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2.血の訪問者と3センチの呪い
魔界の片隅に佇む、少し古びた悪魔の館。そこが、ルシェルとノクスの住処だった。
昨夜の王宮での騒動が嘘のように、二人は穏やかな朝を迎えていた。寝室には柔らかな陽光が差し込み、抱き合って眠る二人を照らしている。その姿は、まるで天使のように美しかった。
「ん……」
先に目を覚ましたのはルシェル。隣で眠るノクスの寝顔を眺め、その柔らかな頬にそっとキスを落とす。
「おはよう、ノクス」
「んん……ルシェル……?」
ノクスが甘えるように腕を絡めてくる。その仕草に、ルシェルは微笑んだ。
「今日は、いつもより甘えたい気分……」
ノクスはルシェルの胸に顔を埋め、すり寄る。まるで甘える子犬のようだった。
「ふふ、可愛いな。好きなだけ甘えていいよ」
ルシェルはノクスの髪を撫で、囁く。
ノクスは恍惚の表情を浮かべ、ルシェルの指を口に含んだ。
「ん……おいしい…」
「こら♡僕の指は朝ご飯じゃないぞ♡」
ルシェルの指をぴちゃぴちゃと念入りに舐めるノクス。
「食べたい…食べちゃだめ?」
ノクスは甘えた表情でルシェルを見上げ、そっとルシェルの指を噛んだ。
「んっ……!こら、食いしん坊め」
「先っちょだけ……良い?」
ぐ、とルシェルの柔らかい肌に、ノクスの鋭い犬歯が食い込む。微かな痛みと『噛み切られてしまうかもしれない』という期待で、ルシェルは目を潤ませた。
繰り返すが、二人は上級悪魔だ。ナイフで切り刻まれようと、腹わたを引き摺り出されようと、すぐに復活する。指の一本や二本無くなったとて、問題は無い。むしろ、傷口から滴る血を舐め取り、肉を食むことで、性的興奮が増長されるのだった。
ルシェルの表情がトロけたのを確認して、ノクスは悪戯っぽく笑んだ。
「今日はどこにしようかな〜…」
「ノクス……ッ♡」
「ここにする?こっちかな?」
指の先を一本ずつ噛み、手首、前腕、腹部ーールシェルの甘味な肌にノクスは長い舌を這わせ、やがて陰茎にたどり着いた。
「あぁっ……♡」
ルシェルは期待に満ちた嬌声を上げて、ノクスの頭を掴んで股間に押し付けた。マニキュアを塗ったような黒い悪魔の鋭い爪が、ノクスの髪をしゃらりと揺らした。
「ルシェルは痛いの好きだから、ここ噛まれたらイッちゃうかもね」
「やだあ♡痛いことしないでえ♡」
「欲しくて堪らない癖に」
「あぁッ♡♡」
ーー二人はしばらく、静かで甘い朝を楽しんでいた。
しかし──
ドン! ドン!
館の扉を叩く音が響く。
「……誰だよ、こんな朝っぱらから」
時刻は昼前だが、ノクスは不機嫌そうに顔をしかめた。
「なんだか嫌な予感がする」
「やっぱり? おれもそんな気がする」
ノクスは犬の嗅覚と聴覚を持ち、ルシェルは鷲の翼を持つ。鳥類が災害を予知するように、ルシェルもまた、胸騒ぎを感じていた。
「出ない方がいいかも。居留守使う?」
ノクスは頬を膨らませ、ルシェルにしがみつく。
だが──
ドン! ドン! ドン!!
