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第37話

 枕元でモバイルが鳴る。  警告音だ。 「鍵」のひとつが通信エリアの外へ出ようとしている。  本来ならば盗難防止による機能だ。だが今はそれが別の役割を果たしている。  モバイルを見ると、その「鍵」の持ち主は…スラッシュだった。  私は弾かれたように起き上がる。寝室を飛び出し、彼の部屋に走った。姿がない。クロゼットを開いて、あのぼろぼろのバックパックがあることはわかったが、彼の現在地を見て血の気が引いた。  メテオラの出入り口である郊外の西側トンネル付近。スラッシュはそこにいた。  私は喉の奥で、小さく悲鳴をあげた。  かろうじて寝巻きの上にカーディガンを羽織り、コートを掴みペントハウスを飛び出す。ゆっくりと登るエレベーターにヤキモキしながら、扉をこじ開けるように車両スペースに飛び出す。  だが、車に乗り込む前に思いとどまった。  スラッシュは私の奴隷ではない。  彼は自由なのだ。昔も今も、未来も。  血の契約はあったが、スラッシュがその鎖の存在に疲弊したならば、簡単に断ち切っていく。共にいた時の中で、愛されているんじゃないかと錯覚もしたが、彼には億劫な関係だったのかもしれない。  私が煩わしくなったのなら、私は手ずから彼の首輪を外してやらなければいけない。  彼が愛しいからこそ。  解放してあげなければ。  暗い雪道を走る。  4WDは少し揺れが強かった。私は側道を気にしながらハンドルを取られないよう何とか気を付けていた。助手席では現金を入れたジェラルミンケースが揺れるたびに小さくバウンドする。永遠ではないにしても、しばらくはスラッシュの助けになるはずだ。  クレーターの側壁に大きく開くトンネル。片側4車線の大きなそれが次第に大きくなる。車がほぼいない赤い常夜灯が不気味だった。  巨大なモンスターが口を開いているようで。  その脇に、人影を見つけた。  立ち尽くしその口を見ている。  私は車を寄せて停める。スラッシュは、突然現れた私に驚いていた。  精悍な彼の顔。美しい赤い隻眼。  何度も口付けしてくれた唇。  一度でもいいから、愛を囁いて欲しかった。 「去るなら、今までのように徒歩の旅より車の方がいいだろう」  運転中ずっと考えていた台詞を言う。  鎖を切ってやらなければ。  ここでの記憶が嫌なものになって欲しくない。私との関係を出来るだけ美しいものとして、彼の中に留めたかった。  なのに私は――我慢ができなかった  スラッシュと離れるのが嫌だった  ずっと 永遠に  この退屈な運命を共に  そばにいて欲しかった  それが私の身勝手な願いでも 「行かないで……」  子供のようにすがりたかった。  涙でスラッシュが見えなくなる。彼がどんな顔をしたのかわからない。瞼を閉じれば凍った涙がパリパリと音を立てる。だが彼を見るのが怖くて目を開けられなかった。  スラッシュが雪を踏む音がした。  彼が車に乗って去るのは見たくなかった。私は俯き、目を閉じていた。  だが、温かい指が顎に触れる。  はっとして瞼を開こうとしたが、涙が凍りついて開かない。慌てて目を擦ろうとした。けれど指が顎をさらに持ち上げる。  瞼に温かい唇が触れる。睫毛が温められ、氷が溶ける。恐る恐る開くと、スラッシュが私を見下ろしていた。 「星を、見に行こう」 「……」  彼は低く言い、私の背を押して車を回り込むと助手席のドアを開く。そこにあったジェラルミンケースを後部座席に無造作に放ると、私を乗せる。そして自分はまたフロントを回り込み、運転席に乗った。  すぐに車はスタートする。  トンネルに入ると、雪がない道はスムーズだった。涙を拭いながら、赤いライトが照らす運転席のスラッシュを見ていた。長いトンネルを抜ければまた雪道。街中よりも悪路で、時折軽くバウンドする。クレーター外は平原だ。暗く平坦な道の左右は農場の畑が広がっていて、今は大地に雪が覆っている。  闇を裂くように、フロントライトを灯した車は走ってゆく。  スラッシュは何も言わなかった。  会話がないまま、街から離れて行く。  このまま連れ去られてもいい。ふとそんな風に考え、恥じらった。まるで17歳やそこらに戻ったようだと。  