2 / 20

第2話

 二百年続く老舗旅館「三毛屋」の初代は猫憑きだと言われている。  猫憑きとは猫の耳と尻尾がはえる人間をさし、商売繁盛をもたらす神のような存在だ。  そのお陰で初代は一世代で莫大な富を築き上げ、三毛屋を繁盛させた。  だが初代亡きあとはなかなか猫憑きに恵まれず、三毛屋は三寒四温のように業績は好況、不況を繰り返していた。  そんなときに猫憑きの三毛が生まれた。これで三毛屋は安泰だと悦んだのも束の間、三毛は商売繁盛の才に恵まれなかった。  旅館の業績はどんどん悪化し、赤字続きで私財を売り払ってどうにか廃業にならずに済んでいる。  だが三毛は大学を卒業するまで旅館が傾いているとはちっとも気づかなかった。  社長の父親を始め、幼少期から働き続けている従業員たちは三毛に心配させないように隠し通してくれたのだ。  従業員たちから息子同然として育てられてきたのに、隠し事をされていたことがショックだった。  自分に商売繁盛の才がないことにこのときになってようやく気づいた。耳や尻尾を可愛いと褒めてくれた裏側では絶望させていたのだろう。  (このままでは旅館が潰れてしまう)  大学卒業と同時に単身上京した。  片っ端からホテルや旅館関連を調べていくうちに御曹司と令嬢たちは夜な夜なパーティーを開いていることを知った。  そこに潜り込んで旅館を持ち直すための手助けをして欲しいと頼むつもりだった。  御曹司たちと年の近い三毛なら身の上を話せば同情してくれるかもしれない。  招待制度のある格式高いパーティーに参加するためには多額の寄付金が必要だった。それをどうにかかき集め、挑んだのに    (宝条イリヤのせいで台無しだ)  あいつと会わなければ令嬢一人くらいは引っかけられたかもしれない。これじゃ金をただ無駄にしただけだ。  勝ち誇ったイリアの顔を思い出すとムカムカする。  顔がきれいなだけだ。御曹司や令嬢は甘やかされて育てられてきたからどうせ仕事なんてお飾りなものだろう。  小さいときから旅館のフロアを任されてきた三毛の方が実力はあると自信があった。  ふと意識が浮上して、手を伸ばすとつるりとしたシーツは肌触りがよくて気持ちいい。喉が勝手にゴロゴロと鳴ってしまう。  微睡んでいる意識がゆっくり覚醒してきて目を開けるとイリヤの寝顔が飛び込んできた。しかも上半身裸だ。  「ぎゃあああっ!!」  後ろにひっくり返るとベッドから落ちた。よく見るとなぜか三毛も裸である。  なんでどうして、と身体を触っていると白と黒と茶色のぶちがある長い尻尾が目に入った。  恐る恐る頭を触ると三角耳がぴょこと飛び出ている。  (これはマズイ)  猫の姿を人に見られるわけにはいかない。  猫憑きは商売人の中では有名で、多額の金を出して欲しがる連中もいる。  また見た目の愛らしさから性的搾取もされることもある。三毛も何度も危ない目に遭ってきていた。  ぞわりと恐怖が駆け上ってきて、堪らず両腕で身体を抱いた。  「……っせぇな」  三毛の叫び声で起きたイリヤにジロリと見下ろされる。だが寝起きのせいか昨晩のように目に力はなく、とろんとしていた。  やばい、やばい、やばい。  (どうしよう。なんて言い訳しよう)  つけ耳だと言えば信じてもらえるか。でも昨日は付けていなかったのに変だろ。  それより吐いてからの記憶がない。  いったいここはどこなんだとさらに混乱の渦が強まる。  イリヤは眉間の皺を深く刻ませ、胡桃色の瞳に鋭さが戻った。  「テメェ、よくもやってくれたな」  「なななな……なにを」  「憶えてねぇのか」  「……すいません」  耳を押さえたまま正座になるとイリヤは乱暴に髪をかき上げて、面倒くさそうに溜息を吐いた。  「おまえが、俺に、ゲロをぶちまけた。そのせいでスーツがだめになった」  「……申し訳ありません」  「靴もインナーも全部ゴミ箱いきだ。総額いくらすると思う?」  ごくりと唾を飲み込んで判決を待つ囚人のような面持ちでイリヤを見上げた。  「ざっと五十万だな」   「ごじゅうまん」  「それを払え。