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第2話

露に濡れて蒸す苔の柔らかさ 幾重にも積み重なった、暖かな腐葉土の感触 風に乗って流れ降りてくる、松の葉の刺激的な香り 水面を滑る霧の湿り気 季節の移り変わりと共に、あらゆる花が薫る 乾燥した土のにおい 陽の光を吸った石の熱さ 肌を擦る涼やかな風 空を裂くように尖った山 どこまでも続く黄金色の草原 雪に烟る数多の黒い木立 1番好きな香りは 金木犀……  それらはもう、記憶の中にしかない。  ひとつしかない目を閉じ、余暇があればかつて見た世界を思い浮かべ、疾る。  あの時はよかった――などとは迫害の時期とも被る自分の経験上、到底思えないが、世界は確かに美しかった。その世界を壊したのは、この星を牛耳り資源を食いつぶしていた人間でも、世界大戦における数多の核でもなかった。  宇宙から飛来した、ひとつの石。  大地に巨大なクレーターを残した。  手繰り寄せてようやく思い出せる、美しかった世界の記憶が、あの日味わった衝撃にかき消される。 閃光と、爆風 鼻先を一瞬だけ掠めていった、未曾有の命が焦げる臭い 空を覆う焼けた潮の蒸気 悲鳴さえ、聞こえない 聞いたのは、自分の叫び声だけ 残ったのは 闇だった  ギュッ眉根を寄せてから、目を開く。  暗がりの非常口の床に、フロアで明滅する光が規則正しく反射している。ビートを刻む重低音が腹の底を揺らしていた。  俺は知らず詰めていた息を、小さく短く吐いた。一緒に強い落胆も追い出す。冷たい壁に背中を押し付けると、体がこわばっていることに気づいた。 (過去を追体験したいわけじゃなかったんだがな…)  じっとりと冷や汗に濡れた頸を撫でる。  この酷くうるさく臭い場所から逃げたかっただけだ。  仕事でなければ、こんなところ一秒もいたくない。片耳についたインカムでは他のバウンサー達が話す、くだらない会話が続いていた。金、賭博、喧嘩、女、男、食い物、酒…毎日飽きもせず同じ話ばかり。だが、現実に戻るためにはちょうどいいくだらなさだった。 「なあスラッシュ、お前は今日の客の中に好みはいねぇのか」  不意に自分のあだ名を呼ばれて、瞬く。 「…客なんか見てねえよ」  言うと、誰かが「なんだ起きてた」「いや、客は見ろよ。仕事だろ?」と笑いながら言う。このクラブに雇われているバウンサーは大勢いる。どれがどいつの声まではわからなかったし、どうでもよかったが。 「もったいねえな、さっき便所にいった女達がお前の噂をしていたぜ? いつもVIP席下の非常口を見張ってる、片目のワイルドな用心棒とお近づきになりてえってよ」  ため息だけで答えた。インカムの数人が失笑する。  まるで興味が沸かない。  満月が近ければ、また別だが。 「あーおこぼれに預かりてえぜ、ここはヴァンプの仕切る店だから上玉が多いしなぁ」 「やめとけ、どこの奴の『ディナー』かわからねえぜ? 手ぇ出してみろ、この街にいられなくなるぞ」  それは勘弁だとばかりに、強面揃いのバウンサー達が唸る。尻尾を足の間に挟み震え上がるのだ。  この街を創設した一族は、絶対的な権力を誇る。2世紀前に起こった大災害(ディープインパクト)、巨大な隕石落下で死滅しかけた人類を保護し、再度育んだのは他でもない、「吸血鬼」と呼ばれる奴らだ。強靭な不死の肉体を持ち、あの惨事を難なく生き延びた。……まあ、それは俺もなんだが。  吸血鬼達は、人間がいなければ成り立たない種族だ。人血を食糧とする一族なのだ、当たり前だろう。  大昔、奴らは互いを疎んじ争っていた。人間が一方的に吸血鬼を恐れ駆逐せんとした時期もあった。そして長い戦いの末、吸血鬼はお伽話の中だけの存在で、そんなものいないと言われた時代もあった。  しかし人間から忘れ去られても、奴らは闇の中で仲間達と結社を作り、ひっそりと文明に溶け込んで生き長らえていた。その時は、吸血鬼の奴らの方が人間に寄生していた。  そして先の大災害が起こる。  一文明が壊れるほど打撃を受けた人間に、吸血鬼達は救済の手を差し伸べた。客観的に見れば、吸血鬼達も食糧難に陥ったわけだから、当たり前の行為だったのかもしれないが。  ――だが。  吸血鬼達は時間をかけて、確かに世界をある程度復活させた。  また人間が徐々に増え、失われかけた文明は何とか途切れずに続いている。吸血鬼という分子を含むことで多少は歪になったかもしれないが。  俺は当初、考えていた。  きっと、文明を再建しつつも吸血鬼達は人間を家畜かなんかのように管理するのだと。そうした方が一族にとって都合が良いはずだと。  だが、そうはならなかった。  人間達は吸血鬼の元で健やかに増えていき、規模は小さいなりにも独立を果たし、都市を築き、かつての社会性を取り戻している。今や人間と吸血鬼は共生しているのだ。人間が新たに築いた都市に、吸血鬼の銅像が建っていることさえある。崇めるとまではいかなくても、救済してくれたことへの感謝の意を示しているのだろう。もちろん、吸血鬼達は「ささやかな見返り」を求めたが、それは滅亡を免れた人間にとっては大したことではないのだろう……今のところは。  俺はそんな一部始終を「異端者」として眺めてきた。  不思議だった。  この、新しい世界の秩序が。  俺に吸血鬼一族との繋がりはないし、わざわざ関係を持つ気もなかった。だから今の今まで吸血鬼達の本当の意図は謎のままだ。復活した人間から、定期的に輸血パックという形で血液の徴収をするという見返り……つまるところ「血税」だけで奴らは本当に良しとしたんだろうか。  だとすると、何故?  ――時間を持て余していた俺は、この街に引き寄せられたのかもしれない。いつかその答えがわかるのではないかと思って。  未だ、吸血鬼が支配し君臨する唯一の街…… 「……『メテオラ』か」  俺は小さく口に出して言う。  「あ?なんか言ったか?」とインカムの誰かが言う。応答せずいるとすぐに別のくだらない話題にうつっていった。  全てがまた、雑音になってゆく。  人間でもなく、吸血鬼でもない俺は。  ここでも居場所はない。  人狼は――この星に、俺ただひとり。
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