ノックは鳴り止まない。
「……仕方ない、少し待ってて。すぐ追い払ってくるから」
ルシェルはそう言い、服を羽織って寝室を出た。
「朝から訪ねてくるなんて、ろくな用事じゃないだろうな……」
ぶつぶつ言いながら扉を開けると、そこには見慣れない悪魔が立っていた。
黒いローブを纏い、フードで顔を隠している。
ルシェルは風の匂いを嗅いだ。臭気が少ない。種族は判別できないが、取るに足らない小物悪魔だろう。
「お、お前がルシェル…!? いや、ノクスか!?」
小物悪魔は叫び、小刻みに震えていた。様子がおかしい。
「ーーお前は誰だ? 何の用だ?」
ルシェルは冷ややかに尋ねた。
「こ、これを受け取れ……!!」
小物悪魔は怯えたまま叫ぶと、手に持っていた箱をルシェルに投げつけた。
次の瞬間——箱が爆発した。
轟音と閃光、黒煙がルシェルを包み込む。投げた小物悪魔も逃げる間もなく爆発に巻き込まれた。
「ルシェル……!?」
寝室で待っていたノクスが、爆発音に驚いて飛び出してきた。
部屋は瓦礫と黒煙に覆われ、惨状を極めていた。
「げほ、ごほ……! 何が起きたの!? 家がめちゃくちゃじゃん!」
ノクスは誰もいない瓦礫に向かって叫ぶ。
『……小物悪魔が来てさ』
煙の立ち込める「元」部屋に、不気味な声が響く。
瓦礫の下から、どろりとした泥水のようなものがせり上がった。
蠢く泥水に、二つの目玉が浮かび上がる。
『ご丁寧にもお土産持参で、うちの玄関で自爆してくれたってわけ』
「わーっ! 朝食が……! それに、くまちゃんが〜!」
ノクスは数トンはありそうな瓦礫を軽々と持ち上げ、その下に落ちていたテディベアを拾い上げた。土埃を払っているノクスの背後でーー
泥水がゆっくりと人の形を取り始めた。
頭、臓器、胴体、手足——順に形成され、やがて裸のルシェルが姿を現した。
「……誰だか知らないけど、ずいぶんショボい手を使ってくるね。舐められたもんだな」
体についた汚れを払いながら、ルシェルは平然と呟く。
その肌には傷一つない。上級悪魔である彼に、爆発程度の物理攻撃は通じなかった。しかし、着ていた服や靴は、無残に焼け落ちていた。
「ルシェル、見てよー! くまちゃんがこんな姿に……!」
ノクスが駆け寄り、ボロボロになったテディベアを突き出す。
目玉は取れ、あちこちから綿が飛び出し、かつての可愛らしさは見る影もなかった。
「それに、朝食が台無しだよぉ! 昨日市場で買った魔界トマトと血のソーセージ、それに果物のスープもぐちゃぐちゃに……」
ノクスは涙目でテディベアを抱きしめ、肩を落とした。
「……おれのノクスにそんな顔をさせるなんて、許せないな」
ルシェルにとって、壊れた家も、綿の飛び出たテディベアも、吹き飛んだ朝食も、どうでもいい。けれど、ノクスが悲しむのは気に入らなかった。
素足のまま、無造作に瓦礫を踏み越え、焼け焦げた小物悪魔の頭部を踏みつける。
「ひっ……!!」
「誰の指図だ?」
ぐにゅ、と嫌な音を立て、溶けかかった小物悪魔の頭が歪む。あと少し力を加えれば、完全に潰れるだろう。
「ぐう……!」
「知っていることを全部話せば、命だけは見逃してやる」
「知らねえよお!!!」
ルシェルの黒く艶やかな足の爪が、じわじわと悪魔の頭を踏みしだく。ぬるりとした肉が指に絡み、小物悪魔は苦悶の声を漏らした。
「ぐあぁ…!! 待ってくれ! 俺は言われた通りにやっただけだ!! 俺は悪くない!!!」
「そのセリフ、100万回くらい聞いたなぁ」
しゃがみ込んだノクスが、小枝で小物悪魔の顔をつついていた。些細な攻撃だが、瀕死の相手にとっては致命的だ。
「ひぃッ、やめてくれえ!!!」
「いいから教えろよ。誰の指示だ?」
小物悪魔はガタガタと震え、口を開きかけた——その瞬間。
黒い炎が突然、小物悪魔の体を包み込んだ。
「……ぐあああああああ…!」
悲鳴を上げながら燃え上がり、塵となって消える。
「……!?」
地面には、黒く焼け焦げた刻印だけが残る。
「時限式の呪いか……周到だな」
