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第36話
今までに感じた怒りの中で、最も強いものだった。
理性を飛ばしながらも、冷静な俺はそれに驚いていた。
歓喜さえあった。
力で制圧をすること。
刃向かった愚かな者を踏みつける。
絶対の力をわからせる。
だがそれは一時の享楽でしかない。嵐が過ぎて残るのは、俺を見る恐怖の目、目、目……俺が感じるのは、落胆と疎外感だけだ。
しかしレオニスだけは違った。
心配そうに見上げていた。
嬉しかった。
けれど、すぐに強い罪悪感に苛まれた。
やってしまったと。粗相を恥じる犬のように。
レオニスは許してくれたし、慰めてもくれようとした。それに何処となく嬉しそうにもしていた。主人に対する暴言を見過ごさなかった俺の忠義を感じ取ったからだろうか?
それに縋りたかった。
沈む心を、レオニスとのセックスで紛らわしたかった。
だが、あのクソどもが言った言葉がグルグルと頭の中を回っていた。
レオニスは俺がいなければ、高潔だった。
身体は弱り切っていても、清らかだっただろう。それがいいかどうかは別としてだが、たとえあんな風に中傷を受けても、事実無根と笑い飛ばせただろう。
だが俺の血が、奴に性欲を思い出させた。
そして俺は。
アイツを抱いた。何度も、何度も。
淫らに身体を拓かせて、貪った。
あの中傷はもはや嘘じゃない。
俺がアイツを淫らにする。性欲に浸して、穢す。
俺が怒り狂ったのは、レオニスのためじゃない。
図星を突かれた、俺の逆鱗なだけだ。
「お前がレオニスを穢しているんだ」と。
夜半、俺は防寒コートを着て部屋を出た。
レオニスが眠ってしまったのはわかっていた。耳をそば立てれば、穏やかな寝息が寝室からする。寝返りを打つらしき布ずれの音が随分長く聞こえていたが、それも暫くない。
自室の扉を閉めずに玄関を出る。エレベーターに乗り、外へと出る。街灯が灯る暗い空。雪は降っていなかったが、まばらにある雲は低い。空気は刺すように冷たく、俺にはちょうど良かった。少し滑りがちな道を歩く。
車も道にはほとんどいない。大通りでも静かだった。
白い息を吐きながら、歩いていた。寝静まった街。こんな寒空、凍死したくなければ家を出る者はいない。
まっすぐクレーター側壁の方に向かう道を歩く。次第にビルは低くなり、灯りも暗くなる。それでも俺の目は見通しが効いた。
随分と歩いた先に、断崖絶壁のクレーター側壁が闇の中、目前にそそり立つ。街から外へと繋がる太い道はポツポツと街灯を点すだけで、ほぼ闇だ。音もない。クレーターを貫通する大きなトンネルだけが煌々と光を灯していた。
これを潜って街に来た時、俺はどんなことを考えていただろう。今のような事態は想像もしていなかった。振り返り、雪景色の中キラキラと輝く街を見る。中央に尖塔を有しシンメトリーを描いている。
散りばめた宝石のように美しい街だ。
今でもそう思う。
そして、それを治める美しい吸血鬼。
(レオニス…)
その男の名を、心の中で繰り返す。
お前の愛し方がわからない。
良かれとしても、なにひとつ正しくないような気がする。求めれば求めるほど、俺は混乱して間違いを犯す。愛しいと思えば思うほど、酷く身勝手な気がする。
だが、どうしても。
暴力的に奪いたくなる。
何もかもからアイツを。
すべて俺だけのものだと。
そして利己的に満足する浅ましさに愕然とする。俺はこの人の皮を剥ぎたくなる。狼の姿になって、単調な生きるための欲だけを持ち、あるがままでいられたら。
むしろ、犬として拾われレオニスの元で飼われたっていい。主人を守ることだけをひたすらに考える、獣の方がいい。
レオニスに対して、プライドなどもうない。
膝に擦り寄り、耳を下げて頭を撫でられる心地を知りたい。揺れそうになる尾を叱咤し律することもなく。
馬鹿な。
俺は自嘲的に笑った。
獣になっても、アイツの元にいることを考えている。例えそれが叶っても、俺はいつか必ず獣の姿でレオニスを犯そうとするだろう。
変わらない、何も。
俺がアイツを穢すことには。
アイツにとって俺は居なくてもいい。身体は弱っていても、生きられはしていたのだ。仲間に護られながら。俺の血を知り、擁したことで弱みをマフィア共に晒す必要もなく、好色な側面を俺に掘り返されることもなく。
俺だって。
何も知らなければ、今まで通りだ。
慣れた孤独の中で平坦な道を歩いてゆく。それに徹していられた。
(このトンネルを潜れば…)
眼前に口を開く赤い常夜灯のトンネルを見る。
ここから出てゆき、2度と戻らなければ。俺は何もかもを過去のものに出来るだろうか。この星が滅びる日まで、何も知らないフリをして生きて行けるだろうか。
その方が良い案に思える。
だが、どうしてだろう。
この身体の中に、心臓はもうない……そんな風に感じる。
心臓を落っことして、生きて行けるのか。
空虚な身体だけで。
俺はその穴を、何で埋めればいい?
いや。
それが本当の「死」だ。
トンネルの前で立ち尽くす。
進むことも、戻ることもできずに。
そんな俺の横に、ゆっくりと近づいてきた車が停まった。こんなところで固まったように動かない俺を不審がった道路警らの者だろうかと、首を緩慢に巡らせる。
驚いた。
その車の運転席に座っていたのは、レオニスだった。
ドアを開いて降りてくる。エンジンは切られず、ハザードランプもついたまま。
「どうしてここが――」
単純な疑問を言いかけた。
だが、レオニスの次の言葉に驚き、言葉を飲んだ。
「去るなら、今までのように徒歩の旅より車の方がいいだろう」
白い息が闇に散る。コートの襟に埋まった端正な顔はよくわからない。点滅するライトに照らされ、その度表情が変わるようにも見えた。
そして、身体を少しずらすと。
俺に運転席を示す。
その空っぽの席を見て、ようやく俺は気づいた。
去る気など微塵もなかったことに。
愕然として、俺はレオニスに口早に言う。
「レオニス、俺は…っ…」
顔を向けてまた言葉を失う。
そこには、顔をくしゃくしゃにして泣いているレオニスがいた。声を殺して、息を詰めながら。
色を失った唇から、切れ切れに言葉が漏れる。
指は白くなるほど自分の襟を掴んで。
「行か…な、いで………」
絞り出すような、声だった。
身が引き裂かれるような痛みを覚える。
俺は知った。
「愛」とは、どんなものかを。
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