いますぐ」  お互い裸だというのにイリヤの横柄さに拍車がかかっている。一切の恥じらいがない堂々とした姿は凄みを与えた。  「おい早しろ」  「……すいません。お金がなくて」  「はぁ? あのパーティーに参加しているんだからホテル関係者だろ」  「うちは廃業寸前でして」  「……呆れた」  イリヤは再び頭を乱暴にかき、天井を仰いだ。ビー玉のような喉仏が上下している。  しばらく考えていたイリヤは再び三毛の方を向いた。  さっきからスルーされていたが、ようやく猫耳と尻尾に気づいたのだろうか。  ごくんと唾を飲み込んだ。  「じゃあないなら働いて返せ」  「働くってどこに」  「うちのホテルーー横浜ホテルシュペルユールだ」  シュペルユールは日本屈指の高級ホテルだ。  ドリアやナポリタン、プリン・ア・ラ・モードの発祥の地としても有名で、クラシカルな雰囲気のある建物は映画やドラマ、CMの舞台にもなっている。 創業は確か百年を越える歴史あるホテルだ。  餌を求める鯉のように口をぱくぱくとさせているとイリヤは意地の悪い笑顔を浮かべた。  「その調子なら俺のことも知らないだろう。宝条イリヤだ。専務をしている」  「……知ってる。宝条家の長男だろ」  三毛の言葉にイリヤは虚をつかれたように目をぱちくりとさせたが、すぐ人の悪い顔に戻った。  でもこれはチャンスではないか。  ホテル業界の御曹司や令嬢たちに出資してもらおうとパーティーに参加した。不発に終わってしまったと悲観したが、商売の神は三毛を見捨てなかったのだ。  イリヤは嫌味な奴で性格が蚊取り線香みたいにねじ曲がっているが、あのシュペルユールの御曹司だ。  ここで良好な関係を築ければ三毛屋を救える一歩になるかもしれない。  「いいぜ。その代わり俺に経営学を教えてくれ」  「はぁ? おまえ、自分の立場わかってんのか? 俺のスーツにゲロ吐いたんだぞ」  「それは悪かったって。それより専務なんだろ? ホテルのことなんでも知ってるよな」  ベッドの縁に乗り上げるとイリヤは気圧されるように後ずさった。迷わずベッドに登り、正座をして頭を下げた。  「俺は富山県の三毛屋の長男だ。父親が社長なんだが身体を壊してて……旅館は負債を抱えて廃業寸前なんだ。従業員を守りたい。俺に力を貸して欲しい」  膝に頭がつくほど深く下げた。  「どうして俺がそこまでしなきゃいけない?」  「タダ働きでいい。その代わりに勉強させて欲しい。これならいいだろ?」  「……だがそんな素性も知らない奴を雇うのも」  「さっきおまえが言い始めたんだろ。俺は三毛丞。二十三歳だ! 他に訊きたいことは?」  顔を寄せるとイリヤは狼狽えるように視線を彷徨わせた。さっきまでの勢いが鳴りを潜めてしまっている。三毛の勢いに圧倒されたのだろうか。  そこではっと思い出した。猫耳と尻尾が出たままだ。  慌てて頭を触ると耳はいつのまにか消えていた。尻尾もない。  ラッキーだとばかりに畳みかけた。  「頼む。家族を路頭に迷わせたくない」  「……こんな図々しい奴初めて見た」  「俺もこんな偉そうな奴に頼むのは癪だけど、もう選択肢がないんだ」  「なんだと?」  額に青筋を立てたイリヤと顔を寄せ合って睨みつけた。びしびしと火花を飛ばしているとごほんと誰かが咳払いをした。  「イリヤ様、今日は随分元気な方をお持ち帰りなさったんですね」  いつのまにかドア前には背の高い男が立っていた。グレーのストライプスーツに髪は短く後ろに流している。目尻には皺が刻まれているところから、四十代くらいだろうか。  定規を背中にいれているように背筋をぴんと伸ばした男からは気品を感じた。  「灰谷……勝手に入るなといつも言っているだろ」  「いつも通り六時にモーニングコールをしましたが出なかったので伺いにあがりました」  「もうそんな時間か」  「随分お楽しみだったようで」  灰谷に視線を向けられてはっとした。  裸でベッドの上にいたらそういうことがあったと言っているようなものだ。慌ててシーツで身体を隠したが、もうなにもかも手遅れだろう。  