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第2話
「……1827円でーす」
見るからにやる気のない深夜のコンビニバイトが、茹ですぎたうどんみたいに語尾を伸ばしながら、気だるげに金額を告げる。
その雰囲気につられて、こっちの気分までだれてしまいそうだ。
「あ、」
レジの台に並べられた弁当とタバコと缶ビールを見て、うっかりレジ袋を頼むのを忘れていたことに気がついた。
弁当と煙草だけならどうにかなったが、買い溜め用の缶ビールもあっては、とても手で持ち帰れる量ではない。もちろんずぼらな星 がエコバッグなど持ち歩いているはずもない。
「すみません、レジ袋1枚ください」
仕方ないので、しぶしぶ追加のレジ袋を頼むことにするが、この瞬間はいつも釈然としない。
昨日まで無料だったものが有料になる。それも海洋プラスチックごみの削減とかいう自分の生活に関係しているのかしていないのか、よく分からない目的のために。
たかがレジ袋ごときが有料になったこともそれなりに腹が立つが、本来選択を必要としなかったはずのプロセスに、突然レジ袋の要否という判断を強いられるようになったことが何より煩わしかった。
コンビニは選択の連続に疲れた現代人が、思考を放棄して便利を金で買う。そういう場所なのに、そんなところにまで本人の意思を介在させないでほしいと思う。
しかし最初は文句を言っていた周囲の人間も、いつの間にかこのシステムに慣れ始めていて、それぞれお気に入りのエコバッグを鞄に一つは忍ばせるようになった。
みんな文句を言いながらも順応する。
置いて行かれた気になっているのは星 だけだ。
「っしたー」
会計を済ませ、もはや原型を留めない「ありがとうございました」を背中で聞きながら、足早にコンビニを後にする。
なんだか晴れない気持ちのまま、右手でズボンのポケットをまさぐった。潰れかけた箱から少し飛び出した煙草を口に咥え、ライターを翳す。
「……あれ?」
砂利を蹴るような音を立てて、ライターのフリントホイールが空回りした。こういう日に限ってガスが切れかけていて、火が上手くつかない。それが気分の落下に拍車をかける。
「あー、もう」
新卒で就職した大手のJTCから、今のデザイン会社に転職して約半年。今日はクライアントへの納品をようやく終えた花の金曜日で、二週間ぶりに家に帰れる日だった。
転職によって会社の規模は小さくなったし、納期前はネカフェ生活もざらだが、人間関係がシンプルで余計な気を回す必要のないところが気に入っていた。
飲み会もなければ、接待もない。社員も社長と少人数のスタッフだけ。それぞれが個々にクライアントを抱えていて、大きな案件の時は協力して行うこともあるが、業務のほとんどが個人プレーだ。集まるだけ集まってそれぞれ好きなことをして帰る。サークルの部室みたいな空気が星には合っていた。
だから転職してよかった。会社の規模が小さい分、やればやるだけ成果が目に見えるのも面白い。そうポジティブに思える時もあれば、転職なんてせず、無能にも有能にも平等に与えられる大企業の福利厚生に大人しくぶら下がっておけばよかったと思う時もある。今日のマインドは後者だった。
ブブッ、ブブッとポケットの中でスマホが震える気配がする。
ちょうど赤に変わった信号の手前で立ち止まり、煙草をくわえたままスマホを手に取り出した。
『紬 サン』
ロック画面に表示された名前を見て、思わず「あー……」とだらしのない声が漏れた。
着信の相手は、数か月前にバーで知り合った男だった。
お互いに容姿も雰囲気も好みのタイプとは違ったが、過去の恋愛の話でなんだかんだ意気投合し、その夜のうちに体を重ねた。必要以上に情が入り混じることのない、お互い性欲の発散だけを目的としたセックスは可もなく不可もないもので、燃え上がるような興奮もない代わりに後腐れもない。てっきりその一回きりで切れる関係と思いきや、あれから月に一回程度、お互い気が向いた時に連絡を取り合ってセックスするようになり、今に至る。
過剰な期待がないからこそ上手くいく例の典型だった。
若い頃は関係性を長続きさせるためには、愛や思いやりが必須だと思っていたが、大人になると実はそうでもないことに気づく。そこに複雑な感情がないからこそ長続きする関係もあるのだ。
「はー……、どうしよ」
手の中で震えるスマホが、気まずさの象徴のように見える。ランドセルの底でくしゃくしゃになったお便りを発見した時みたいに、その処遇をどうすべきか躊躇していた。
通話に出るべきか、気づかなかったことにして無視すべきか。切れる気配のない着信画面に向き合いつつ、火のついた煙草から深く息を吸いこんだ。血管がきゅっと収縮して、ぼんやりしていた頭が冴えてくる。ため息とともに吐き出した煙が、今にも雨が降り出しそうな澱んだ空に燻って消えていくのを呆然と眺めながら、そのまま二、三度深い呼吸を繰り返した。
ようやく着信が切れてからメッセンジャーの画面を開く。そこには「今日ひま?」「今例のバーで飲んでるんだけど」「帰り寄っていい?」と立て続けに複数のメッセージが届いていた。
