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第9話
昨晩のことが気になってしまい、寝つけないまま朝を迎えた。脳内が蜘蛛の巣を張り巡らされたようにぼんやりするが身体は勝手に動いてくれる。
朝食用に卵焼きを焼いているとフライパンから立ち上る湯気に甘さが混じる。頬がにやっと下がる。甘い卵焼きは三毛の好物だ。
「卵焼きか」
「ひっ!」
いつのまにか後ろにイリヤが立っていて菜箸を落としそうになった。
ぎこちなく横を向くと小さな頭を肩に乗せられて距離が近い。しかも腰にイリヤの手の感触がある。
まるで恋人のような近さに目を回る。
「おにぎりにしてくれ。仕事するから」
「……うん」
すでに皿に盛ってある茄子の煮浸しを摘んでイリヤはリビングへ戻っていた。
触れられていた腰に意識が向く。シャツの上からだったのにくっきりと手形が残っているような気がしてしまう。
「あ、卵!」
慌ててひっくり返すとギリギリ焦げておらず、胸を撫で下ろした。
(さっきのはなんだったんだ)
あんな風に触れられたことなんて一度もない。いままでとの対応の違いに別人になってしまったのではないかと思ってしまう。
嗅ぎなれない匂いに鼻を鳴らすと自分のシャツにイリヤの香水が移ってしまっている。シトラスの香り。いつもイリヤがつけているものだ。
マーキングされたようで落ち着かない。シャツを擦ってなかったことにしようとしたが、余計匂いが身体に染みこんでいく気がする。
体温がどんどん上がってきて頭がむずむずしだす。
(これはマズい)
深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けさせようとしても、吸うたびに香水の匂いがしてまた心臓が騒ぎ出す。
落ち着くどころの話ではない。
意識を逸らそうとせっせとおにぎりを握っているとようやく落ち着いてきた。残りのおかずを盛りつけてテーブルに運んだ。
リビングテーブルでイリヤは仕事をしていた。日課である口コミのチェックだろう。
イリヤは家にいても仕事ばかりだ。ダラダラしているところを見たことがない。
食事のときでもパソコンと向き合っているので、片手で摘まめるものを好む。
行儀は悪いが、常に完璧を求められているので無理もない。
でも、とちらりとイリヤを睨みつけた。
(せっかく作ったんだからちゃんと味わって欲しい)
イリヤにとって食事は給油と同じ感覚なのかもしれない。義務的に咀嚼しているだけで味は二の次。ただ一日動けるエレルギーを補給できればいいのだろう。
ーーやっと気を許せる方ができたんだなと
灰谷に言わせてみればイリヤと三毛は心を許せる友なのだろうが、自分ではそう思えない。
会社と関係のない人間だから、嫌われようと平気で本来のねじ曲がった性格を出しているだけに過ぎないのだ。
あーだこーだと考えているとイリヤは「ふっ」と小さく笑った。視線はパソコンに向けられている。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「……そう」
イリヤは卵焼きを頬張りながらキーボードを打っていたが、わずかに目を見開いた。
「甘い」
「もしかして苦手だった?」
「いや……初めて食べた」。
確かに旅館や和食屋で出る卵焼きはしょっぱいものが多い。三毛屋でもそうだ。
でも板長は甘い卵焼きの方が好きで、賄いはいつも甘いものだった。それに慣れ親しんでいるせいでついイリヤの好みを訊くのを忘れていた。
イリヤは割れないように箸で慎重に掴み、卵焼きを目の高さにまで掲げて食い入るように見ている。
「母親が甘い卵焼きが好きだったらしい」
「美味しいよね」
「日本とフランスのハーフだったんだが、どうも日本食は苦手らしくて……唯一食べれたのが甘い卵焼きだったそうだ」
亡くなった母親を思い出すようにイリヤは瞬きもせずに卵焼きに見入っている。その顔を見ているだけで心臓が掴まれたように苦しくなった。
胸の中心からなにかが溢れ出そうだ。でもなんだろう。押し上げるような勢いなのに三毛が怖気づくとふっと力が弱まる。
抑え込むように胸を押さえると「どうした?」とイリヤは首を傾げた。
「てか味とかわかるんだね」
「当たり前だろ。俺をなんだと思ってる」
「見栄えの良いスポーツカー」
「は?」
意味が解らないと首を振ったイリヤがなんだかおかしかった。
自分が作ったものをちゃんと味わってくれているのが嬉しい。
「今日は確かオフだったな」
「そうだけど」
「出かけるぞ。支度しろ」
「急に言われても困るよ」
「俺の命令が聞けないのか?」
見慣れた意地の悪い表情にしゃあと威嚇したくなり、ぐっと堪えた。立場上、イリヤには逆らえない。
「……わかった」
「じゃあ早く食え」
仕事をしながらなくせにイリヤはほとんど食べ終わっている。三毛は慌てて朝食をかき込んだ。
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