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第10話

「ほう……ほーゆう?」 「豊という字に、水が湧くの〝湧〟で〝ほうゆう〟と読む」 「へえ。珍しいお名前ですね。でも、なんかすごく縁起がいい苗字って感じ。響きも綺麗だし」  あなたご自身も恐ろしいほど美しいけど、という言葉は飲み込む。すると豊湧は驚いたように目を瞬かせた。 「僕、なんか変なこと、言いました?」 「いや、豊湧は私の名前で苗字ではない。そうだな……犬神豊湧と呼んでもらえたらありがたい」  なんだか少し表現に違和感を覚えるが、璃斗はスルーした。 「犬神さんが苗字なんですね。わかりました。それで、子犬たちの名前ですが」  すると子犬たちが一斉に吠え出した。 「静かにしなさい」  豊湧の一言で子犬たちがぴたりと黙り込む。 「右から、東風《こち》、西風《ならい》、北風《あなじ》だ。この子は南風《はえ》」  茶丸、白丸、黒丸の順に説明される。最後は連れてきた子犬の頭をなでて付け加える。璃斗は名前を聞いて、「へえ」と声をもらした。 「東西南北の風の名前なんですね」 「ああ。代替わりで教育中だが、なかなかうまくいかない」 「代替わり?」  璃斗が尋ねるように反芻すると、豊湧はうっすら笑うだけだった。 「南風って言われた時、ピンと来なくて虫かと思っちゃって」 「あん!」  南風が怒ったように吠えた。 「ごめんごめん。反省してる」  頭をなでようと手を伸ばすが、南風は嫌そうに頭を振って豊湧の後ろに隠れた。 「この弁当屋は璃斗が切り盛りもしているのか?」 「ええ。去年両親が亡くなったんで、継いだんです」 「……それは気の毒な。すまない」 「いえいえ、気にしないでください。連れ子同士で結婚したのが三年前で、弟は父を受け入れられなかったんですよね。六歳だから、大事なお母さんを取られたって思ったのかなと想像しています。その息子である僕も嫌われていたんですよ。ろくに口もきいてくれなかった。でも去年事故で亡くなって、僕が大学を辞めて店を継いだら、目も合わせてくれず、ますます無視されてしまって」 「なぜ?」 「自分のために僕が大学を辞めたと思って、自分を責めてるんだと思います。子どもだから、足を引っ張って迷惑をかけてるって。確かに大学に行っている間に真二郎、あ、弟の名前なんですが、あの子になにかあったら対応が遅れるから、店を継いで家にいようかなって思ったからなので、真二郎の想像は当たっているんですが」 「生活は大変じゃないのか?」  璃斗は口元をわずかに緩めた。 「両親が掛けていた保険金が下りましたし、事故を起こした会社が慰謝料を払ってくれたので、贅沢せずに真面目に働いたら、そんなに大変じゃないです。近所のみなさん、ありがたいことにお弁当を買ってくれるので、売り上げは安定しています。真二郎が大学に行くくらいはなんとかなります。あーー、私大の医学部とか言われたらキツいかなぁ」 「……そうか」 「真二郎はまだ幼いのに親を亡くして落ち込んでいて、好きでもない僕と暮らさないといけなくて、ずっとつらい思いをしていて、可哀相です。そんな真二郎が嬉しそうに犬を拾ってきて飼いたいって言うもんだから……あの」 「ん?」  璃斗はいったん言葉を切り、じっと豊湧の顔を見つめた。言うか言うまいか、悩む。だが、ぐっと腹の底に力を入れると、意を決して続けた。 「一匹、譲ってもらうことはできないでしょうか」 「悪いが、それはできない」  即答に落胆する。 「犬たちは四匹揃って役目を担うので、欠けることはできないのだ」 「……そうですか。無理を言ってすみません。今のは聞かなかったことにしてください」  肩を落として返事をした時、ガラッと扉が開く音がした。真二郎が帰ってきたのだ。 「にいちゃん! わんこたちは!?」  叫ぶように言いつつ、真二郎が駆け込んでくる。だが、客がいるとわかると立ち止まって起立状態になった。 「真二郎、こちら犬神豊湧さん。子犬たちの飼い主だ」 「飼い主?」 「うん。迎えに来られたんだよ」  見る見る真二郎の目に失望が浮かぶ。璃斗はそれに気づいたが、そこには触れずに続けた。 「子犬は四匹揃っていないとダメなんだって。だから分けてもらうことはできないんだ。真二郎が帰ってくるまで、犬神さんには待ってもらっていたんだ」 「…………」 「子犬たちにお別れしよう」 「……うん」  真二郎は力なく子犬たちに歩み寄ると、一匹ずつ頭をなで始めた。 「茶丸、白丸、黒丸、元気でね」  三匹はくんくん鳴いて真二郎の手に鼻をこすりつけてくる。そんな子犬たちに、真二郎は一匹ずつ抱き上げて頬ずりした。  名残惜しそうにする真二郎をしばらく見守っていた璃斗だったが、このままじっとしていてもなにも始まらないと思い、豊湧に礼を述べた。 「これで弟も満足したと思います。待っていただいて、ありがとうございました」 「……そうか。希望に応えられなくてすまない。我々はこれで失礼させてもらう。お前たち、帰るぞ」  豊湧が立ち上がると子犬たちは彼を囲むように前後左右の位置について歩き出した。  璃斗と真二郎は店の外まで一緒に出た。豊湧は一礼し、子犬とともに去っていった。 「行っちゃった」 「うん。寂しいけど、仕方がないよ」 「…………」 「ねぇ、真二郎。どうしても犬が飼いたいなら、シェルターに行こうか」  真二郎が顔を上げた。 「シェルター?」 「飼い主のいない動物を預かっているところだよ。里親を探してるんだ。そこで一匹もらってのはどう?」 「…………」  真二郎はうつむき、しばらく無言だったが、やがてかぶりを振った。 「いい。茶丸たちと一緒にいたかっただけだから」 「そうなの? でもさ、行けば真二郎になついてくれる犬がいるかもしれないよ? 行くだけ行ってみたらどう?」 「いいんだっ」  真二郎はさらに激しくかぶりを振り、家の中に走って行ってしまった。 (どうしたんだろう。あの三匹に、なにか特別なことでもあったのかな)  想像しても答えは得られない。璃斗は首をかしげながら、店に戻ったのだった。

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