しばらく思案した後、「保留」とばかりに一旦それを尻のポケットに押し込んだ。その手で二本目の煙草に手を伸ばす。いつしか思考を整理する時には、煙草が必須になってしまった。
正直、セックスはしたい。ここ一週間、会社に缶詰めで自慰すらもできていなかったから、今すぐにこの欲を発散できると言われて、気持ちが揺れないわけではない。
だが、今日はさすがに疲労がピークで、会ってすぐにベッドになだれ込んだとしても、前戯をしている間に寝落ちする自信があった。
「こないだ口でされながら寝落ちした時、ピンサロ扱いすんじゃねーってキレられたしな……」
セフレというのはスナック菓子感覚でつまみ食いできる気軽な関係と思われがちだが、実はそうではない。親愛や同情で繋がっていない分、性欲を満たすという目的を果たせるかどうかで互いの価値が決まる。少しでも違うな、と思われたら最後、二度と会ってはもらえなくなる。
異性相手と違って、同性の相手探しはそう簡単ではない。容姿や雰囲気が及第点かつ、体の相性が悪くない相手はSSR級に貴重だった。
雑なセックスをする奴だと思われて、その貴重な相手を失うことだけは避けたい。
星は意を決して不在着信の画面を開き、通話ボタンを押した。数コールの後、電話口から舌ったらずな声が聞こえる。
「……もしもし。|紬サン? ごめん、電話出れなくて。うん、そう、今帰ってるとこ。はは、紬さんもおつかれ。うん、うん、いや、それがさ、先週からずっと家帰れてなくて……。うん、そう。だから今日はやめとく。帰ったら速攻寝落ちしそうだから。え? 他の男? そーゆーのじゃないって。ほんとに。うん、うん、ごめんまた連絡する」
通話を切ってから、思わずため息が漏れた。
今日もバーでまた深酒しているのだろうか。いつもは断りを入れた時点で「おっけー。じゃあ他当たる」と淡白に電話を切ってしまう相手が、今日は珍しく食い下がってきた。それをどうにか躱しているうちに、気づけばアパートの下に着いていた。
上階に繋がる階段の下に並んだポストを見遣ると、305と書かれた銀色の箱からポスティングの広告が無数に飛び出している。さすがに近所から苦情が入りそうな量だったが、どうにも片付ける気が起きない。
「いいか、明日で」
そう呟いて、星は階段に足をかけた。
最後にポストを開けたのがいつだったか、もう思い出せない。数週間前だったような気もするし、もう何か月も前だったような気もする。結婚式の招待状や、裁判所からの督促状が届くのならまだしも、今どき紙で届くような書類に重要なものはない。
公共料金は口座引き落としだし、カードの請求だってオンラインで確認できる。だからポストのキャパが耐えられる限り、律儀に扉を開ける気になれない。いつしかアルミ製の扉が鋼鉄のように重いものに見えて、開けるのがどんどん億劫になるのだ。
今日も明日も変わらないなら、明日でいい。日々変わり映えしない毎日を送りすぎていて、こんな風に「今日でなくてもいいこと」が積み重なっていく。やった方がいいことに違いはないけど、やらなくても困らないことで、「絶対」の枠組みの中に入れない程度の必要性が、まるで自分と同じだと思った。
大学入学とともに住み始めた下北沢のこのアパートは、社会人の一人暮らしには少し手狭だったが、大家が気のいい人で融通が利くので、なかなか引っ越す気が起きず、住み始めてもう八年目になる。来年には三年毎の契約更新を迎える予定だ。
ベランダでの喫煙にも目を瞑ってくれているし、目立った隣人トラブルもない。
不満がないというのはいいことかもしれないが、トリガーがないと行動を起こす気になれない星にとっては、ただ決断を先送りにする口実を作っているだけとも言える。
自分のことだから、きっとまた何も考えずに次の更新日を迎えるのだろう。
でも、時々思う。きっかけなんて本当に訪れるのだろうか。いや、むしろきっかけなんてものが本当に存在するのだろうか。みんな、自分が何か行動を起こしたくなった瞬間に適当な理由をこじつけて「きっかけ」と呼んでいるに過ぎないのではないだろうか。だとしたら、変わることを避け続けている星にそんなきっかけが訪れることはない。来るかどうかわからないそれを待って、いつまでこんなことを続けるのだろう、と。
三階に着く直前で、吸いかけの煙草を携帯灰皿の中に落とした。長い外廊下の突き当たりに人影が見えたからだ。いくら敷地内喫煙に目を瞑ってもらっているとはいえ、住人の前で堂々と吸うわけにもいかない。
よく見るとその人影は、ちょうど角部屋にあたる星の部屋の前に鉄製のドアを背にしてて佇んでいる。ドアの大きさと比較した時の身長や体格的に、おそらく男だろう。
隣人が何か苦情でも言いに来たのだろうか。そう思ったが、隣の部屋は駅前の風俗店で働く女性で、確かこの時間はいつも部屋にいないはずだった。星の出勤と向こうの退勤が重なることがあり、軽く挨拶くらいは交わす仲なので互いの生活リズムはなんとなく把握している。
隣人ではないとすると、一体誰だ?
