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第10話

 私服はないのでスーツを着るとイリヤはげんなりとした顔をした。  「おまえ、休日でもスーツを着るのかよ」  「仕方がないじゃん。スウェットで出かけられないだろ」  イリヤの部屋に住むときに最低限の日用品を揃えるだけで資金は底を尽きた。私服を買う余裕はない。  イリヤはレモンイエローのシャツとストレートデニムでラフな格好だ。髪もワックスで固めていないのでさらさらと揺られていた。  普段はスーツでビシっと決まっているから気の抜けたファッションは新鮮に映る。  「買い出し?」  灰谷は育休でしばらく来ていない。イリヤの生活面をサポートして欲しいと頼まれていた。  買い置きはまだたくさんあった気がする。  「散歩だ」  「御曹司なのに散歩するの?」  「御曹司が散歩しちゃダメなのかよ」  「そうじゃないけど」  「行くぞ」  「待ってよ」  イリヤはさっさと歩きだしてしまった。  マンションのエントランスを抜けると春の日差しが照りつける。遠くの海がきらきらと水面を反射させているのがよく見えた。  革靴をぺたぺた鳴らしているとイリヤは溜息を吐いた。  「散歩ついでに三毛の服を買うか」  「いいよ、スーツで。もうだいぶ着慣れてきたし」  「今日はオフだ。オンオフの切り替えをすることも大事だ。じゃないと俺の気が休まらない」  そう言われてしまっては仕方がない。確かにスーツを着ている人の横でリラックスするのは難しいだろう。それに自分もどこか気を張っている節もある。  「わかった。じゃあ金ないからつけといてくれない? 働いて返すから」  「そんなに金がないのか?」  珍獣でも見るような顔に内心傷つく。産まれたときから勝ち組のイリヤには貧乏生活なんて想像もできないのだろう。  「廃業しかかってますからね!」  語気を強めるとイリヤは罰が悪そうに頬を掻いた。  「いや、失言だったな。そういう意味じゃなかったんだが」  「なんだよ」  「……もういい」  睨みつけるとイリヤはさっさと歩き出してしまった。  山下公園近くのマンションから歩いて二十分ほどで赤レンガ倉庫につく。目の前に広がる海に気持ちが昂る。  「すごい! 広い!」  見渡す限り水平線が続いている。遠くで船も見える。  海風に乗って潮の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。草や土の匂いで育ってきたのでジメッとした水を含んだ空気は初めてだ。  「こんなとこではしゃぐな。子どもじゃあるまいし」  「だって海初めてなんだもん!」  「富山にも海はあるだろう」  「うちは山の方だから」  「……はぁ」  どうやらイリヤは呆れてしまったようだ。でも仕方がない。海を前にしてテンションが上がるなという方が無理だ。  柵に身を乗り出して海を眺めていていると視界の端に胡桃色の髪が入る。  セットしていない髪をうっとおしそうに掻き上げるイリヤの手つきに心臓が跳ねた。  桜貝のようにきれいな爪と骨ばった細長い指。男らしい喉仏に目を奪われ、いつのまにか海へ向けていた視線がイリヤの容姿に奪われる。  (黙ってればすごくきれいな顔)  女子社員たちが騒ぐのも無理はない。フロントスタッフ内でもイリヤの人気は高く、遠縁の親戚だという三毛に根掘り葉掘り訊いてくる人もいる。  だが三毛はイリヤのことをよく知らない。  なにが好きでなにが嫌いか。友だちは何人いるのか。趣味や特技は?  けれど自分はイリヤの燃えるような闘争心があることを知っている。いつかホテルシュペルユール以上の事業をしようと企んでいることは誰も知らないだろう。  少しだけ誇らしい気分でいるとイリヤは胡乱げな顔になった。  「なんだ、人の顔をじっと見て」  「きれいな顔だなって」  「……よくそんなこと恥ずかしげもなく言えるな」  「だって本当のことだし!」  「三毛は突拍子もないから手に負えない」  そうやって毒舌を吐く癖にイリヤの表情が柔らかいものになっている。  その羽毛みたいな笑顔に心の奥がざわつく。甘い鼓動の響きに体温がじんわりと上げられた。  倉庫のなかのカフェで休憩し、そこから歩いてロープウェイ乗り場へと向かった。土曜日のお昼時だったが運よくすぐに乗れた。  座席に座るとそびえ立つビル群や観覧車が間近に迫る。横浜を一望すると現代的な美しさに圧倒された。緑に囲まれて育った三毛には新鮮に映る。  「三毛屋は山の中にあるんだよな」  「そう。山に囲まれた温泉街。と言ってもホテルは五軒くらいしかない小さいところだけどね」  「どうりで田舎者が抜けないんだな」  「悪かったね」  ぎろりと睨みつけるとイリヤはたんぽぽの綿毛みたいにふわりと笑った。  「でも三毛が周りから愛されて育ったのがわかるよ」  「子どもっぽいってこと?」  「青臭いってこと」  「なんだよ、それ」  イリヤは本当に口が悪い。褒めたいのか貶したいのかよくわからない奴だ。  でもこんな風に誰かと言い合うのは初めてだった。  小学校も中学、高校と猫憑きとして知られ、一歩引かれている節があった。  三毛を怒らせたり悲しませたりしたら祟りが起こるかのように。  友だちや同僚とはちょっと違うイリヤとの距離感は心地よい。  「俺はこの街しか知らない。うるさくて、慌ただしくて時々嫌になる。雑音が多すぎだな」  妾のことを指しているのだろうか。珍しい弱音にどうにかして力になってあげたくなってしまう。  「山は静かで落ち着くよ。川の水の冷たさとか草笛がきれいに鳴る草とか秋になったら紅葉で山の色が変わるところとかイリヤにも見せたいな」  「おとぎ話みたいだ」  「まぁ不便ではあるけどね」  車がないと移動できないし、ネットの通信も不安定だ。情報源はテレビかラジオしかない。  限られた娯楽だったが、飽きずに毎日遊んでいた。だがふと楽しいころの記憶が途切れる。  暗い闇の中で丸くなっている自分を思い出し、頭を振った。  「どうした?」  「なんでもない。次はどこに行く?」  「中華街だ」  「いいね。肉まん食べてみたい」  「自分で払えよ」  「つけといて」  「……おまえはいつまでうちで働くつもりなんだ」  呆れているイリヤに笑ってみせた。  ここは居心地がよすぎてしまう。

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