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第7話

 「Please don’t leave your belongings behind. 」  「Thanks.」  「We hope to see you again.」  三毛がお辞儀をするとアメリカ人夫婦は笑顔で出口へと向かって行った。肩肘張っていたことに気づき、ほぅと息が漏れる。 「発音も完璧だ。さすがだな」  後ろで見守ってくれていた高田に背中を叩かれた。  「まだまだ不慣れなところもありますが最初のころよりはだいぶマシになったと思います」  「いやいや、もう完璧だよ。うちで一番発音がうまいんじゃない?」  「それは褒めすぎです」   謙遜はするが頬がにやついてしまう。  猫憑きのおかげで耳がよく、ひたすらリスニングで聞き取りの訓練をした。慣れてきたら口にするのを繰り返し、どうにか一通りのビジネス英語は身につけられた。  付け焼刃だからすぐにボロがでるだろが、半月でここまでできたら及第点だろう。  「このままうちで働いて欲しいくらいだよ」  「ありがとうございます」  褒められて悪い気はしないが、高田は些か褒めすぎなところがある。  「あの……」  二十代くらいの女性客に声をかけられて会話をやめた。  「いかがなさいましたか?」  「これ忘れ物みたいなんですけど」  「どちらにありましたか?」  「そこのパウダールームです」  エレベーター横を指さした女性客に頷いた。  「わざわざ持って来ていただきありがとうございます。こちらでお預かりします」  女性客からピンク色のレースがついたポーチを受け取った。中を見なくても化粧品の類が入っているのが匂いでわかる。  化粧品の科学的な匂いは苦手だ。それに香水も好きではない。  フロントはお客様の迷惑にならないよう香水類は禁止とされているが、客はつけている人も多く鼻がもげそうになったことは何度もあった。  「管理室に預けてこようか」  「そうですね」  お客様の忘れ物は管理室で一カ月ほど預かる。誰も取りに来なかったら処分する決まりになっている。  「でもこの匂い……」  「匂い?」  シトラスのなかに石鹸のような香りには憶えがあった。  「すいません、ちょっと出てきます!」  「三毛くん!?」  高田の制止を振り切り外に飛び出して、鼻を鳴らせた。まだそう遠くまで行ってないはずだ。  ガソリンや香水、体臭の匂いを慎重に嗅ぎ分ける。ピンと糸を引っ張られたように同じ匂いを見つけた。  横断歩道を渡った先の山下公園にさっき見送った後ろ姿がある。  「氏家様!」  呼び止めると女性は優雅に振り返った。艶のあるグレーの髪が左右に揺れる。  「三毛ちゃん、どうしたの?」  「こちらお忘れ物じゃないですか?」  ポーチを差し出すと氏家は目を瞬かせた。  「ありがとう、わざわざ届けてくださったの?」  「大切なものだといけないので」  「それで走ってくれたのね。せっかくのスーツが汚れてしまうわ」  「これくらい平気です」  猫憑きだから走るのは得意だ。それに幼少期から野山を駆け回って育ってきたので体力には自信がある。  「大変。汗をかいてるじゃない」  氏家はボストンバックから木綿のハンカチを出して、三毛の頬を拭ってくれた。  「大丈夫です。ハンカチを汚してしまいます」  「届けてくれてありがとね」  目尻の皺を深くさせて氏家が悦んでくれたのでほっと胸を撫で下ろした。  氏家は週に二、三度ラウンジを利用してくれる常連客だ。  誰にでも愛想がよく品があり、フロントスタッフ内では「女神」というあだ名がついている。  確かどこかの会社の社長らしい。  「またレストランに来てくださるのを楽しみにしています」  「もちろん」  深く頭を下げて氏家を見送った。  とぼとぼとホテルに戻るとフロントにはなぜかイリヤの姿があった。三毛の姿を認めると貼りつけたような笑顔を浮かべる。  「三毛くん、ちょっといいかな」  「……はい」  イリヤのあとに続いた先は従業員用のトイレだ。イリヤはすれ違う従業員たちに笑顔を振りまいていたのに三毛と二人きりになった途端、般若のような顔になった。  「おまえ、仕事を放棄して散歩とはいい度胸だな」  「忘れ物を届けにいったんだ」  「管理室に預けておけばいいだろ。なくなったとわかれば取りに来る」  「そうだけど」  「おまえがいなくなったせいでチェックアウトが混雑してお客様を不用意に待たせてしまったんだ。そのことについてどう思う?」  「それは……」  言葉が続かずぐっとこぶしを握った。  フロントを任されたのに勝手にいなくなってしまったのは事実だ。お客様を待たせてしまい心苦しい。  でもそれと同じくらい忘れものを届けることも重要だった。なくなったとわかったときの喪失感を味わせたくなかったのだ。  「おまえはなにをしにここに来たんだ」  「それはホテルについて学ぶためで」  「忘れ物を届けることがか?」  ぐうと言葉に詰まる。イリヤの言う通りだ。  「……もういい戻れ」  イリヤは額に手を置いて聞こえるように盛大な溜息を吐いた。  (失望させてしまったかな)  イリヤの苦悶の表情を思い出すと胸が痛む。なんとなくいいバランスで関係が築けていたと思っていたのに、自分がぶち壊してしまった。  フロントに戻ると高田が駆け寄って来てくれた。  「専務に怒られた? 大丈夫?」  「俺が悪いので……すいません。迷惑かけて」  「あの人、専務だからって大きい顔してるよな。妾の分際で」  「妾?」  はっと口を押えた高田は言うつもりはなかったのだろう。元々イリヤのことは嫌っている匂いはしていたし、うっかりこぼしてしまったのかもしれない。  「妾って社長の子じゃないってことですか?」  三毛が問いかけると高田は逡巡したあと、耳打ちをしてくれた。  「愛人との子だよ。でも専務の方が本妻の子より早く生まれちゃってるから長男って扱いにはなってるけど」  あまりに複雑な生い立ちに言葉を失くした。  高田が知っているくらいなのだから、ほとんどの社員には知れ渡っているのかもしれない。  (だからいつも過剰なくらい愛想よくしていたのか)  イリヤはバーゲンセールかというほど常に笑顔を絶やさず、誰にでもやさしく紳士的だ。  常に「妾の子」としてのレッテルを貼られ、少しでも気を抜いたら後ろ指をさされる。  イリヤの遠縁だから働かせてもらっている体なので、三毛の評価はそのままイリヤの評価へと繋がる。  だからあれほど怒っていたのだ。  三毛の身勝手な行動のせいでイリヤに迷惑をかけた。少しずつ築き上げていた信頼がいっきに瓦解する音が鼓膜の中で響く。    (ちゃんと謝らないと)  悪いことをしたら素直に謝る。  小さいときから言われてきた言葉がずっしりと胸に響いた。

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