正体を知りたいような、知りたくないような複雑な気持ちだったが、足は躊躇よりも好奇心と神経が繋がっているのか、どこか前のめりに歩を進める。
遠目に見てもしゃんとした姿勢に、形の整ったスーツ。客先のロビーで先方の出迎えを待っている時のような余所行きのオーラ。人前だから取り繕っているのではなく、この人は誰かに見られていない時でも、ちゃんとした人間なんだろうな、と思わされる雰囲気があった。
詰まっていく距離に比例して、視界の解像度が上がっていく。視力検査の時、最初はぼんやりとしていた文字にだんだんピントが合っていき、やがてはっきりとした像を結ぶように。現実と記憶の輪郭がゆっくり溶けて重なっていく。
「え……?」
その横顔を両目ではっきりと捉えた瞬間、鳥肌が立つみたいに心がざわめいた。
黄ばんだカバーに覆われた蛍光灯の灯りが、死にかけの蝉のような鳴き声を上げて不規則に瞬く。さっきまで好奇心に突き動かされていた両脚が自然と歩みを止めた。
「……陽 ?」
震える声で名前を読んだ。
この先の展開を知るのが怖くて本を閉じたい気持ちと、早くページをめくりたい気持ちが奇妙なバランスで共存している。
ドアの前にいた男が、星の声に気づいて顔を上げた。
「星……!」
夜中十二時。鈍色の雲に覆われた曇天と、寂れたボロアパートの外廊下。新鮮味の欠片もない見慣れた景色。それなのに、何故かそこに光が見えた。
最後に別れた時よりも多少甘さが削ぎ落され、落ち着いた面立ちになってはいるが、笑えば相も変わらず屈託なくて、その姿が星の心を落ち着かなくさせた。
八年も前の恋人のことが忘れられないなんておかしい。どうせ思い出が美化されてるだけだとか、初体験の相手は誰でも忘れがたいものだとか、女でも抱けば忘れられるとか、周りは好きなように星の気持ちを推し量ろうとしたが、そのどれもしっくりこなかった。
当然だ。陽を忘れられないのは、太陽の存在しない世界を想像することが難しいのと同じだからだ。
そこにいるのが当たり前で、星はそれを微塵も疑わない。それは絶対で、当然で、普遍のはずだった。だからこそ、陽が星の隣にいないことに違和感を抱え続けてきた八年だった。
どうしてあの時、星は振られたのだろうか。
「星、久しぶり。ちょっと痩せた?」
星を呼ぶ声までも変わらない。はにかんで笑う顔も、笑うと皺が寄るたれ目がちな目尻も。全部全部、あの時の陽のままだ。
「陽……、お前、本物?」
「ははっ、なにそれ。これが偽物に見える?」
陽は無邪気に笑いながら、星の目の前まで駆け寄ってきた。
幽霊でもない。そっくりさんでもない。目の前にいるのは、間違いなく本物の陽だ。
それなのに、その姿が自分の知っている彼の記憶とぴったり重ならないのは、自分以外の誰かによって陽の形が変えられたからだ。八年という時間は、人の価値観や生き方を変えるのには、十分すぎるほどの時間だ。その間、星が一人で立ち止まっていたからと言って、陽も同じとは限らない。
自分と陽の間に、お互いが存在しない八年という月日が流れている。星はそれを拒絶し続けて、陽はそれを受け入れた。だからこそ星がいなくても生きていける陽になって、再び星の前に現れた。
なんて残酷なやつ。
ふいと視線を落とした先に、陽の右手がある。
その薬指が天井の鈍いライトに照らされて、ナイフの刃のように鋭く光った。
「――実は俺、星に言いたいことがあってさ」
さっきまで共存していた先の展開への好奇心と躊躇が、今この瞬間、激しい拒絶に変わる。読んでいた本を閉じて、本棚の奥にしまい込んで二度と先の展開など知り得ないようにしてしまいたかった。
けれどそんなことができるはずもなく、星が次の衝撃に身構える間も与えず、陽は無神経に明るい蛍光灯の下でへらりと笑った。
「俺、結婚することにしたんだ」
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