燃え跡を睨みつけ、ルシェルが呟く。
ノクスは灰を指で掬い取ると、ぺろりと舐めた。
「どう?何か分かる?」とルシェルが訊く。
「残穢があるね。辿っていけそうだ。ルシェル、羽根を貸してくれる?」
「勿論」
そして、二人は空へと飛び立った。
△▼△▼△▼ △▼△▼△▼ △▼△▼△▼
魔界の片隅、とある屋敷の一室。
怪しげな呪具、危険な武器、魔道具が所狭しと並ぶ薄暗い空間で、一人の悪魔が椅子に腰掛け、貧乏ゆすりをしていた。
――ディアス。
かつて「魔界のプレイボーイ」として名を馳せた男。地位も名誉もすべてを手にしていたはずの彼は、今や怒りと屈辱の塊と化していた。
「……あいつら……絶対に許さん……!」
刺客として送り込んだ下級悪魔が返り討ちにあった時点で、ディアスにはわかっていた。
あのふたりは、必ずここへ来る――と。
その時が、訪れた。
バサッ――と大きな羽音。
ディアスが顔を上げると、闇夜のごとき黒い翼を広げた影が、バルコニーに軽やかに降り立った。
ルシェルとノクス。
見た目は少年のようだが、実際は五百年を生きる上級悪魔。王家の遠い血筋に連なる、魔界でも名高い悪戯好きコンビである。
「ククク……よくぞ俺の刺客を殺してくれたな……!」
ディアスは椅子から立ち上がり、いかにも悪役らしく笑う。
「えーっと、誰だっけ?」
ルシェルとノクスはディアスの屋敷の厨房から盗んだ血のソーセージを齧りながら、首を傾げた。
雑魚悪魔を殺した魔力の痕跡を辿ってここまで来たがーー顔を見ても、どうにも思い出せなかったのだ。
ディアスのこめかみに、ピキリと青筋が走る。
「ディアス様だ!!!!!」
「はあ……なんか聞いたことあるような、ないような……」
「ぬうう……貴様ら……!!」
怒りに震えながらも、ディアスはマントを翻す。そして、考えに考え抜いた決め台詞を高らかに叫ぶ。
「ルシェル!ノクス!ああ、憎き貴様らの顔が見られて嬉しいぜ……!今日がお前らの命日だ!」
「わっ、出た〜。自分のことラスボスだと思ってるD級悪魔〜」
「てかあの雑魚悪魔くん、爆発したけど途中まで生きてたよね?」
「止めを刺したのはこいつの魔法だよな」
ふたりはこそこそ耳打ちしながら、巧妙な悪役気取りのディアスに飽き始めていた。
「で、僕たちに何の用?」
ルシェルが小首を傾げると、ディアスの怒りがさらに煮え立つ。
「……貴様ら、本当に覚えていないのか……!?」
「え、なに?」
「情緒不安定なんじゃない?被害妄想こじらせてるし、あんま触れないでおこう?」
「ふ、ふざけ……!!」
ディアスは怒り狂った。
だが、ルシェルとノクスは好き勝手に喋り続ける。
「外見もキモいし、心もヤバいなんて終わってる〜。ノクス、もう行こ?」
「うん。またね〜」
「貴様らのせいだろうがああああああ!!!」
ディアスの絶叫が屋敷中に響き渡る。
魔力の覇気が放たれ、壁も窓もビリビリと震える。だが、ふたりはまるで珍しい昆虫でも見るように、目を輝かせた。
「お、キレた!」
「貴様らが俺にかけた呪い……それは……!」
ディアスの怒号が響く。
「俺の息子(物理)を……3センチにする呪いだ!!!」
しん……と部屋に静寂が落ちる。
「……え?」
「なんだって?」
顔を見合わせるルシェルとノクス。
「貴様らのせいで、俺の人生は滅茶苦茶だ!!嫁には愛想を尽かされ、子供とも引き離され、愛人たちも去っていった!!俺はこの屋敷で、ひとりぼっちだ……!」
かつての魔界のプレイボーイが、雄の象徴とプライドを失い、膝から崩れ落ちる。
「3センチ!!この小指より小さい……それに、それに……!」
ディアスは泣き崩れ、叫ぶ。
「10歳の息子のほうがデカいんだあああああ!!!!」
「……ああ!思い出した!」
ようやくふたりが手を打つ。
「あの時の悪戯じゃない?ほら、暇すぎて、魔界中飛び回って目に付いた奴に適当に魔法掛けてた日があったじゃん(笑)」
「あ、思い出した!でも、あれはジョークじゃん?(笑)」
「こんなに根に持つなんてね〜(笑)」
――ボンッ!
