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第4話

 「つっかれた~~」  イリヤのマンションに帰りリビングのソファにダイブすると疲労が蓄積した身体をふわりと受け止めてくれる。ずっと立ちっぱなしだったので足が棒のように固くなっていたので柔らかさが心地よい。  フロントは実家でもやってきたからできると思っていたが甘かった。  横浜という土地柄もあり外国人客が多く、英語で話す場面が多かった。英語なんて授業を受けていた程度で話せるわけもない。  外国人客が来るたびに周りに助けてもらい、そのせいで他の客の対応に遅れた。  高田だけでなく、他のスタッフからのも迷惑そうな匂いを出された。辛い。  それでもどうにか遅番に引き継げるとどっと疲れがのしかかってきた。  このまま寝てしまいたいが、まだ三毛には掃除、洗濯、料理が待ち受けている。  家族の顔を思い浮かべ、疲れた身体に鞭を打った。  冷蔵庫の中身は把握してある。今夜は肉じゃがとしょうがたっぷりの冷奴、アジの干物とお吸い物と決めていた。猫憑きのせいか肉料理よりも魚料理の方が好きだ。  キッチンはIHの最新モデルで、料理器具も外国製品のブランドもので揃えてある。なにもかもが実家とは大違いだ。  油汚れ一つないキッチンに緊張してしまうが、料理をしていくにつれ慣れてきた。  行動するまでは面倒で仕方がないが、いざ始めてしまえば身体が勝手に動く。いい匂いがキッチンに広がると段々楽しくなってきた。  (そういえば何時に帰って来るか知らないな)  携帯をチェックしたが、そもそもイリヤとは連絡先の交換すらしていない。フロントに置いておかれてしまってから退勤まで一度も顔を合わせる機会はなかった。  出来上がった料理を並べていると玄関の施錠が開く音がした。  こういうときは「おかえり」と言えばいいのか。それとも「お疲れ様」だろうか。  リビングに入ってきたイリヤと目が合うと切れ長の目をわずかに開いた。  「おまえがいることを忘れてた」  「なんだよ、それ」  「言いつけ通り飯を作ったんだな」  テーブルの上に並べられた料理にイリヤは鼻白んだ。  「なんだこの貧乏くさい食べ物は」  「文句言うなら食うなよ。俺一人で食う」  「食材費と光熱費は誰か払ってると思ってるんだ。借金に付け加えてもいいんだぞ」  「ぐぅ」  金銭が絡んでしまうと分が悪いのは三毛だ。これ以上借金が増えてタダ働きをさせられる日数が伸びてしまうのは困る。  イリヤは椅子に座ると丁寧に手を揃え、「いただきます」と小さく零す。  その姿が意外な一面を見せられたようであんぐりと口を開けた。  「なんだ、その顔は」  「ちゃんと礼儀があるんだな」  「俺はそこまで野蛮な人間じゃない」  ぎりっと睨まれたが、腹が空いていたのかイリヤはすぐに食べ始めた。  持ち方が手本のようにきれいな箸の持ち方をじっと見つめる。どんな反応をされるのか気が気じゃない。  (マズいと言われたらもう二度と作らねぇ)  そう心に決めているのにイリヤは一言も発しないまま食事を終えてしまった。茶碗にはご飯粒一つ残っていない。  「ご馳走様でした」  「俺の飯、どうだった?」  「食えなくはないレベルだな」  「なんだと!?」  疲れて帰ってきた身体に鞭を打って作った食事に食えなくはないレベルだ?   どの口が言ってるんだ、と胸倉を掴みたい衝動にかられたがぐっと耐えた。  自分の方が立場は低いのだ。マズイと文句言われなかっただけましだ。鬱憤を吸い物と一緒に飲み込んだ。  イリヤは休む間もなくパソコンを開き、仕事を始めた。思案顔で画面を睨みつけている。  「なにしてんの?」  「お客様からのアンケートや旅行サイトレビューの返信」  「そんなこともやってるの?」  下っ端がやりそうな地味な仕事だ。専務というから他のホテルや企業に営業を持ちかけたり、株主とゴルフに行って接待をしたりというイメージがある。  「ホテルへの評価が一番わかるからな」  こちらに見向きもせず、イリヤは画面を凝視しキーボードを打ち込んでいる。  なにを書いているのか気になってイリヤの後ろに回り込んだ。 〘先日こちらに宿泊しました。子どもが突然吐いてしまい、ご迷惑をかけてしまいましたがみなさんとても親切にして頂き素晴らしい旅行になりました。本当にありがとうございました〙 〘あれからお子様の体調はどうでしょうか。遠路はるばる来ていただいた横浜を楽しく過ごされたようで安心しました。またのご利用を心よりお待ちしております〙  「これ、子ども吐いたって書いてあるけど」  「部屋でな。幸いリネンの上だったからクリーニングもやらずに済んで……てか勝手に見るな」  「クリーニング代、請求しなかったの?」  部屋で喫煙や嘔吐などで汚された場合、利用客にクリーニング代を請求するのが一般的だ。