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番外編 星には願わない
それはお盆真っ只中の土曜日、瑠生の家で二人で夕食を取ったあとのことだった。
「なあ、これからドライブ行かねぇ?」
聖斗からの問いかけに瑠生は目を丸くした。
「今からか?」
時間は午後八時過ぎ。
まだ不眠症が治っていない瑠生は眠るための準備を始める頃だ。それは聖斗もわかっているはず。
だから、復縁してからはまだ一度も夜に出かけたことはなかった。
「ドライブって、車で来てたのか?」
「ああ」
頷いた聖斗の用意周到さに瑠生はますます首を傾げた。
駅の近くに住んでいるからと、普段の聖斗は電車移動だ。それは瑠生の家に来る時も基本的には変わらない。
「今日って何かあったか?」
記念日とか何か思い出のある日だったろうか。それなら特別な夜のドライブというのも理解できる。
が、記憶を探っても瑠生には特に思い当たることがない。
不思議そうな顔をする瑠生に、聖斗は曖昧に笑った。
「あるっちゃあるけど、大したことじゃねぇよ。気が進まねぇならいいんだ」
「いや、行くよ」
瑠生は咄嗟にそう答えた。
聖斗が何の意味もなく夜の外出に誘うはずがない。それが何なのか知りたいと思ったのだ。
「じゃあ何か上に羽織るもん持ってきてくれ」
「この暑いのにか?」
「標高が高い所だから少し肌寒いらしい」
「ふうん」
――標高が高い所。
海辺を走って夜景を見るとか、そういうことではないようだ。
聖斗の意図はわからないが、瑠生は言われた通りにクローゼットから薄手のカーディガンを取り出した。
「んじゃ出発!」
二人連れ立って玄関に行くと、ここでもサンダルを履こうとした瑠生に「スニーカーの方がいい」と聖斗が言う。
瑠生はまたもや訳がわからないままスニーカーを履くことになり、一旦、部屋に戻って靴下を取ってきた。仕事以外ではできるだけ薄着でいたいが仕方ない。
アパートの外へ出ると、じとっとした暑さが二人の肌にまとわりついた。
「あっちぃ…」
「今日も蒸すなぁ」
気候変動が問題になってから久しいが、地球の温暖化が止まる様子は欠片も見られない。
むしろ事態は悪化する一方で、熱帯夜が続く毎日に瑠生は心底うんざりしている。
クーラーの人工的な風が体に合わない瑠生だが、使用時間を減らしたくても、それができないのが現状だ。
近くのコインパーキングに停めてあった聖斗の愛車である赤のミニバンに乗り込むと、中も想像した通りの暑さだった。
フロントにはサンシェードを、他の窓には透過性のある遮熱シートを付けているが、それでもやはり熱がこもるのを完全に防ぐことはできない。
聖斗はエンジンをかけて、全ての窓を全開にした。
風速一メートルの風を浴びると体感温度は一度下がると言われている。こうなると走り出した方が手っ取り早く涼しくなれるのだ。
エアコンを外気循環にしてパーキングを出る。
聖斗は北へ向かってハンドルを回した。
「で、どこ行くんだ?」
今更の質問だが、瑠生は尋ねてみた。
答えが返ってくることはあまり期待していなかったが、意外にも聖斗の口からは初めて聞く地名が出てきた。
「戦ヶ原 ってとこ」
「知らないな」
「こっから二時間くらいの山の上だ」
「二時間? 行って帰ってくるだけでも相当かかるぞ」
「やっぱ止めるか?」
「いや、大丈夫だ」
そこに何があるのかわからないが、聖斗がわざわざ連れていきたいと思うだけの何かがあるのだろう。
どうせ薬を飲まなければ眠れないのだ。たまには夜更ししてもいい。
瑠生が了承したので、聖斗は車の中の熱気が外に出たところで窓を閉め、内気循環に切り替えてクーラーをつけた。
それから無線で接続したスマートフォンから音楽を流す。
最近よく聴いているのはビッグバンドジャズだ。ルミナス・オーケストラという海外のバンドが二人のお気に入りなのだ。
管楽器の軽快な音色に合わせて、車は北へ北へと向かって行った。
出発してから二時間ちょっと。
車は街灯だけがポツポツと灯る山道を走っていた。
暗く寂しい場所なのだが、驚いたことに二人が乗る車の前後にも多くの車が連なっている。
どうやら何かイベントがあるようだと気づいた瑠生だが、それを問うことはしなかった。
聖斗はたぶんサプライズを考えていたのだ。それを台無しにしたくなかった。
山頂に近づいていくと、うっすらと明るい場所が見えてくる。
こんな山奥に集落があるのかと思ったら、道路脇にいくつか看板が立っているのがヘッドライトの光でわかった。