ディアスの怒りが頂点に達し、部屋中の魔道具が一斉に光を放つ。
「貴様らああああああああ!!!」
ディアスが飛びかかると同時に、無数の武器がふたりに襲いかかる。
剣、鎖、爆裂魔法、ゴブリン召喚――あらゆる攻撃が飛び交う中。
「魔法障壁(ガード)」
ルシェルが指を振るだけで、青い魔法陣が浮かび、すべての攻撃を弾く。
「くそっ……!」
歯ぎしりしながら、ディアスは次の手を繰り出すが――無駄だった。
その間にも、ふたりは雑談を始める。
「なあ、なんかおやつ食べたくない?」
「プリンとか欲しいよね」
――ズゴォォォン!!
ディアスの全力魔法が炸裂するが、ふたりには無傷。
「許さん!!絶対に許さんぞおおおお!!!」
怒りの咆哮が響いた、その瞬間。
――ボウッ!
青白い炎がディアスを包み込む。
「ぐああああああ!!!」
黒焦げになって、パタリと倒れた。
「……焼きすぎ(ウェルダン)だな」
「骨まで真っ黒」
ルシェルが焦げた腕をつまみ、興味なさげに放り投げる。
「帰ろっか」「うん、お腹すいたし」
ふたりが踵を返した、その時。
「待てええええええ!!!!!」
黒焦げのまま、ディアスが飛び起きる。
「お前ら……俺をこんな姿にしておいて……!」
「いや、だって敵意全開だったじゃん」「自業自得だよ?」
「ぐぬぬぬ……!!」
「まあまあ」ノクスが手を振る。
「そんなに怒らないで。君、なんか可哀想だからさ、お詫びにプレゼントあげるよ」
「プレゼント……?」
「うん!」
ノクスは朗らかに笑って、こう言った。
「君の息子(物理)、100センチにしてあげる!」
「…………え?」
ディアスの思考が一瞬止まる。
100センチ。
100センチ。
かつての自分のサイズを遥かに超える、常識を超えた長さ。どう考えても大きすぎる。だが――
(3センチよりはマシだろう!!!!)
ディアスは震えながら頷いた。
「……お、お前ら……! 許してやる!!!」
「え、マジ?」「単純だなあ」
ルシェルとノクスは顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「よーし、それじゃあいくよー」「ちゃちゃっとやっちゃおう」
ふたりは軽く指を鳴らし、呪文を詠唱する。
「闇夜に舞う影の加護よ、汝の器を拡張せしめよ――!」
――パァァァン!!
まばゆい光が弾ける。
ディアスは興奮しながら自らの股間を見下ろした。
「どうだ……!? 俺の息子は……!?」
しかし。
そこに変化はなかった。
ディアスの股間は、相変わらず有るのか無いのか分からない、哀れな3センチのまま。
「……?」
「……あれ?」
ルシェルとノクスも首をかしげる。
「おかしいな」「確かに成功したはずなんだけど……」
その時だった。
ブォォォォォン!!!!
魔界の彼方、ディアスの元嫁の実家。
一人の少年が、突然ズボンを破裂させ、雄叫びを上げた。
「ぎゃあああああああ!!!!!」
ディアスの息子(子供)の股間が、100センチになっていたのだ。
「……ん?」「あれれ?」
ルシェルとノクスが顔を見合わせる。
「えっと……ターゲット間違えた?」
「……まあ、いいか」
「面白いしね!」
「うん、面白いし!」
「待てええええええええええ!!!!!」
ディアスの絶叫を背に、ルシェルとノクスは軽やかに屋敷を飛び出した。
ーーふたりの悪戯は、ディアスだけでなく、その家族すら敵に回した。
だが、魔界には五万とおりの恨みが渦巻いている。今回の件も、そのうちのひとつに過ぎない。
「次はどんな刺客が来るかな?」とのんびり構えながら、ふたりは新たな悪戯や冒険を繰り広げるのだった。
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