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第9話

 手を伸ばし、子犬の舌がよく見えるように口をこちらへ向けようとしたが、触れたとたん、口を閉じてしまった。 (いやいや、舌に漢字なんてないよ。影になって文字っぽく見えただけだろう)  璃斗は気持ちよさそうに眠っている三匹の頭をそれぞれ撫でた。その時、ドアフォンが鳴った。 (誰だろ?)  反射的に壁にかけている時計を見ると、三時を少し過ぎた時間だった。  璃斗がドアフォンのカメラをのぞき込むと、男の顔が映った。だが、背が高いのか、角度的によく見えない。 「どちらさまでしょうか」 「失礼、こちらに白い子犬がいると思うのだが」  その言葉に璃斗は飛び上がった。 (飼い主!)  慌てて「すぐ行きます」と答え、駆け出した。  居住用の玄関から外に出ると、店の前に長身の男が立っていて店の中を見ている。だが横の扉から璃斗が出てきたことに気づくとこちらを向いた。 (え……)  男の容姿、そしていでたちに璃斗は目を瞠った。  白い着物に淡いグレーの羽織、しかもその羽織はくるぶしまである長いものだ。  男性の羽織は膝上くらい、女性であっても膝下くらいで、くるぶしまである羽織など見たことがない。さらに袖も長く、袖口も広い。羽織袴姿というより、アニメやゲームなどで出てくる和装キャラみたいだ。  容姿は、肩甲骨くらいまである長い髪をうなじで一まとめにしている。透き通るような白い肌に、シャープな顎のライン、切れ長の目元、高い鼻梁、薄く形のいい唇。文句のつけようのないバランスの取れた顔と、醸し出す雰囲気は玲瓏で上品で荘厳。そこだけ空気が澄んでいるようにさえ思える。  透明な美しさを持った男だった。  璃斗は、あの、と声をかけようとしたが、言葉が喉に引っかかって出てこなかった。  戸惑う璃斗だったが、男性の足元を見てまた固まった。男性の後ろから顔だけ出している子犬がいる。額にはピンクに近い朱色の模様がある。この家にいる三匹と同じものだ。 (四匹目? ってことは、やっぱりこの人、飼い主なんだ)  顔を上げると目が合った。  その瞬間、心臓がドクン! と跳ねた。そしてドクドクドクと強い鼓動を打ち、全身の血が逆流するような錯覚に囚われる。  息をするのも忘れてしまったかのように、全身が固まってしまって動かない。 「すまないが」 「はいっ」  緊張のあまり声が裏返ってしまった。 「ここは食べ物を売る店なのか?」 「はい、そうです。弁当屋です。今の時間帯は閉めています。五時からまた開けますので、申し訳ないのですが……」  急き立てられるように言うと、男性は璃斗に近づきながら「いや」と言った。 「弁当を求めて来たのではない。白い子犬が三匹、ここで厄介になっていると思うのだが」  真っ白の子犬がじっと璃斗を見上げている。その目に脅えがある。璃斗が怖いみたいだ。 「います。うちで保護しています」 「そうか、南風《はえ》は正しかったな」  璃斗がハエ? と聞く前に、足元の子犬が「あんあん!」と吠えた。目が怒っているように思うのは気のせいだろうか。 「わかったわかった、そう怒るな」 「あんあんあん!」  今度はキラキラと輝いている。誇らしいとでも言いたそうな感じだ。 「南風はおとなしくて言いつけを守るのだが、他の三匹はさっぱり言うことを聞かない。出歩くなと言っているのに勝手に走り回って帰ってこなくなった。それで探していた」 「そうなんですか……」  飼い主だ。間違いない。三匹を連れ戻しに来たのだ。 (そっか……)  失望感が広がる。ゼロか一匹かと言っていたのを、三匹すべて飼うことを許して真二郎が大喜びしたというのに、それを決めた今日、飼い主が現れるなんて。  真二郎が悲しむ様子が浮かんで胸が痛む。そしてそれと同じくらい璃斗も子犬がいなくなることが残念で仕方がなかった。 「ところで、犬たちだが、この家に押しかけたのだろうか」 「弟が連れて帰ってきました」 「弟?」 「なついてくれたみたいです。それで情が湧いたんでしょうね。野良犬は捕らえられて保健所送りになります。