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第6話
店内は蜂蜜のような落ち着いた照明は大人っぽさを演出している。白いクロスの上にはカトラリーが神経質に並べられ、汚れ一つないほどつるりと磨かれていた。
椅子に座っても緊張が解けず、三毛は肩肘張ったまま固まってしまった。
正面にはイリヤがウエイターと慣れた様子で話している。視線を落としたメニュー表には値段が書いていない。
「おまえ、飲み物はどうする?」
「え……あ」
「こいつも同じもので」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げてウエイターは下がっていった。足音もなく、凛とした佇まいは気品を感じる。
イリヤはざっと店内を鋭く見回した。
隣のカップル客や家族連れを一通り検分すると背もたれにわずかに体重をかけた。
イリヤのお膝元だから客の反応をチェックしているのだろう。
終業後、イリヤにホテルの最上階にあるフレンチレストランに連れて行かれた。なにがなんだかわからないまま席に通され、向かいに座らさせられている。
「借りてきた猫みたいだな」
「ね、猫!?」
「普段俺に噛みついてくるくせにここじゃ大人しいんだな」
「……こんなところ来たことないもん」
周りを見るとドレスコードがあるらしくスーツや燕尾服、ドレスやワンピースの客ばかりだ。
みんな身なりをきちっと整えているのに三毛は量販店のスーツで場近いなのが一目瞭然だ。
イリヤは生地から上等だとわかるダークネイビーのシャドーチェックのスーツを着て、髪色と同じ胡桃色のネクタイを絞めている。同じく終業後のはずなのに肌艶はよく、髪も乱れている様子はない。
明らかに見劣りしていた。
「こちらアペリティフです。本番フランスのスパークリングワインでございます」
テーブルに置かれたグラスは淡い桃色でぷちぷちと気泡が下からのぼっている。
「アペリティフ?」
「食前酒だ。フランス料理のコースだとよく出てくる」
イリヤは迷うことなくさっと飲み干した。小さなグラスなので一息でいける。それがマナーなのかもしれない。
お酒は好きなので遠慮なく飲んだ。口の中にパチパチとした刺激とすっきりとした喉越しで美味しい。
それからアミューズ、オードブル、スープの順々にコースが進んでいく。
フランス料理なんて初めてだ。三毛屋にもコース料理はあるが、和食なので箸やスプーンで食べられる。
これだけカトラリーがあると使い方がわからない。
モタモタしているとイリヤに怪訝な顔をされた。
「端のカトラリーから使うんだ」
「……わかってるよ」
この年までそんな常識知らなかったとは言えず、言葉尻が小さくなってしまう。
慣れない食器でちまちまと食べたがどれも美味しい。一級品なのだろう。器、盛りつけ、味のすべてが美術品のような華やかさがある。
こんな贅沢なもので育ったイリヤにはさぞかし三毛が作ったものは食べられたものではないだろう。専門に料理を勉強したことはなく、ほとんど独学だ。
(もしかして俺の料理がマズイからフランス料理を憶えろよっていうことか)
イリヤならやりかねない。だが彼は口が悪い。そんな遠回しな言い方をするだろうか。
まずかったら正面から切り込むタイプだ。
「どうした。腹でも痛いのか?」
「あ、いや……どれも美味しいね」
「うちのシェフが腕を込めて作ってるからな」
「どうして俺をここに連れて来たの?」
イリヤの意図がさっぱりわからない。
「俺の作るご飯がマズイから勉強しろってこと? それとも洋食の方が好みだった?」
様子を窺うようにじっと見る。イリヤはワインを一口飲み、じれったいほどゆっくりとナフキンで丁寧に口元を拭った。
「うちは新入社員の研修の一環でここのフルコースを食べることになっている」
「すごいね」
でもそれが? と問いかける間もなく、イリヤは立ち上がった。
「そろそろ行くぞ」
「ちょっと待ってよ」
イリヤはさっさと歩きだしてしまったので慌てて追いかけた。静かな店内に自分の声が響き渡ってしまい、背中に視線が刺さって痛い。
地上に降りるとロータリーに真っ黒なSUV車が停まっており、灰谷が降りてドアを開けてくれた。
「乗れ」
「どこ行くの?」
「いいから乗れ」
背中を押され、後部座席に押し込められた。あとからイリヤも乗ってきて、灰谷が音もなくドアを閉める。
車は滑らかに走り出した。
横浜の海を背景に電飾された観覧車が雪の結晶を作ったり、虹色になったりしている。遠くでは七十階建てのランドマークタワーが胸を張るように立っていた。
「あの観覧車はコスモロックだ。みなとみらいの遊園地にある。十五分で一周する」
「きれいだね」
「少し行った先には赤レンガ倉庫がある。最新的な店やカフェがあって女性の人気が高い。赤レンガパークには芝生があるから子連れも楽しめる」
車が走行している間、イリヤは窓の外を指さしながら語ってくれている。
もしかして、とはたと気づく。
「……教えてくれてるの?」
「横浜は観光名所が多い。お客様にも聞かれるからな」
ふんと鼻を鳴らしたイリヤは莫迦にするように片頬を吊り上げた。
両頬を膨らませると灰谷が小さく笑った。
「素直に一緒に観光したいと仰ればいいのに」
「誰がこんな田舎者と行くか。こいつがなかなか憶えないからこうして手間をかけてやってるんだ」