瑠生が目を凝らすと、それは温泉宿の看板だった。集落は温泉街らしい。
だが、聖斗はその温泉街を素通りした。温泉に入ってホッと一息、ということでもないようだ。
温泉街を抜けて数分も走ると、道路沿いに広い駐車場があった。聖斗が駐車場の中に車を進める。
「ここか?」
「ああ」
頷いた聖斗の表情は曇っていた。
他の車も目的地が同じで、あまり空きのない駐車スペースがどんどん埋まっていっているからだ。
「参ったなぁ。考えることはみんな一緒かよ」
聖斗の口から溜息が洩れる。
それでも何とか空きスペースを見つけて車を停め、二人は車外へ降り立った。
「おっ、マジで寒いな」
ひやりとした空気が肌を撫で、瑠生は鳥肌が立った腕をさすった。確かにカーディガンを羽織るくらいがちょうどいい。聖斗はアウトドアブランドの長袖シャツを着込んでいる。
駐車場は人の話し声で賑わっていた。
車を降りた人達はどこへ行くでもなく駐車場に留まり、上空に目を遣っている。
一体、何のイベントだろうと瑠生が思っていたら、どこかから「あ、今見えた!」という声が上がった。
――もしかして。
「流れ星?」
聖斗に目を向けると、悪戯っぽい笑顔が浮かんでいた。
「ペルセウス座流星群だってよ。先月、ネットニュースで見てさ。明日が極大日って言って一番よく見えるらしいんだけど、俺ら明後日は仕事だろ。だから今日な」
「そうか」
瑠生は笑みを返して空を見上げた。
周囲に建物が少ないお陰で真っ暗な空は、山頂に近いだけあって広々と開けている。
その一面に数え切れないほどの無数の星が散らばっていた。一つ一つは小さな光でも、夜空を埋め尽くせば壮観の一言だ。
果てがあるかどうかすらわからない宇宙の彼方から、遥か何千年も前に放たれた光。それが今、こうして地上に届いているというのだから世界は何と壮大なことか。
都会の夜空は明るくて、長らく星空など見ていなかった瑠生はしばし、その光景に見入ってしまった。
「ホントはキャンプとかに行けたらよかったんだけどな」
「無理だろ。夏休みだし、お盆だぞ」
「そ。問い合わせても、どこも予約でいっぱいでさ。それでどっか見やすい場所はないかって調べて、ここ見つけたんだ」
車で行けて駐車場があり、暑さがしのげる所――と考えたのだが、同じように考える人間は当然いるわけで。駐車場に空きがあって本当によかったと聖斗はほっとしていた。
「なあ、この先に遊歩道があるんだよ。ちょっと歩かねぇ?」
「星は?」
「後でもいいだろ」
瑠生を連れ出した理由は流星群だけではない。暑さで参ってしまっている瑠生に少しでも英気を養ってほしいと思ったからだ。
低体温の瑠生は夏が苦手だ。
例年ならば何とか乗り切れるのだが、今年は色々あって瑠生の体調が芳しくない。夏バテが不眠症にも悪影響を及ぼしているらしく、口には出さないが表情はいつもつらそうだ。
ウォーキングはメンタル面に良い効果があるという。ウォーキングに限らず、一定のリズムを刻む運動全般にうつ病を予防する効果が期待できるという研究結果もあるそうだ。
涼しい場所を歩けば気分も上がって、瑠生も少しは元気になるかもしれない。そう思ったのだ。
駐車場を出て遊歩道へ向かう。
この機会に歩いてみようと思う人は他にもいて、数人のグループや家族連れ、カップルらしき男女がある程度の間隔を空けて歩いていた。
聖斗と瑠生もその後を追う。
木の板を繋ぎ合わせた遊歩道が広い高原のずっと先まで続いていた。
足元を照らすものは何もなかったが、月明かりだけで充分だ。晴れた星月夜はこんなにも明るいのだと瑠生は初めて知った。これなら心配せずに歩けそうだ。
「この辺一帯、湿地なんだってよ。国定公園の一部になってるらしい」
「へえ」
「昼間なら高山植物も見れるんだけどな」
「いいよ。だって昼間はそれなりに気温が上がるんだろ?」
「まあな」
「今が涼しくて最高だよ」
瑠生はひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。深呼吸していると冷たく澄んだ空気が体中に染み渡っていき、まさに生き返るような気分だ。
「ありがとな、連れてきてくれて」
「大したことじゃねぇさ」
「でも俺は車持ってないから、お前がいなきゃ来れなかったし、流星群のことだってきっと知らないままだった」
瑠生の興味はもっぱら仕事に関することだ。医学や製薬のニュースばかり読んでいるので、季節のイベントには疎いのだ。
「喜んでもらえて何よりだ」
聖斗は照れくさそうに笑った。
