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第1話

 人より嗅覚が優れている猫憑きは人間の発情の匂いも敏感に感じ取れてしまう。  三毛丞(みけ たすく)は鼻を押さえ、パーティー会場を見回した。  香水やアルコールに混じって砂糖を煮詰めた焦げ臭さが参加している令嬢や御曹司たちから漂ってくる。  三毛以外、誰も気づいていない。  酒を酌み交わす相手を欲情した目で見つめ合い、ペアが決まると宿泊予約している部屋に移動するのだろう。  フロアを出て行く男女の一番匂いが濃い。  (まさか合コンパーティーだと思わなかった)  立っているのも辛くなり窓際に並べられている椅子に座った。柔らかいクッションに身を委ねると少しはマシになる。  目がちかちかするシャンデリア。  柔らかくて歩きにくい絨毯。  凝った造りのテーブルには一口サイズの料理が花壇の花のようにお行儀よく並べられているのに誰にも見向きされていない。  露出度の高いドレスを着た令嬢や身体のラインに合ったスーツを着ている御曹司たちは今夜の相手を探すのに夢中だ。  三毛はそっと頭を撫でて視線を外に向けた。  横浜の美しい夜景を映すガラスには冴えない自分の顔が映っている。  真っ黒な髪は従業員のおばあさんに切ってもらっているせいで襟足がきっちり揃えられて古臭い。スーツも量販店で適当に買ったのでサイズが合わずだぼっとしている。  誰がどう見ても参列者として相応しくない。そんなことわかった上で参加している。  「あら、かわいい子猫ちゃん」  スパンコールがあしらわれたドレスに谷間を強調させた女性がいつのまにか隣に座っていた。確かホテルニュープリンセスの娘だ、と頭の中のリストを引っ張り出す。  「目の縁が黄色っぽいのね。よく見せて」  女に顔を覗き込まれると発情の匂いが強くなる。三毛は咄嗟に鼻を押さえた。  「すいません、失礼します!」  ホールを駆け抜けて真っ直ぐにトイレに向かった。便座に顔を突っ込んで食べたもの を吐き出す。最後は胃液しか出てこなかったがそれでも吐き気は止まらなかった。  発情の匂いは気持ち悪い。  過去の嫌な記憶まで連れてくるので追い出そうと首を振った。こういうとき猫憑きに生まれてしまったことを呪う。  個室から出て顔を洗うと少しだけすっきりした。でももう一度会場に戻る勇気はない。  発情の匂いは三毛の精神を蝕む害虫のような存在だ。  「でも戻らなきゃ」  昔から働いてくれている旅館の従業員たちの顔が浮かぶ。母親を早くに亡くし、三毛は従業員たちに家族のように育ててもらった。  その家族たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。  「使わないならどいてくれないか」  いつのまにか後ろに男が立っていた。背が高く頭が小さい。その小顔のなかにある目や鼻の配置が絵画のように美しい。  奥二重の目元は涼しげで眉がきりっと上がっている。前髪をセンターで分け、小さな額が露わになっていた。ヘーゼルナッツの色が白い肌とよく似合う。  (確か横浜ホテルシュペルユール社長の長男、宝条イリヤだ)  写真で見るよりずっと男前なイリヤを呆けて見上げていると「聞いてるのか?」と詰め寄られた。  「手洗いたいんだけど」  「あ……すいません」  慌てて横にどくとイリヤはふんと鼻を鳴らした。  イリヤから発情の匂いがしない。このフロアはいま合コンパーティーで貸切られているので、この男も参加しているはずだ。 だがイリヤからは香水のようなスパイス系の香りしかしてこない。  イリヤは備え付けのペーパーナプキンで手を拭い、三毛の視線に気づいた。  「なにか用かよ、田舎者」  人形のように整っている男からの辛辣な言葉に目を剥いた。  反論を返せないでいるとイリヤは片頬を上げた。  「量販店で買ったスーツ、ネクタイ。おまけに髪はボサボサ。それに靴はなんだ。便所サンダルか」  「いきなり失礼だな!」  イリヤが言うことは的確に合っていたが、そんなあけすけに言われる筋合いはない。なにより初対面だ。それなのにこの言い草はあまりに酷い。  八重歯を剥き出しにして威嚇するとイリヤはせせら笑った。  「図星だからって怒るなよ」  「おまえに関係ないだろ!」  「ガキじゃあるまいし、きゃんきゃん騒ぐな」  イリヤは両耳を押さえ、わざとらしく顔を歪めてみせた。その厭味ったらしい表情に怒りのボルテージが急上昇する。  身の丈に合わない場なことくらい百も承知だ。  ただ一つの目的のために大金を払ってまでこのパーティーに参加したのだ。 生まれたときから勝ちが確定している人生イージーモードの御曹司野郎に三毛の泥臭い根性など知る由もないだろう。  「あ〜酔ったわ」  別の男がトイレに入ってきて、イリヤとの間に割り込んできた。  アルコールの匂いの中に強い欲情の匂いをまとわせている。下半身を見ると男は勃起をしていた。  途端に吐き気が込み上げてきて、我慢できずイリヤに向かって吐いてしまった。  「うわっ、田舎者! なにしてくれてんだよ!!」  「ごめ……すいませ……」  口を拭っている間にも再び波がきた。胃は空っぽなせいか、口の中が酸っぱい胃液の味しかしない。  再び嘔吐するとそこでぶつりと意識は途絶えてしまった。

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