一定期間収容されたら殺処分になるので、自分で飼おうと思ったんでしょう」 「野良犬は殺処分?」  璃斗は目を瞬いた。知らないのだろうか? 「飼い主が見つかったり、里親が決まったりすればいいですが、そうでなければ。それは犬に限りませんが。弟はこの先の神社の敷地内で見つけたと言っていました。だから、あなたの犬を取ったわけじゃないんです」 「取った? 私は犬を取られたなんて思っていない。むしろ保護してくれていることに感謝している」  叱られないとわかって璃斗はちょっとばかりほっとした。 「子犬たちが人間を気に入るとは少々意外だった。そのあたりの事情も聞かないといけないが、とにかく犬たちに会わせてもらえないだろうか。彼らには役目があるから、勝手気ままにさせるわけにはいかないのだ」  なんだか事情がありそうだ。 「こちらにいます。どうぞ」  手で玄関を示し、中に入るように促す。そこから奥の小部屋に案内した。  薄手の毛布の上に三匹が固まって眠っている。  麗しい男は子犬たちを見下ろしながら腕を組んで、「ふむ」と小さくこぼした。 「すっかりくつろいでいる。私がいるのに気づかず眠っているとは、ここはよほど居心地がいいらしい」 「子犬だからじゃないですか?」 「ん?」 「よく眠るのは子どもだからだと思いますけど」 「いや、そういうことではないのだ、我々は」  我々? 璃斗が首をかしげる。 「とにかく、これらの面倒を見てくれて礼を言う」  麗しい男は少し頭を動かし、璃斗に感謝を述べた。それから眠っている子犬たちに顔を向ける。 「これ、お前たち、いつまで寝ている。さっさと起きぬか」  それほどきつい言い方ではないが、叱責すると三匹はいきなり両眼をカッと見開き、飛び上がった。そして自分たちを見下ろす男を凝視する。 「勝手なことをしおって」 「あん!」 「あんあん!」 「あんあんあん!」 「怒ってはおらぬが、見知らぬ人間の家に転がり込んで世話をかけるなど言語道断だ。反省せよ」  男が言うと、三匹はしゅんと、わかりやすく項垂れた。  人間の言葉を理解しているのかと、またまた驚かされる。 「では、我々は失礼する」 「え、あ、待ってください。あの、もうちょっとだけ、時間をいただけないでしょうか。この子犬たちを弟がとっても可愛がっているんです。学校から帰ってきていなくなっていたら、ものすごく悲しむだろうから、ちゃんとお別れをさせてやってもらえないでしょうか」  男は璃斗の言葉に驚いたのか、目を見開いてじっと見つめてきた。 (綺麗な目……)  璃斗は緊張しながらも、男の目が黒ではなく瑠璃色に近い、深い藍色をしているような気がして、見入ってしまった。 「弟はいつ戻るのだ?」  問われて、はっと我に返る。 「えーっと……」  璃斗は店の壁にかけている時計に目をやった。三時半だ。学校は終わった頃だろうから、もうすぐ帰ってくるだろう。 「間もなくだと思います。あ、お茶をいれるので、そこの椅子に座って待っててください」  引き留めるために、わざと返事を待たずにその場を離れた。 (姑息だよねぇ、こんなこと。でも、帰ってきて子犬がいなくなっていたら、真二郎、悲しむだろうから)  紅茶とエクレアを出そうとしたが、男が和装だったことを思い出し、急遽、緑茶と練り切りに変えた。真二郎は洋菓子が好きだが、璃斗は和菓子が好きなので、それぞれ常備しているのだ。 「お待たせしました、お茶をどうぞ」  テーブルに二人分の湯呑みと茶請けの皿を置くと、彼の足元にいる子犬にはミルクを入れた椀を置いた。  子犬たちは困ったようにミルクと男を何度も見比べている。 「せっかく出してくれたのだから、ありがたくいただきなさい」 「あん」  子犬たちは小さく鳴くと、璃斗を見上げ、少し頭を動かした。それはまるで礼を言っているような仕草だ。だが、男が連れてきた子犬は飲もうとしなかった。 「この子犬たちに名前はあるんですか? あ、その前に、僕は花巻璃斗といいます」 「豊湧《ほうゆう》だ」

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