復縁して以来、瑠生は変わった。感謝や想いを真っすぐに伝えてくれて、嬉しいけれどまだ慣れなくて少しこそばゆい。
話しながら歩いていると、遊歩道の先に大きな水面が見えてきた。
「池?にしてはデカいな」
「小さい湖だよ。ここ一周すると一時間ちょっとかかるらしい。散歩するのにちょうどいいと思ってな」
「なるほど。それでスニーカーか」
一時間も歩けば、さすがに素足では冷えてしまうだろう。高原とはいえ虫もいるかもしれない。聖斗の細やかな心遣いが嬉しい。
見上げると美しい星空があり、涼やかな空気に包まれて、隣には大切な人がいてくれる。
それだけで瑠生は、自分が世界一幸せだと感じた。
そんなことくらいで大袈裟な、と言う人もいるだろう。
けれど、好きなだけ高級品を買って、どれだけ贅沢に暮らしたとしても幸せを感じられない人もいる。
それは心が飢えているからだ。
幸福感というのは結局、心の問題なのだ。
どれくらい満たされれば幸せだと思うかは人それぞれだ。瑠生はその幸せの器にもともと入っているのが自己肯定感とか自尊心と呼ばれるものだと思っている。
もともと入っているものが多ければ求めるものは少なくてすむが、それが少ないと求めるものが多くなる。それが物欲だったり承認欲求として表れるのだろうと考えている。
では、どうすれば自己肯定感や自尊心を高められるのか。これは簡単にできることではないと思う。生まれ育った環境や肉親との関わりなど多くの事柄が影響するからだ。
大人になってから自分で自己肯定感を高めるのは難しい。だから人は他者からの愛を求める。愛されることで自分を認められている、必要とされていると感じられるから。
人はきっと生まれながらに愛を求めるようにできているのだろう。
愛さえあれば、なんて綺麗事を言うつもりはない。けれど、愛があれば生きることはこんなにも楽しい。
それに、心が満たされていると他人にも優しくなれる気がする。苛立ちや不寛容は今の瑠生からは遠い。そんな雰囲気を感じ取ったのか、最近は同僚もよく話しかけてくれるようになった。
自分も、自分を取り巻く環境も変わりつつあると瑠生は思う。勿論、良い方向へだ。
瑠生は前後を見回して誰にも見られていないことを確認すると、聖斗の頬にちゅっと口づけた。
聖斗は当然、瑠生の突然の行動に驚愕した。
「どうした、急に」
「何となく」
「……そうか」
ほんのりと微笑む瑠生に、聖斗はそれ以上のことは問わなかった。
瑠生が何を思ったのかはわからないが、周りに人がいる状況でキスをするなど、以前なら考えられなかったことだ。
瑠生が変わったのは、瑠生自身が変わろうと努力してくれているからだ。その気持ちこそが何よりも嬉しい。
互いに幸せを感じながら歩いていると、二人の視界をすっと一筋の光が横切った。
「お!」
「見えたな!」
翌日が極大日とはいえ、何の準備もなしでは肉眼でそう多くの流れ星を見ることはできないという。ただ歩いていただけで見られたのは本当に幸運だ。
「何か願ったか?」
聖斗の問いに瑠生は「そんなヒマあったかよ」とすげなく答えた。
「大体、流れ星が現れて消えるまで一秒すらないぞ。単語一つ言えないだろ」
「夢がねぇなぁ」
瑠生の正論に聖斗が嘆息した。
だが、瑠生は「なくて結構」と意に介さない。
一体いつから、どんな由来があって『流れ星に願い事を言うと叶う』という伝説が生まれたのだろう。
特に興味もないが、あんな儚いものにまで縋ろうとする人々がきっとどこかにいたはずだ。運命は時にひどく残酷だから。
子供の頃だったら『家族に会いたい』とか『テツさんを生き返らせてほしい』とか願ったかもしれない。
けれど、今はそんな実現不可能なことは考えない。それよりも今、自分が幸せに生きていることを伝えたいと思う。
「第一、俺の願いは誰かに叶えてもらうようなもんじゃない」
瑠生はぽつりと呟いた。
それを耳聡く聞きつけた聖斗が「仕事のことか?」と返す。
だが、それに首を振って聖斗を見つめる瑠生の瞳は驚くほど真剣な色をしていた。
「俺の願いは――この先も、ずっとお前と一緒にいることだ」
聖斗の別れ話から端を発した一件は瑠生に手痛い教訓を残した。
それは、恋愛関係というものは双方の努力なしでは続かないということだ。
こればかりは人には頼れない。自分が頑張らなければいけないのだ。
聖斗は驚きで目を見張ったあと、ふっと目を細めた。
「その願いは叶うぜ」
「言い切るんだな」
「だって俺も同じこと願ってるからな」
そう言うと、聖斗はそっと瑠生の指を絡め取った。
「ちょ…っ」
「大丈夫だって。みんな空見るのに夢中で俺らのことなんか気にしてねぇよ」