不意に、車が脇道に入る。しばらく悪路を走り続け、葉を落とした低木が脇に生える場所に停まった。  エンジンが切られると、スラッシュはドアを開き車外へと出る。暗闇を移動し、また助手席の扉を開いた。  私も降りる。  着の身着のままで来たから、寒さがこたえた。コートの襟を掴んで肩をそびやかすと、スラッシュが開いた自分のコートの中に私を入れてくれた。  暖かかった。  あたりは闇だ。空の方が星で明るい。月はなかった。  街の明かりがないここは、空の川がよく見えた。  けれど、そんなものより。  星を見上げているスラッシュを彼の腕の中から見ていた。闇の中にある彼の瞳は一等星のように光っていた。人狼の瞳だ。 「…月もいいが、星が好きだ」  唐突にスラッシュが言う。  人狼は月が好きだと思っていた。物語のなかでは何かと月に結びついていたし。 「後、トマト料理にはチーズだ」 「え?」  予想外の言葉に聞き返す。 「バジルは欠かせん。……黒胡椒を効かせて。いくらでもバケットが食える。ライスでリゾットもいい」  本当にスラッシュの言葉なのかと、彼を見上げる。 「お前はホワイトソースが好きだろ」  彼が星から視線を外し私を見る。 「え? あ、…ああ」 「吸血鬼でも、タマネギ好きだよな」 「あれは、人間が勝手に」 「だが、ニンニクは避けてる」 「それはにおいが残るからで」  別に苦手じゃないと言いかけて、唇が塞がれる。すぐに離れていったけれど。 「キスの時も困るしな」 「……」  またスラッシュは空を見上げる。  彼の首筋に鼻を埋める。問い詰めたい気持ちはあった。けれどどうしてだかどうでもよくなってくる。喜びに胸がいっぱいになって。 「醤油を知っているか」 「ソイソースのことか?」 「そうだ。味噌は?」 「知ってる。あまり食べたことはないが」 「ヌカの漬物、ありゃなかなかに美味い」 「日本の料理も作るのか?」  先の大災害で半分が水没した島国。運良く生き残った者達は、島にいた吸血鬼達に護られながら未だその島に住んでいる。いや、あの島で我々は「鬼」とだけで呼ばれていたか。勤勉な民達は、そこでまた文化を築き…そういえば最近、特産の輸出品も出てきたはずだ。 「日本からその調味料を取り寄せようか?」  言うと、急いで顔を下ろしたスラッシュの顎が頭にぶつかる。 「いいのか? ここにも日本古来の調味料は売ってるが味がひどく悪い」 「私も日本料理、食べてみたい」 「…いい調味料が届けば、作ってやる」 「……ん…」  それはつまり。  私の元にまだいてくれるということ。  嬉しくて、コートの中で彼の身体に抱きつく。それをスラッシュは自分のコートごと抱き寄せてくれた。また少し涙ぐんでしまう。それを感じたのか、彼は私の頭を撫でた。 「すまなかった」  スラッシュが密かに言う。  私は彼の首筋に顔を埋めて首を振る。 「どうしたらいいか、わからねえんだ」  それにも首を振る。  スラッシュはずっと孤独だった。  私のように仲間もおらず、寄る辺もなく。  もっと理解すべきだった。  それがどれだけ心を削る生き方だったかを。  彼は疲れ果ててこの街に来た。  私が渇いて枯れ死にそうになっていたように。  だが、肉体の渇きはすぐに癒やせても、心の渇きはそうはいかない。スラッシュは与えられる潤いに困惑し、次第に柔らかくなる心に狼狽えた。彼の長い旅を支えたのは、全てを切り捨て石のように硬くなったそれだったからだ。  だからこそ、スラッシュは強くあれた。  そして私は。  そんな彼を―― 「愛してる、スラッシュ」  私は言った。  彼の身体が緊張するのがわかった。それでもその背中に縋り擦り付いた。 「愛してる…」  私の狼。  強靭な身体の奥深くに、精巧で繊細なガラスの心臓を持っている。  それが欲しい。  擦り付けた耳からドクドクと強く早い鼓動を感じる。いつもなら、食欲を掻き立てる音。でも今は違った。  私は彼の首に両腕を回す。 「抱いて…たくさん愛して…」  スラッシュの腕がためらう。 「俺はお前を穢したくない」 「穢れたりしない」 「しかし、誹りを受けるだろう…?」 「……」  スラッシュがキューブで激怒した理由を今知る。きっと私もまた色に溺れる吸血鬼だとでも人間に言われたのだろう。 