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第1話

 昨日は失敗しちゃったな。  いつも通りの時間に帰ったら、ちょうど玄関で3人と鉢合わせをしてしまった。僕を見た3人の、特に父と母の笑顔は凍り付いていた。  想定外のことに、僕もパニックですぐに動けず、長い沈黙が続いた。 「兄さん」  弟が発した声で、ようやく我に返って、そこから離れられた。  大失敗だ。  あんな顔をさせたかったわけでもない。  見たかったわけでもないのに。 「灯(あかり)さん」  後頭部に暖かい重みを感じる。顔を上げると、智(とも)が僕の頭に手のひらを添え、眉をひそめていた。 「どうした? 元気ない?」 「元気ないこともないこともないよ」 「どっちだよ。勉強疲れじゃないですか。成績上位者、貼りだされてたよ」  机から上半身を起こす。智に促されながら、廊下に出ると、壁にずらりと生徒の名前が並んでいた。  僕の名前は上から8番目にあった。  前回よりまた3つ下がった。  智に背中から抱きつかれ、わずかによろめく。 「10番以内とか、ほとんどアルファとかいいとこのお坊ちゃまお嬢様なのに。相変わらず頑張るね」 「それだけが取り柄ですから」  もともと出来のいい頭ではないから、たくさん勉強して、この高校に入学できた。もうすぐ1年が終わろうとしている。   「そんなに勉強して、何を目指してるの」 「びっくり。それが何も目指していないんだよ」 「こわ」 「自分でも自分が怖いよ」 「ところで、灯さん」 「はい?」 「めちゃくちゃ身体熱いけど大丈夫?」 「ちょっとだめかも」  もう3月なのに、昨日の夜は寒かった。朝方には、家の中に入れたけど、そのときから少し悪寒がしていて、まずいかなと思ってはいた。  智を離し、「もうすぐお昼休み終わるよ」と教室に入るよう促す。 「保健室に行ったって先生に伝えておいて」 「了解。ほい、荷物」 「ありがと」  今月に入ってこれで2回目。調子を崩しやすい僕の対応に、智はすっかり慣れている。ありがたい。  熱があるかもと思いつくと、段々、しんどくなってきた。  チャイムが鳴って、人気がなくなった廊下の片隅で、荷物を探る。  あまり追加では飲みたくないのだけど、念のために飲んでおいた方がいいだろう。銀色のフィルムから、白い錠剤を1つ出し、飲み込む。  ようやくたどり着いた保健室の扉の前には「養護教諭不在」の札がかかっていた。  扉にも鍵がかかっている。  しまったな。  目が回るし、頭も痛くなってきた。  これは、薬の副作用の方かもしれない。  ただでさえ、最近、テスト勉強とテスト期間中に調子崩したくなくて、追加追加で飲んでいたから、その反動が一気にきた、のかもしれない。  気持ち悪い。  その場にしゃがみこむ。  ちょっと休めば、動けるようになるはず。これまでだって、大丈夫だったんだから、これからも大丈夫だ。大丈夫でいなければいけない。 「う、」  こみ上げてくる胃液に喉が痛む。  大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせるけど、普段よりも酷い症状に、ふと、不安に襲われる。    もし、アレの前兆だったら。  そんなわけがない。なんのためにあんなに薬を飲んるんだ。大丈夫大丈夫。大丈夫。 「ケホッ、ケホ、う」  じわじわと、焦りと恐怖が増していく。  どうしよう。そんなわけがないのに、怖くなってきた。よくない。どんどん冷静じゃなくなっていくのがわかる。  だめだ。ちゃんと考えないと、どこか空いてる教室とか捜して、とりあえずそこでひとりになれば落ち着くはず。  そうだ、もう1錠だけ、薬を、 「灯」  突然の声に、掴み損ねた錠剤が、コツンと廊下に落ちた。  慌てて、それが相手に拾われる前に両手で覆う。  顔を上げると、そこに今一番いてほしくない相手がいた。  銀色の短髪に大きな身長、表情に乏しくぼんやりとしているのに、不思議とクラスの中心にいる。  大野 結(おおの ゆい)、アルファだ。  なんでこんなところにいるんだ。授業中だろ。   「顔、真っ白だけど」  真っ白にもなるだろ。よりによって、お前かよ。  長身を折り、顔を覗き込まれる。薄い色の瞳と目が合う。ぞわり、鳥肌が立った。  伸ばされた手を思わず振り払う。 「わ、悪いけど、ひとりにしてほしくて」 「けど、匂いが」  匂いが。  って、今、言った?  うなじを抑える。嘘だろ。嘘だよね。嫌だ。嫌だ。もう、あんなになりたくない。なんで。  だって、ちゃんと、薬、飲んでるのに。  小さなうめき声がした。  大野が太ももに何か打っていた。廊下に転がる派手な赤色の、一見するとボールペンのようなそれは、習ったことがある。 緊急時のアルファ用の抑制剤だ。   「俺は、平気だから。落ち着いて」 「違う。僕、ベータだから。何も、起こらない」 「オメガでしょ」    大野に指さされた先には、赤字で「オメガ発情抑制剤」とたくさん印字されたぐしゃぐしゃになった銀色の包装があった。 「違う」 「安心して、発情期じゃない。そこまで強い匂いじゃない。だから、これ以上、この薬は飲まないで。合わないんでしょ」  「発情期じゃない」という言葉に、何の確証もないのに、安堵で涙腺が緩む。 「病院に連れてく」 「嫌、だ」 「かかりつけはどこ? この薬、処方したのは?」 「病院は、嫌」  大野は、無言で僕の鞄の中を漁り始めた。止めようと彼の腕にしがみつくが、何の妨害にもなっていない。力が入らない。  すぐに、薬袋は見つかってしまった。 「嫌だ」  意識が朦朧とする。僕はみっともなくぼろぼろ泣きながら、大野に訴え続けた。大野は僕の頭を抱え込み、宥めるように髪を撫でながら、だけど、動きは止まらなった。   「救急です。そちらがかかりつけの――」

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