その言葉に、瑠生はそれもそうだなと納得して、すっと聖斗へ寄り添った。
もし気づかれて何か言われたとしても、どうせ今日この場でしか会わない人たちだ。
そんなどこの誰とも知らない相手を気にするよりも、今のこの二人の時間を大切にしたい。
人生は有限だ。
楽しまなければ勿体ない。
「あー、ここ涼しくてホント最高だな。帰りたくない」
瑠生が切なる声で言うと、聖斗も頷いた。
「定年したら移住するのもアリかもな」
「確かに。けど、歳取ってからの移住って結構難しいらしいぜ。買い物とかな」
「そうか。病院とかも遠いしな」
「それより夏の週末だけ住める制度とかほしいよ」
「そりゃいい。あれば絶対使う」
週末だけでも快適に過ごせたら、と思うがそう都合よくいかないのが現実だ。
都心の暑さを嘆きつつ、二人は高原の涼しさを満喫した。
八月に入ってすぐに引っ越し先が決まった二人は、今後の予定を話しながら湖の周りを一周して駐車場へと戻った。
まだ帰るのは惜しいと、車に寄りかかって夜空を見上げる。
一時間ほどそうしていると、十個近くの流れ星を見ることができた。
瑠生は涼しい場所で思いがけず天体ショーを楽しむことができて大満足だ。そんな瑠生を見て聖斗も笑みを深める。
そうして日付が変わったあと、二人は帰路へ着いた。
瑠生に合わせて朝方生活を送る聖斗が眠そうだったので、帰り道は瑠生が運転した。
免許は持っているが運転自体は久しぶりだ。かなり緊張したが、それもあとで振り返ればいい思い出になるのだろう。
コインパーキングに車を停めて外に出ると、出発した時とほとんど変わらないほどの熱気に襲われた。
ヒートアイランドと化した都市は、夏が終わるまで状況が変わることはないのかもしれない。
だが、瑠生の気持ちは出発前とは全く違っていた。茹 だるような暑さで鬱屈していた気分は随分と晴れやかだった。
大好きな人が自分を気遣ってくれて、充実した時間を過ごせた。お陰で週明けからの仕事も頑張れそうだ。
月末には二人揃って一週間の休暇を取る予定がある。少し遅い夏休みだ。
最初の数日は引っ越しのための準備を整え、その後は穴場の避暑地で三泊を過ごすことになっている。
宿の予約から観光予定を立てるところまで、全て聖斗が準備してくれた。いつも申し訳ないと思うが、聖斗は好きでやっていることだから気にしなくていいと言ってくれる。
アパートの部屋に戻ると、聖斗は眠気に勝てず、早々にベッドに横になってしまった。
最近、聖斗は残業が多い。今までいた部署とは別の、新たなプロジェクトのメンバーに抜擢されて、その準備で忙しいのだ。
自分も疲れているのにいつも恋人を優先し、気にかけてくれる。そんな聖斗に選んでもらえた自分は本当に幸せ者だ。
瑠生は聖斗の寝顔を見ながら、少し前から始めたアプリを開いた。毎日の気分を記録するものだ。睡眠はメンタルに影響を及ぼす。だから睡眠の記録と併用して自分の状態を確かめるためだ。
そのアプリにメモ欄があるのだが、瑠生はそれを簡易的な日記として使っている。そこに今夜、体験したことを書いた。写真も貼り付けることができるので夜空を撮ったものを載せる。
前は日記を書こうと思ったことなどなかったが、今はちょっとしたことでもメモに記している。
嬉しかったこと、楽しかったこと、時には言い合いや腹が立ったことも。
聖斗といられることが当たり前ではないと気づいたら、二人の間の出来事がとても大切なものになった。
そして、それを残しておきたいと思うようになったのだ。
これからもたくさんの思い出を増やしていけたらと願う。
もし次に旅行する時がきたら、今度は自分が計画を立ててみようか。聖斗ならどんなプランでも喜んでくれそうだが、自分だけが楽しいのではなく、きちんと二人で楽しめることを。
そんなことを考えながら、瑠生はスマホをサイドテーブルに置いた。
薬を飲んで、聖斗の隣に横になる。
聖斗の規則正しい寝息を聞きながら、瑠生も眠りに落ちていった。
* * * * * * * * * *
11話とエピローグの間のエピソードです。
作中に登場した場所は『戦場ヶ原』を参考にしています。本当は3時間かかるところを短縮してしまいました。その夜、どんな様子になるかは完全に想像です。信じないでください。
それと聖斗の車は2列シートのコンパクトミニバンです。モデルはト○タのシエ○タ。ミニバンにしたのは車高が高いという理由です。
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