「お前だけだ」 「え?」 「お前だけ知っていればいい。私が淫らなのは」  スラッシュの襟足を指で撫でる。鼻先で顎髭をなぞる。  彼を見上げた。闇の中でまだ瞳は光っていた。それは揺れる度、アンタレスのように瞬いた。 「秘密にしてくれるか?」  スラッシュの続く言葉はなかった。  それは私にも。  唇を重ねれば、不可能だ。  4WDの後部座席がそれなりに広くてよかった。  だがスラッシュが乗ってくるとやはり、そこまでは広くなくて足が窮屈だった。  スラッシュが後手にドアを閉じる。密閉された暗闇の中で彼の唇が落ちてくる。温かい胸に押しつぶされながら、濡れた音を響かせる。  大きな手が頸を揉むように撫でてくる。少し性急なキスですぐに昂ってきた。私もスラッシュの首に腕を回して、黒髪を軽く握り掻き回す。 「…苦しくないか?」  吐息の中、彼が言う。そんなことよりもっとキスが欲しくて唇にねだる。 「大丈夫、…どうして気にするんだ?」 「重いだろ。……今までだって、気にしてた」 「本当か? 嬉しい」  言葉を尽くす。スラッシュにちゃんと伝わるように。確かに彼はシートに肘をついている。私にのしかからないようにしていた。 「もっと抱きしめて」  彼の背に腕を回す。苦しいほど抱かれると確かに重くて少し笑う。 「本当だ…重い」  スラッシュも私の首筋でくつくつ笑う。そして更に体重をかけられた。 「でも温かい…」 「お前の身体は冷やっこい」 「寒がりでな…冬は堪える」 「だから最近、風呂が長いのか」 「そう。しっかり温まってから眠らないと、途中で目が覚める」  スラッシュの手が私の足から靴を取る。靴下も履いていなかったから冷え切っていて、甲を撫でる彼の手がとても温かかった。 「寝巻きのまま来たのか」  ズボンを下着ごと奪われる。素足が晒されてぞくりとしたが、彼は自分のコートの中に入れてくれた。 「だって…お前が行ってしまうかと」  両手でスラッシュの頬を撫でる。今思い出しても不安になる。まだ彼といるのが信じられない。 「逃げたくなったのは確かだが、軽率だった」  低い声が言う。 「私の執着が恐ろしくなった?」 「そうじゃない」  暗闇にぼんやりと輪郭を描く精悍な顔。じっと見つめる隻眼に、あの苦しみが滲む。 「自分の独占欲に怖くなった」 「……」 「お前を、自分だけのものにしてしまいたいと。思えば思うほど、どうしていいかわからなくなった。お前はあの街の王で、俺1人のものにすることなんかできねえのに、腹ばかりが立って。肉欲に溺れたセックスをすればするほど、お前を穢す自分が馬鹿みたいで、それに――…」  今までの苦しみを吐き出すように、スラッシュは次第に早口に言う。だが唐突に言葉を飲む。 「…それに?」 「……」  スラッシュは緩く首を振る。 「……俺は、怖かっただけだ」 「私が?」  彼は頷く。 「お前の愛が本物なのか」  温かい掌が頬を包む。 「知るのが怖かった」  愛おしさが込み上げる。闇の中で彼の顔ははっきりと見えないが、だからこそ彼も告白をしてくれているのではと感じた。 「ああ、スラッシュ…」  引き寄せて、抱きしめる。その後頭部を慈しむように撫でた。 「お前の何もかも欲しいと思っていたのは私もだ。お前と違って私はそれを我慢しなかった。気持ちを伝えないままで、お前の与えてくれる優しさに甘えて……苦しめたのは私だ」  言えばよかった。  私も怖かった。拒絶が。  愛は、必ずハッピーエンドにしてくれるわけじゃない。  本物の愛であればあるほど、臆病になる。  時には互いを傷つけ合う。  壊れた愛は、二度と元通りにはならない。  ならばいっそ、知らない方がいい。  きっとスラッシュもそう考えたんじゃないだろうか。  私達は似た者同士だ。 「愛しているよ、スラッシュ。誰よりも」  赤い瞳がじっと私を見る。  言葉が本物か、探られているのがわかった。  伝われ、伝わって欲しいと願いながら見つめることしかできない。  スラッシュが唇から細く息を吸うのがわかった。  小さく、彼は言う。 「死んでもいい…」  重なった心臓の音が、ひとつになったような気がした。

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