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第8話

 「三毛様、具合いが悪いですか?」  「あっ……すいません。大丈夫です」  「コーヒーを淹れましょう」  「俺がやります」  「淹れるの好きなのでやらせてください」  わずかにはにかんだ灰谷は慣れた様子でキッチンに行き、コーヒーを淹れてくれる。香ばしい豆の香りがリビングにまで漂ってきた。  情けなさでテーブルに突っ伏すとノートががたがたと落ちていき、惨めな気持ちも追加された。  英語のリスニングだけでなく、文法の勉強も始めた。どうしてもわからない箇所があり、灰谷に教えを乞うと育休中にも関わらず家まで来てくれた。せっかく指導してくれているのにイリヤのことが気がかりで集中できていない。  「ご実家のことが心配ですか?」  カップをテーブルに置いてくれ、ふわりと香るコーヒーの匂いにさざ波だった気持ちが少しだけましになる。  「あいつの……イリヤのことなんですけど」  「今夜は少し遅くなるそうですよ」  「そうじゃなくて、えっと……」  「もしかして妾の長男ということをお聞きになりましたか?」  灰谷に問われて小さく頷いた。  「少し昔話をしてもよろしいでしょうか」  椅子に腰掛けた灰谷は両手でカップを持った。立ち上る湯気をじっと見つめながらゆっくりと口を開く。  「イリヤ様が生まれたとき、私は十三歳でした。両親が宝条家に仕えていたので自然と私もそうなるものだと教えられーー最初の仕事がイリヤ様のお世話でした」  産まれたばかりの赤子を四苦八苦しながら世話をしていたらしい。オムツを替えて、ミルクを飲ませ、沐浴もした。  中学生の灰谷は遊びたい盛りだったろうにイリヤの愛らしさに夢中になっていたらしい。  「イリヤのお母さんは?」  「ご出産のときに亡くなりました。胎盤剥離を起こして出血多量で、そのまま」  「……そんな」  イリヤは産まれたときから母親がおらず、親戚からも嫌われ孤立無援な幼少期を過ごしてきたらしい。  それでもイリヤは健気に好かれようと努力した。  だが努力がときに報われないこともある。勉強や運動で頑張れば頑張るほど本妻の次男より秀でてしまい、さらに嫌味を言われてしまったそうだ。  年を追うごとにイリヤはどんどん隅に追いやられた。  でも才覚のあったイリヤは父親からシュペルユールの専務を任された。  やっと認めてもらえたのだと思い、下手な噂が回らないように過剰なくらい愛想よく振舞っているらしい。    「ですから初対面の三毛様に対してあんな言葉遣いするのは驚きました。でも同時にほっとしました」  「どうしてですか?」  「やっと気を許せる方ができたんだなと」  薄っすらと涙を見せる灰谷は父親のような愛情が見えた。  長年培ってきた絆が二人の間にあるのだろう。  だからイリヤは灰谷には素でいられるのだ。  「まだいたのか」  リビングに入ってきたイリヤは灰谷の姿を見てわずかに目を大きくさせた。時計を見ると夜の九時を回っている。予定より一時間以上遅くなってしまっていた。  「もう帰るところですよ」  「まだ育休中だろ。しっかり父親をやるんだぞ」  「わかっています。来週には復帰しますから」  「そんな急がなくていい」  「イリヤ様のお陰でお手伝いさんも来てくれるよう手配してくださって助かってます。長男も高校生になりましたし、だいぶ手がかかりません。イリヤ様よりしっかりしてますよ」  「……どういう意味だ?」  「そのままの意味ですよ。では、失礼します」  灰谷は目配せをして、そそくさと出ていってしまった。二人きりに残されてしまい空気に重量が増す。イリヤとは怒られた日以来、まともに顔を合わせていない。  ちゃんと謝らなきゃと背中ばかり押されてしまい、焦燥感からイリヤと会うのを避けていた。  「なんだよ、あいつ」  イリヤは舌打ちをして玄関の方を見た。その姿は見慣れた俺様のままだ。職場とは全然違う。  親戚中から疎まれていたイリヤは必死になっていまの地位を守っている。灰谷がそばにいてくれるが、血の繋がった家族ではない。きっと何度も疎外感を味わい、寂しい思いをしてきたのだろう。  イリヤの立場を思うと胸が苦しい。  ほろりと涙がこぼれると堰を切ったように次から次へと溢れて頬を濡らしていく。  イリヤは不機嫌そうに唇を尖らせた。  「人の顔を見て泣くとはなんだ」  「……灰谷さんから話を聞いて」  「あいつ、勝手に」  ちっと舌打ちをしてイリヤは目を鋭くさせた。  「それでどうしておまえが泣くんだ」  「……足を引っ張ってごめん」  「なんだそのことか」  イリヤは鞄からパソコンを出すと一通のメールを開いた。  「読んでみろ」  訳が分からず見返すと「ほら」と顎でしゃくらされた。  仕方がなく涙を拭って画面に視線を向けた。そこには氏家からの感謝の文が長々と綴られている。  どうやら三毛が届けたポーチの中には娘から貰った指輪が入っていたらしい。世界に一つしかないオーダーメイドのもので傷がつかないよう大切に持ち歩いているとのことだった。  「おまえがやったことは間違ってはない」  「でもフロントに迷惑かけたし」  「そうだ。それを自覚できたなら次に活かせ」  「うん。ありがとう」  「ん」  イリヤは罰が悪そうに唇を尖らせた。たぶんちょっと照れているのかもしれない。  「俺の生い立ちは気にするな。このホテルだけでおさまっているつもりはない。もっとデカいことをすると決めている」  「イリヤらしいな」  憎ったらしい言葉の方がイリヤに合っている。菩薩のような笑顔を振りまくのはらしくない。眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな顔をしながら毒舌を吐いているほう安心する。  (ん? なんで安心するんだ)  イリヤは偏屈で口が悪くて借金を背負わせてきた大嫌いな奴なのに、そっちの方がいいと思うのはどうしてだろうか。  「もう泣くなよ」  大きな手に頬を撫でられた。温かくてゴツゴツしている。顔は中性的なのに手は男の骨格を感じるもので、その違いにどきんと胸が高鳴った。  指の腹で涙を拭うイリヤの顔が近づいてくる。吐息が肌に触れ、きゅっと瞼を閉じた。  (もしかしてキスされる!?)  全身を流れる血流が顔に集まっている。熱い。頭がむずむずしてくる。  堪えようとしても制御できない。  「だめ!」  咄嗟にイリヤの肩を押して、頭を押さえた。お尻までむずむずする。  イリヤは目をぱちくりとさせて呆然としている。  「また今度!」  慌ててリビングを飛び出して部屋に入ると同時に耳と尻尾が飛び出した。  「見られてないよね?」  そうっと扉の隙間を開けて様子を窺ったがイリヤの気配はない。よかったと胸を撫で下ろし、その場に座り込んだ。  あとから追いついてきた心臓がどくどくと脈打っている。  (なんでキスなんてしようとしたんだろう)  泣いている子にはキスをすればいいと思っているのだろうか。  それとも別の意味があったのだろうか。  考えてもわからないことばかりで、しばらく悶々としていた。

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