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第35話

 ステラに到着すると、スラッシュは先にペントハウスに戻ると言って行ってしまった。静止することすらできなかった。  車の中で、彼は疲労を滲ませ何も話さなかった。身体が疲れていると言うよりは、何かが喉につっかえて苦しんでいる…そんな様子だった。  私用の広い駐車スペースで立ち尽くしていると、エドが運転席から降りてくる。 「レオニス様、申し訳ありません。僕が止めなければならなかったんでしょうが」 「いいんだ。あんなスラッシュは私も初めて見た。人狼の本来の荒々しさだろう。お前が恐怖するのもわかる」  幸い、死人は出ていないがしばらく使い物にならないバウンサーが数名出た。クリスチャンはやれやれと首を振るだけだったが。 「一体何があったんだ、どうしてスラッシュは我を忘れた?」 「それは…」  エドは言いづらそうにする。 「話すんだ。どんなことでも構わないから」 「……」  エドはしばらく考えた後、話し始めた。  要約すれば。  スラッシュは見知らぬバウンサーから私の誹謗中傷を聞き、怒った。そういうことのようだった。エドは中傷の内容は言わなかったが、それなりに汚い内容だったとは想像つく。 「スラッシュは相手と言葉さえ交わしていません。ただ一方的に彼らが中傷して…そして唐突に」 「攻撃したのか」 「はい…僕も虚をつかれたくらいで」  私はそれを聞いて。  はしたなくも、震えるほど嬉しかった。  スラッシュは私のために怒り狂った。それは純粋に彼が私を想ってくれている表れだったのじゃないか。中傷の内容が判然としないため、彼がどんなことに逆上したのかはわからないが、それでも…私は今すぐ走ってペントハウスに戻り、彼を慰撫してやりたいくらいだった。  ただ、我に返った瞬間に見せた苦しそうな表情。あれは何だったのだろう。どうしてあんな顔をしたのか…怒りに流されたことへの罪悪感だったのか。 「わかった。エド、お前も今日は難儀だったな」 「いいえ」 「後でクリスチャンにはバウンサーの見舞金を用意しておく。お前が気にすることじゃない。…それと。私とスラッシュの関係に関しては、まだ他言無用としてくれ」 「それはもちろん」 「では、今日はお前も戻って休むといい」  私はエドに別れを告げ、ペントハウスへのエレベーターに乗り込んだ。  部屋に戻れば、スラッシュはキッチンにいた。コーヒーの香りがしている。ジャケットは脱ぎ、スラックスのままだったが足は裸足だった。湯気の立つマグを覗き込んだまま微動だにしなかった。私が戻ったことには気づいているはずなのに。 「スラッシュ、今日は嫌な仕事をさせてしまったな。すまない」  私は彼を労おうと、近づく。  彼はマグから目をあげずぼんやりとしていた。しばらく返事があるかとその横顔を見つめる。眼帯のせいで表情はまるでわからない。 「死人は出てないか」  不意に平坦な低い声が言う。 「ああ、怪我人は出たが。後でちゃんと処理をしておく」 「すまん」  すまん。スラッシュが詫びたことに驚いた。そんなにも殊勝になるなんて、それほど彼は抱いた怒りに罪悪感を覚えたのだろうか。  近づきその腕に触れる。 「お前は気にしなくていい…その、私を……かばってくれたんだろう?」 「さあ、わからん」  恥ずかしさにとぼけている、そんな風でもなかった。その声音はやはり平坦で無感情だった。  違和感を覚える。  彼の顔がよく見たくて、マグを持つ手を下ろさせ腕を掴み身体をこちらに向けさせる。特に抵抗もなく、スラッシュは私を見下ろした。  いつもの表情に見えた。けれど何か違う。  その「何か」がわからなくて、もどかしく思った。だが彼に質問をしてもきっと答えてくれないだろうとはわかった。 「お前はそうかもしれないが、私は嬉しい。…ありがとう、スラッシュ」 「……」  笑いかける。  すると、彼の瞳にまたあの苦しそうな色がゆらめいた。  何故。どうして。  何がそんなにスラッシュを苦悩させている? どうして彼はこんなにも悲しそうなのか。 「スラッシュ? …どうしたんだ。何故そんな辛そうな顔を」  彼の頬を撫でる。隻眼を瞬かせ、閉じてしまう。 「何でもない」 「何でもないことあるか」 「本当だ」 「何言ってる。……それ程嫌なことを言われたなら、私が聞――…、…ン……」  鼻梁が擦り付いたと思ったら、唇を奪われ言葉が飛んだ。  コーヒーの味がする舌が入ってくる。唇を喰むような仕草はいつも通り甘い。だが、少し肥大したままの犬歯が舌にあたり、やはり彼の怒りが未だその身体に燻っていることを知った。  リップ音と濡れた音。けれどスラッシュの手は私に触れていない。だから、私の方が彼の身体に押し付ける。  さあ、抱いて。  私が癒してやる。  お前が望むなら、怒りがおさまるまで抱きしめて眠ってやろう。  次第に舌を深く絡ませ、互いを吸う。短い吐息をぶつけながら。  私はそろりと手を彼の腹から下腹へと撫で下ろす。ベルトのバックルを過ぎ、ジッパーの前盾に指が触れれば、そこが硬く膨らんでいるのがすぐにわかる。 (ああ…)  スラッシュが私に欲情している。  ゆっくりと布の上からそれを撫で探る。より中で膨らむのがわかる。掌で包むようにしながら下から上に指を何度も這わせた。  その私の手に、スラッシュの温かい手が重なる。揉む指を促すように、撫でられる。次第に互いの喘ぐような吐息を聞きながら、緩急をつけて擦る。  直に触れたい。今まで数度しか触れたことがないスラッシュの雄。私は彼に幾度も手や口でイかされているのに、私には彼自身をあまり触れさせない。彼の雄の感触を1番知っているのは、間違いなく私のアヌスだろう。  それでもいい。  彼が欲しい。  言葉はなくてもいい。  彼の心は、赤い隻眼の中にある。  それを見上げながら、彼を中に感じたい。  だが―― 「…っ…?!」  いきなり、スラッシュは私の身体を押し返す。手も掴まれ、私の腹あたりに返されてしまった。何事か分からなくて目を丸くしてしまう。  彼を見れば。  目尻を欲に染めているものの、やはり瞳にあるのは強い迷いで。濡れた唇を舐めると、上がった息を噛み殺しながらスラッシュは小さく言った。 「血は、明日の朝にしてくれ」  そういうと巨躯を翻し、リビングを抜けて自室へと大股に戻っていってしまった。  残された私は、疼く身体を持て余したままそこに立ち尽くしていた。 「……え…?」  どうして。  拒絶された?  あんなにも、欲情していたのに。  彼から口付けもしてくれたのに。  何故。 「……」  理由がわからなくて、ただ悲しかった。胸が押しつぶされたように苦しい。  ついさっきまで、スラッシュの密かな愛情を感じられていたのに、今はもう何も分からなくなっていた。温かかった胸も冷えてゆく。  血なんてどうでもいい。  力もなくていい。  彼がいるだけで、私は安らかなのに。  スラッシュ……どうして。  どうして、ひとりで苦しむんだ。

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