠の装飾が施された看板が立ち並んでいる。その名の通り、華やかさを誇る場所だった。 また、籠を抱えた商人や、綺麗に着飾った客たちが行き交っている。露店では甘い果実や焼き菓子が並べられ、子どもたちが笑い声をあげながら駆け回っていた。
一際目を引くのは、金華彩の正面にそびえる楼閣である。二階建ての造りは深紅の柱と黒漆の梁で構成され、屋根には金箔が散りばめられている。
入口には鮮やかな緋色の幕が掛かり、金糸で「金華彩」と見事に刺繍されている。左右には大きな朱の灯籠が据えられ、昼間でも煌びやかさを際立たせていた。
「……立派なところですね」
砡は思わず感嘆の声を漏らす。
「それなりに名のある店だからな」
蒼龍は淡々とした口調で答えたが、それは慣れているからだろうと砡は思った。店構えからして貴族や高官も足を運ぶような格式がある。
人の波は途切れることなく金華彩へ流れる。
しかし、そんな賑わいの中でも、蒼龍の存在は際立っていた。黒の披風を翻しながら馬車を降りると、自然と人々の視線が集まる。それに気づいていながらも、彼はまるで意に介さないように堂々とした足取りで歩み出した。
「砡、行くぞ」
その一言と共に差し出された手を慌てて取り、馬車を降りる。「あれが例の……」と聞こえるのは、客の中に貴婦人や官吏、武官が紛れているからか。蒼龍と共に注目を浴びる申し訳なさを感じながらも店の門を潜った。
店へ入ると、行き交う客の間を縫って、店員がすぐにやってきた。
「いらっしゃいませ。蒼龍様、砡様」
「!」
名乗りもしていないのに、砡の名前を呼ばれたことに目を見開く。しかし、蒼龍は、当たり前のように店員へ案内を頼んでいる。ここでは、普通のことらしい。
案内された二階。白檀の香がほのかに漂う静謐な空間が広がっている。豪奢な調度品が並ぶ一方で、表の華やかな賑わいとは対照的に、選ばれた者しか立ち入れない落ち着いた雰囲気が漂っていた。下には大勢いた客も、今は蒼龍と砡、それに僅かに他の気配があるだけだ。
「蒼龍様、ここは茶館ではないのですか?」
「茶館だ。表向きはな」
戸惑う砡の腰に蒼龍の腕が回る。触り方は柔いが護るようにしっかりと抱かれる。
「間違えて違う部屋へ入ると事に成る。俺達の部屋まで我慢しろ」
戸惑ったまま砡は、付いていくしかなかった。
いくつかの部屋の前を通った後、漸く立ち止まる。
「こちらでお寛ぎください」
二人が通されたのは、上質な絹張りの簾が垂れる個室だった。椅子はなく、座敷に黒檀の卓が置かれその縁には金の細工がされていた。窓際には外が一望出来るように造られた広縁があり。外下の賑やかな声がわずかに聞こえてくる。
存外風通しのよい場所に、砡は肩の力を抜けるのがわかった。
蒼龍は何の迷いもなく奥の席に腰を下ろし、腕に抱かれたままの砡もその隣に静かに座る。
「嫌いなものはあるか?」
「ありません」
「では……」
蒼龍が某か頼むと、店員は一つ頷き無言で下がった。隣り合う二人は暫し無言のまま過ごしたが、やはり砡が堪えきれず口を開いた。
「一階と二階では、随分違うのですね」
「ここは、高官達のための場だ。余計な耳目を避けるために造られている」
窓を指差し、「そこも閉じれば、声が通らん」
その言葉に砡は、悪寒を感じ眉頭を寄せる。前主人を思い出したのだ。気付いた蒼龍からすぐに謝られた。
「すまん。俺はどうも無神経なところがある」
「そんなっ、いつまでも引き摺る私が悪いのです。せっかくこちらへ連れてきてくださったのに」
微妙な雰囲気になり、更に居心地が悪くなった頃、幸い店員の声がかかった。頼んでいたものが来たらしい。蒼龍も息を吐き安堵したのが見える。
卓上に並べられていくのは、煌びやかな菓子たちだ。蜂蜜団子、蜜柑蜜羊羮、花蜜酥、百花蜜羹、蜂蜜花糕、蜂蜜千層酥……。
全て並べ置いた店員は、お茶を添えて下がったが、砡は感嘆すると同時に、ある偏りが気になっていた。
「ここは蜂蜜が専門なのですか?」
「?違うが。お前、蜂蜜が好きなのだろう」
「!」
砡は、それが蒼龍の不器用な心配りと知り、花開くように胸が綻ぶのを感じた。心がふわりと温かくなった。じんわりと広がるこの感情が、幸せというものなのだろうか。嬉しい、幸せ、そんな風に思ったのは、いつぶりだったろうか。
「はい……はい好きです……蒼龍様」
ありがとうございます。と、砡は涙が溢れそうになる目を細めた。
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