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第3話

 イリヤの部屋はパーティー会場のホテルから車で十分ほどの距離にある横浜の一等地のマンションだ。最上階のフロアをすべて宝条家が私有しているらしい。  一人暮らしにしては広い3LDKの間取りで、それぞれの部屋が宴会場並みに広い。これは掃除が大変そうだ。  風呂からあがり、灰谷から掃除用具や冷蔵庫の中身、調理器具の場所を教えてもらい頭に叩き込んだ。  「イリヤ様は好き嫌いもアレルギーもありません。基本的になんでも食べます」  「でも俺、普通のご飯しか作れないんですけど」  いけ好かない奴だが御曹司ともなれば幼少期から高級品を食べ尽くしているに違いない。一般的な家庭料理しか作れない三毛の腕前では口に合わないだろう。  文句を言われるのが目に見えている。  三毛が内心で毒ついているとは露とも思っていない灰谷はわずかに目元を下げた。  「反対にそちらの方がいいかもしれません」  「どういう意味ですか?」  「行くぞ。早くしろ」  イリヤは昨日とは別のスーツを着込み、胡桃色の髪をワックスで後ろに固めている。丸い小さな額が露わになり、柳のような眉がよく見えた。  夜とは違った仕事モードの姿にどきりとする。格式高いホテルの専務というだけあり、立っているだけでオーラがあった。  「はっ、そんな小汚いスーツでうちの敷居を跨ごうというのか」  「これしかないんだよ」  スーツは昨晩も着たこの一着のみだ。パーティーには日帰り参加するつもりだったので着替えすらない。  玄関で脱がされたままぐちゃぐちゃだったが、三毛が風呂に入っている間に灰谷がアイロンをかけてくれていた。  それでもぴしっと角が揃い、皺一つないイリヤのスーツとは生地から違う。そもそもの土台が桁違いなのだから比べられても困る。  「ふんっ。まぁいい。しっかり働けよ」  「わかってるよ」  灰谷の運転する車でホテルシュペルユールへと向かった。  回転扉を潜ると正面の大階段が目に飛び込む。手すりに使われているタイルは創業時から使われている年代物でレトロ感があるのに品位を損なわない代物だ。  絨毯は深い青色で歩くと雲のようにふわふわしている。  流星のように降り注ぐシャンデリアと高い天井から春の木漏れ日が降り注ぐ。  ヨーロピアンテイストな内装だ。  すれ違う客もフロントスタッフも高級ブランド品のように自信に満ち溢れている。  服装に髪型、靴、姿勢。そのどれもが三毛と風格が違った。  量販店のスーツに野暮ったい髪型であることが恥ずかしくなってきて、頭がむずむずしてしまう。  イリヤの言葉がここにきて身に染みた。  「どうだ。帰りたくなってきただろ」  「まさか……やる気しかないわ」  ふんと鼻を鳴らすイリヤを睨みつける。どうしてこうも人が嫌がることを言うのだろうか。  両頬を膨らませながらもイリヤの後ろに続いてフロントに入った。  チェックアウトのピークが過ぎているのでフロント前には客がいない。  イリヤはスタッフを見つけるとまるで仮面を付け替えたかのように笑顔に切り替わった。  「高田、ちょっといいか」  奥でパソコンをチェックしていた男が顔を上げた。わずかに口元を歪めてこちらにやって来る。  (この人もイリヤが嫌いなんだな)  親近感が湧いて、近づいてくる高田に目礼をするときょとんとされた。  「急だが、今日から働いてもらう三毛だ。俺の遠縁の親戚だけど、コキ使ってくれていい」  「三毛屋……?」  「まぁ旅館経験者だ。フロントはできる。あとは任せていいか?」  「はい」  頼んだぞ、と高田の肩を叩いたイリヤはさっさと奥のエレベーターに乗り込んでしまった。フロントスタッフたちからの視線がビシビシと当たる。  いきなり訳も分からない奴を押しつけられて高田も気の毒だ。  高田はイリヤがいなくなった方角をぎろりと睨みつけ、そのままの表情で三毛を見下ろした。  「専務と親戚って本当?」  「……はい、一応」  訝しむような高田の視線が痛い。新卒が入ったばかりのいま、面接も書類審査もなく、急に働くと言われても従業員たちは納得しないだろう。毎年求人倍率が高いのだ。  だからイリヤの親戚という体の方がいいと灰谷に提案されていた。  その嘘はなにがなんでも突き通せとイリヤに命令されている。もしバレたらその場で五十万を支払わなければならない。  「俺は高田。フロントマネージャーだ。フロントのやり方はわかるな」  「だいたい把握してます」  「じゃあやれ。わからないところがあったら周りに訊け。おまえの持ち場はここだ」  三列ある受付のエレベーター側に追いやられた。パソコン画面には今日の宿泊客のリストやいままでの宿泊歴、リピーターの客にはアレルギーの有無など細かく記載されている。  フロントの後ろには部屋のカードキーを管理してある小さなロッカーがあった。部屋番号が書いてあり、赤いランプがついているのは空いている部屋なのだろう。  受付内を見回してだいたいのものと場所を把握した。パソコンを使うのも慣れている。  よし、と気合いを入れて業務に取り組んだ。

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