家具や備え付けの家電だけでなく場合によっては壁紙も変えなければならないのでかなりの額になる。  嘔吐をしたなら匂いが部屋に籠もるし、もしノロウイルスだったら次に使った客も感染してしまう。  「するわけないだろ。わざとやったわけではないんだから」  「でもリネンがだめになったし」  「おまえも旅館ならわかるだろ。リネンの使い方がなってない客なんてザラだ。ゲロぐらいで騒ぐことじゃない」  「まぁそうだけど」  タオルや備え付けの浴衣など宿泊客によってとんでもない使い方をされることがある。  濡れてぐちゃぐちゃになっていることは前提としても酒やケチャップがついていたり、なぜかトイレに詰め込まれていたこともあった。  こっちが想定する斜め上の使い方をする人はかなり多い。  「クリーニング代を請求するより最後に気持ちよく帰ってもらって、こうしてレビューに高評価してもらえる方がホテルの利益になる」  「……おまえ、結構しっかりしてるんだな」  「莫迦にしてんのか」  形のいい眉が寄せられて胡桃色の瞳に鋭さが混じる。  「正直ただの性格悪い御曹司で椅子に座ってふんぞり返ってるのかと思ってた」  「俺をそこいらの奴と一緒にするな」  ふんと鼻を鳴らしたイリヤはじっとこちらを見た。正確には三毛の頭上である。  もしかして耳が出ているのかとヒヤヒヤしたが、その気配は感じない。  固唾を飲んでじっとしているとイリヤは再びパソコンに向き直った。  「明日は俺もフロントに行く」  「え、なんで」  「フロントはホテルの顔だからな。不手際があったら印象が悪くなる」  「まるで俺がだめな言い方じゃないか」  「事実そうだろ。英語もまともに話せないなんてどうかしてる。いままでどうやってたんだ」  高田に今日の様子を聞いていたのだろう。英語を話せなくてみんなに迷惑をかけた自覚があるだけに言葉が詰まる。  「うちはあまり外国人が来なかったから。僻地にあるし秘湯好きの日本人くらいだけだったよ」  「だから潰れかかってるのか」  事実だけど。そうなんだけど。もう少しオブラートに包むということをして欲しい。ぐさりと胸に刺さる。  三毛屋は高速道路を降りて車で三十分もかかる悪条件な立地にある。周りに観光名所はなく、五年ほど前に麓にアウトレットができたのでそれ目的の客が秘湯を楽しむついでにポツポツ来てくれる程度だ。  建物は古く、段差も多い。温泉好きな高齢者からはバリアフリーにして欲しいという声はあがっていたが、リフォームする資金すらない。  ただ接客態度はピカイチだと自負している。昔から働いてくれている従業員たちとの仲はよく、しっかりと連携は取れている。事実口コミでは接客はよくて気持ちよく過ごせると書かれていた。  だが接客がよいからといって人が集まるわけではない。  他になにか手立てはないかとここまで一人で馳せ参じたのだ。  「ここか」  いつの間にかイリヤは三毛屋を調べていたらしく、見慣れた旅館が画面に出てきた。深い木々に囲われて、入口には「三毛屋」と看板がかかっている。木造三階建の四十室もない小さな旅館だ。  釘を一本も使わずに作られた技術の高い建物で、土壁や窓ガラスも手作りで一つ一つわずかに模様が違う。  みんなで大切に守ってきた愛着のある我が家。  「古臭いな」  「こういうのを趣があるって言うだろ」  写真を一枚一枚見分していたイリヤは手を止めた。従業員全員が映っているもので、みんな笑顔だ。そのなかに三毛の姿はない。  「どうしておまえはいないんだ」  「俺、大学出たばかりだから正式にはまだ社長じゃないんだよね」  「どうりでケツが青いガキだと思った」  「すいませんね。ガキで」  これだけ罵詈雑言を浴びせられても屁でもない。自分の父親も口がいい方とは言えず、暴言には慣れている。  「だがいい旅館なのだろうな」  じっと画面を見たままのイリヤのつむじを見下ろした。まさかそんな評価をしてもらえるなんて思ってもみなかったので驚いた。  画面に映る見慣れた父親や女将たちを見ると懐かしさがじんわりと胸に広がる。  「従業員のみんなは俺にとって父親であり、母親なんだ。その人たちが苦しむところは見たくない。だから頑張るって決めた」  母親のいない三毛を小さい頃から愛情をかけて育てくれた。猫憑きとしての才がなくても、責めるような人はいなかった。  だから頑張りたい。  「それなら英語を早急に勉強することだな」  「えぇ~苦手なんだよな」  「泣き言を言ってる暇があるならやれ」  振り返ったイリヤの目は先ほどまでと違って少しだけ柔らかいものになっているような気がする。  「うん。やってみる」  だからそう素直に言えた。  三毛が頷くとイリヤは口のはしを僅かに上げた。

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