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第5話
仕事が終わり、家事をしながらビジネス英語を毎日聞いているお陰が一週間も経つと他のスタッフの手を煩わせなくなった。
猫憑きのお陰で耳がいいので、聞き取りも発音も完璧。それに訊かれることは似たり寄ったりなので単語の意味さえ憶えておけば答えられる。
元々フロント業務は慣れていたし、英語も話せるようになれば他のスタッフから見られる目が明らかに変わった。
特に高田は手のひらを返したように別人になり、いまでは社員食堂で昼食を囲う仲になった。
向かいに座った高田は三毛の身の上話を熱心に聞いてくれ、あろうことか目尻に薄っすらと涙まで浮かばせている。結構、情に厚い男なのかもしれない。
「旅館が潰れかかってるから遠縁の専務を頼ってきたわけか」
「そんなところです」
「まだ若いのに一人で頑張ってすごいね」
高田に褒められて胸がじんとした。イリヤは家のことをやっても褒めることすらしてくれない。
労わりの言葉があるのとないのとではやる気が違う。
「英語もすごい成長したから、スタッフみんな驚いているよ」
「ありがとうございます。でも横浜の地理はまだまだで。観光名所が多すぎます」
「中華街に赤レンガ、遊園地にみなとみらい。目が回るくらいあるよね」
「行き方を訊かれるのが一番緊張しちゃいます。電車もよくわからないし」
「俺も最初のころは憶えられなくて、いつも地図や路線図を眺めてたよ」
くしゃっと笑うと高田は随分幼く見る。年は三十と言っていたが髪は短く、つるりとした白い肌と黒い髪にスーツではどことなく就活生のような初々しさがある。本人もそれを気にして、仕事のときは難しい顔をしているらしい。
ふわりと香る匂いは甘いものになっている。好意を持たれていると瞬時に察した。
「よかったら休みの日に横浜を案内しようか」
「いいんですか? でも休み被るかな」
フロントはシフト制だ。早番、中番、遅番と三つに分かれ三日出勤したら休みという風に決められている。
三毛は中番を固定されているので五日出勤の土日休みだ。イリヤの休みに強制的に合わせられている。たぶん灰谷の気遣いだろう。
二週間ごとに出るシフトでは高田と休みが被っている日はなかった。
「大丈夫です。地図やネットで調べるだけでもだいぶ頭に入りますし」
「でも実際に見た方がお客様にもイメージを伝えやすいよ。じゃあ仕事終わったあとに近場からちょっとずつ行くのはどう?」
高田はテーブルに身を乗り出して詰めかけてくる。魅力的な誘いだが、帰ってから掃除洗濯料理と家事が待っている。
イリヤの世話をしていると言うと親戚なのにそこまでするのかと言いそうだ。
(高田さんはイリヤを嫌っているところがあったし)
だから高田の前ではできるだけイリヤの話をしないようにしている。
どうしたもんかと頭を悩ませていると「専務」と声に色がついたらピンクになりそうな声が食堂に響いた。
入口にはスーツをきっちりと着こなしたイリヤが立っている。誰かを探しているのがざっと食堂を見渡し、目が合うとふわりと目尻を下げた。
(なんだあの顔)
見たことがない笑顔にぞぞっと背筋が凍る。得体のしれない宇宙人に遭遇してしまったかのような気持ち悪さだ。
「ちょっとおいで」
イリヤがまっすぐ三毛を見て手招きをしている。他の社員たちの視線が一切に向けられた。
フロント以外の従業員もいるので三毛のことを知らない人も多く、「あの新入社員なにかやったのかな?」と見当違いな噂をされている。
いそいそとお盆を返却し、イリヤの元へ小走りで向かった。
「……なんでしょうか?」
「休憩中にごめんね。ちょっとこっちに来てもらっていいかな」
本当にイリヤかと疑いたくなるくらいの態度にジロジロと見つめた。
なにか変なものでも食べたのだろうか。
だがイリヤの顔色はいいし、具合いが悪そうにも見えない。
そそくさと歩き出し倉庫の方へ連れて行かれた。
昼時のこの時間は誰もいない。
「高田とは上手くやれてるのか」
「はぁ、それなりに」
声がワントーン下がり、やっといつものイリヤに戻った。目も鋭くなり、笑顔一つない。
こっちのほうがイリヤらしいと思うからだいぶ毒されているのかもしれない。
「思ったよりちゃんとやれてるようだな」
「その辺の御曹司たちとは違うからね」
力こぶしを作るように腕を曲げるとイリヤはふんと鼻を鳴らした。
「今夜は外で食う。帰らずにここで待ってろ」
「どういうこと?」
「そういうことだから」
こちらの問いかけには答えず、イリヤは革靴の底を鳴らしながら戻って行ってしまった。
「なんだ、あいつ?」
残された三毛は小さくなっていく背中を呆然と眺めた。
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