「ち、違います! 俺は勝手に連れて来られただけで」  「はぁ? おまえの世話をしたの誰だと思ってるんだ」  再びイリヤと睨み合いを始めると「なるほど」と灰谷は頷いた。  「つまり昨晩のパーティーで酔ってしまった三毛様がイリヤ様に吐いてスーツをだめにしたということですか。だから玄関に捨ててあったんですね」  「そうだ。理解が早くて助かる。あれは処分しておいてくれ」  「かしこまりました」  恭しく頭を下げる灰谷はイリヤの秘書なのだろう。二人の間には気心が知れている匂いがする。  「三毛様、でお間違いないでしょうか」  「どうして俺の名前を」  「パーティーの参列者はすべて憶えています」  「じゃあ俺がちゃんと三毛屋の人間だとコイツに証明してください!」  「と言いますと?」  灰谷の目は鋭さを増した。主人にたてつくなら喉笛を掻き切ってやるぞという気配を感じる。  言葉を慎重に選ばないといけない。  「うちの旅館は経営が傾いてて大変なんです。だからこいつ……イリヤさんのホテルで技術や知恵を得たいんです」  「なるほど」  灰谷は背筋をぴっと伸ばした。  「三毛屋は富山県にある創業二百年を誇る旅館です。一時は巨大な富を築き上げたそうですが、近年は経営が傾き廃業寸前だと聞きます。後ろ暗い事業もしていない、まっとうな老舗です。ただーー」  ちらり、とこちらを見た灰谷は小さく首を振って「なんでもないです」と呟いた。  「いかがいたしますか」  灰谷に視線を投げかけられたイリヤは腕を組んで考え込んでいる。  「こいつの素性は本当に確かか」  「はい。あのパーティーには招待状を持った方しか来れません。身元は保証しますよ」  「そうか。灰谷が言うなら働いてもらう。ただしさっきも言った通りタダ働きだ」  「やった! ありがとうございます」  「よかったですね」  これで第一関門突破だ。ほっと胸を撫で下ろし、故郷に残した家族の顔を思い浮かべた。  「ですが居住地はどうしますか? 資金はどのくらいありますか?」  灰谷に問われてはっとした。財布の中身は数千円程度だ。もちろんクレジットカードもない。  「パーティーに参加するのに全財産使ってしまいました」  「ではここに住んでもらいましょう」  「はぁ? なんでおまえが勝手に決めるんだ」  「イリヤ様もご存じでしょう? もうすぐ我が家に五人目の子どもが生まれます。そうなったらあまりこちらにも来られません。私の代わりに家事を担ってもらいましょう。三毛様は家事全般得意ですか?」  「最低限ならできますけど」  「ではお願いしましょう」  灰谷が勝手に決めるとイリヤは「嫌だ」と抵抗していたが、どんどん話を進められる。主従関係が逆なように見えた。  「俺、なんでもするよ。よろしくお願いします!」  イリヤは返事もせずにベッドから降りて部屋を出て行ってしまった。相変わらず堂々とした裸体をこれでもかと晒している。  「猫……」  「へっ?」  「やはり三毛屋というお名前なだけあって猫を飼ってらっしゃいますか?」  「え、あ……いえ」  もしかして猫耳が出ていただろうかとヒヤヒヤしたがどうもそうではないらしい。  部屋を見渡した灰谷は眉を寄せた。  「すいません。三番目の子が猫アレルギーでしてちょっと敏感になっていたかもしれません」  「いえ……」  「では、イリヤ様がお風呂から出たら三毛様もどうぞお入りください。お召し物はこちらで用意します」  「ありがとうございます」  「こちらこそありがとうございます」  「どうして灰谷さんがお礼を?」  「イリヤ様が誰かと言い合いしてるところを初めて見ました。かなり心を許されているように思います」  どこがだ。イリヤは最初から横柄でいけ好かない態度だった。それのどこが心を許しているのだ。  顔に出てしまっていたのか灰谷はわずかに表情を緩めた。  「どうか嫌わないであげてください。悪い人ではないですよ」  「はぁ」  「お風呂出たみたいですね。こちらです」  灰谷に促されたのでシーツをぐるぐる巻いてあとに続いた。

ともだちにシェアしよう!