「悪かったな、物覚えが悪くて。今度高田さんに案内してもらう約束したから別にいいよ」
高田の名前を出すとイリヤはわずかに眉を寄せた。暗くても胡桃色の瞳は闇に紛れる猫のように光っているように見える。その瞳が逸らされてしまい、「勝手にしろ」と背もたれに深く身体を預けた。
「着きましたよ」
連れて来られたのは商業施設だ。三毛が行き慣れたスーパーやファストファッションが軒を連ねる施設ではなく、一階のガラス窓には高級ブランド名がでかでかと書かれている。
地下駐車場には外国車や有名なスポーツカーがおもちゃ売り場のように停められている。
見るからに敷居の高さが伺える施設だ。
「ここで買い物すんの? 俺は車で待ってればいいのか」
「おまえも来るんだよ」
「え?」
腕を引っ張られエレベーターに乗せられた。八階で降りるとなぜか黒いスーツに髪を後ろにぴっしりと束ねた女性が頭を下げて出迎えてくれた。
「お待ちしておりました、宝条様」
ついと背中を押される。
「これに見合うスーツを頼む」
「かしこまりました。では採寸いたしますのでどうぞこちらに」
「え、なに? どいうこと?」
状況がわらず混乱する。
さっきまでホテルのレストランでご飯を食べて、横浜を案内してもらって、いまは高級ブランド店にいる。
たった数時間で世界が目まぐるしく変わっていく。
「三毛様のスーツをお仕立てするのですよ」
灰谷の言葉に目を剥いた。
「スーツはこれが」
「おまえ、毎日そればかり着てるだろ。うちの品位を下げたいのか」
「一着しかないからしょうがないじゃん」
「貧乏人」
「なんだよ。文句言うために連れ回したのか?」
イリヤを見上げると眉を寄せて睨まれた。
職場では過剰なくらい笑顔を振りまいているくせになぜ自分の前ではこんなに俺様なのだろうか。
「買ってあげたいと仰っしゃればいいのに」
「……っ! 必要経費だ」
「これは借金には入らないので素直に受け取ってもらって大丈夫ですよ」
灰谷の言葉に曖昧に頷く。
つまりイリヤは善意でスーツを買ってくれるということなのだろう。
(借金に加えられないなら灰谷さんの言う通りに素直に頂いておこう)
人の善意は受け取った方が相手も気分がいい。バスや電車で席を譲っても断られると残念な気持ちになる。それと同じだろう。
「ありがとう、ございます」
イリヤにぺこりと頭を下げて、係りの女性のあとに続いた。
更衣室に案内され採寸してもらいながら話を聞くと商業施設自体の営業時間が終わっていて、この店だけイリヤが事前に開けておいて欲しいと頼んできたらしい。
もちろん貸し切りなので料金も発生する。
女性の邪心のない笑顔からは自分がイリヤの恋人だと思われている節を感じる。
「この色は宝条様もお気に入りですよ」「明るめよりダークなお色の方が夜の雰囲気に合いますよ」と営業トークが滝行のように浴びせられる。
実際はただの奴隷だ。しかも無給。だがその代わりに学べるものはなんでも学ぶ。
オーダーメイドのスーツなんて初めてだったが、量販店のものを繰り返し買うよりはコスパがいいらしい。
生地を何種類か選んでもらいそこからフィッティングをして二種類に決めた。
ブラックのストライプとライトグレーのタータンチェックだ。
童顔なので無地だと七五三のようになってしまうが、柄付きのスーツとネクタイの色を明るめのものにすれば大人っぽくなると女性の勧めだった。
「いいんじゃないか」
鏡に合わせているとイリヤが後ろから覗いてきた。その顔は少し柔らかいものになっている気がしなくもない。
「では明後日には出来上がりますので」
「そんなに早くできるものなんですか?」
「宝条様はお得意様ですから」
にっこりと微笑まれてしまい、ネクタイやシャツ、革靴が入った紙袋を受け取り車に乗り込んだ。
「本当にお金払わなくていいの?」
ネクタイとシャツだけでもかなりの値段だった。これでスーツも加わるとなれば、相当な額になる。
「俺がこのくらい払えない貧乏人だと思ってるのか」
「そういうわけじゃないけど、さすがに申し訳ないなって」
自分には不相応な紙袋を見つめた。つるりと光沢のある紙質は高嶺の花のように目を惹くものがある。
「仕草は気品にでる。服装は人柄がでる。言葉は性格がでる」
「なんの話?」
「人間にとって大切なことだ。言葉一つ、動作一つ、服装一つで人の印象が決められてしまう。特にホテルはお客様と密に接する機会が多い。相手の心象をよくするには自分を着飾る必要性もある」
「だからスーツのダメ出ししてたの?」
「そうだ。スーツは特に大事だ。男はあまりメイクするのは一般的ではないからな。髪型も大事だが、それよりも面積の大きい服装を変えるだけでもかなり変わる」
イリヤの言葉に感銘を受けた。
よれよれのスーツだとかカトラリーの使い方も知らないのかと詰られてきたが、全部意味があることだったのだ。
ただ経営学を学ぶだけならイリヤの言う通り本を読めばいい。
だが実際に本物に触れ、感動を得ることによって自分の肥やしになる。それがお客様へのサービスに繋がるのだとイリヤは言っているのだろう。
ただ性格が悪い奴だけではないのかもしれない。腹が立つことも多いけれど、イリヤは間違ったことは言っていないのだろう。指摘する言葉選びが圧倒的に下手なだけだ。
イリヤに対する印象がほんの少しだけ変わった夜だった。
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