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第30話

「浦島太郎?」  豊湧の反芻に真二郎は目をぱちぽちを瞬かせた。 「豊湧さん、浦島太郎のおとぎ話知らないの? 亀を助けた浦島太郎がさ、その亀の背中に乗って、海の中にある竜宮城に案内されてしばらく過ごして、自分の世界に戻ったら何百年も過ぎてたって話。超有名だよ」 「それはすまぬ。人界にある一つ一つの細かなことまでは把握しておらんものでな。確かに神界と人界では時間の流れは異なるな」 「狛犬たちと一緒にいたいと望んだのは俺で、にいちゃんじゃない。俺は神界で暮らしたっていい。でもにいちゃんはここで、仲のいい人たちと暮らしてほしいんだ。もう俺のためになにかを犠牲にしてほしくない」 「なにか、とは?」  問われて真二郎はうつむいた。  豊湧は神様だ。答えなくてもわかっているだろうに。それでも問いかけてくるということは、真二郎の言葉で聞きたいのだろう。 「かあちゃんたちが死んじゃって、にいちゃん、大学辞めたんだ。俺のせいだ」  うつむき加減に絞り出された声は失望に満ちていた。  真二郎は一度ちらりと視線を豊湧にやって、また下に向けた。 「俺が子どもだから、大学辞めて、店をやることにしたんだ。俺、花巻のとうちゃんが話しているのを聞いたことがあるんだ。にいちゃんはいい大学に通っているんだから、弁当屋は継がずに大きな会社に就職したほうがいいって。それなのに、俺のせいで大学辞めて、大きい会社に就職する可能性も捨てて、俺のために弁当屋を継いだんだ。俺のせいで、いっぱい捨てたんだ。それなのに、まだ俺のために、神様の生贄になるのは嫌だ」 「生贄?」  豊湧の問いに、うん、と頭を振る。 「にいちゃん、あの高須ってヤツと仲いいから、俺、豊湧さんのほうがいいのにって思って、で、聞いたんだ。強いのと綺麗のとどっちが好きかって。そしたら、綺麗なほうがいいみたいだったから、安心した。高須とこれ以上仲良くならないって。俺、アイツ嫌いだから。いっつもにいちゃんをヘンな目で見るから。でも……」  急に真二郎の言葉が途切れ、ひゃくっと喉が鳴り、声が涙に滲んだ。 「知ったんだ、神様に捧げられることを、人柱とか、人身御供って言うんだって。それって生贄ってことだろ? 俺につきあって神界で暮らして、にいちゃんが俺のための生贄になって、浦島太郎になるのは、嫌だよ。浦島太郎は俺だけでいいんだ。だって、望んだのは俺なんだからっ。うっ、うっ……」  泣きながら、でも、でも、と続ける。 「さっき、豊湧さんとにいちゃんがチュウしてるの見て、俺、いろいろ考えたけど、なんかやっぱり、邪魔者なんだなって思って……」 「邪魔者とは?」 「だって、豊湧さんとにいちゃんが特別な関係になったら、俺の居場所がなくなっちゃうだろ? 神界で狛犬たちの面倒を見て、豊湧さんに、にいちゃんが幸せになるようお願いしようと思ってたのに、俺の居場所自体がなくなったら、どうしたらいいのか、わかんないよぉ」 「そうか」  豊湧はうっすら微笑み、真二郎の頭に手をやってゆっくりと撫でた。 「神という真実を見通す力を持つ者としての話を聞いてほしいが、その前に一つ訂正があるな。璃斗のことは大変に気に入っているが、接吻はしておらんぞ」 「せっぷ?」 「今、そなたが言ったチュウのことだ」 「…………」  ぽかんと呆けた顔をする真二郎の頭を優しくぽんぽんすると、真二郎が「ホントに!?」と叫んだ。 「本当だ。真二郎が見たのは、璃斗に気力を授けるためのまじないを施した様子であろう。額に神力を吹きかけ、力を籠める。顔を近づけたので接吻をしているように見えたのだろうな」 「……そうなんだ」 「私はまだ璃斗の気持ちを知らんゆえ、そのような過ぎたことはせぬよ。しかしながら、真二郎、そなたはまだ幼いというのに、いろいろ物知りよなぁ」 「えっ! そんなことないよっ」 「いいや、物知りだ。神に捧げられることを、人柱だの、人身御供だの。言っておくが、それは人間が、そうすれば願いが叶うだろうと考えてやったことで、我ら神なる者どもはそのようなことを望んではおらぬ。ただ、犠牲になった人間を憐れんで願いをかなえたことはあるだろうが」 「でも、それじゃあ、結果的に人間の考えたやり方は、正しいことになっちゃうよ?」 「そうだな」  真二郎は豊湧の返事に対して不満げに口を尖らせたが、すぐにかぶりを振った。 「他の話はいいんだよ。にいちゃんのことだ。豊湧さん、俺だけ豊湧さんの館で暮らさせてもらえない? 狛犬の面倒は俺が見る。にいちゃんには弁当屋をやれって言ってよ」 「なぜ?」 「だから、浦島太郎にならないためだよ!」 「それで璃斗が納得すると思うか?」 「豊湧さんに言われたら引き下がるよ。だって館の主に住まわせないって言われたらあきらめるしかないじゃないか」  豊湧はすっと真二郎から視線を逸らすと、ゆっくり立ち上がった。そして袖に手を入れて腕を組み、青く澄んだ空に伸びる木々の緑に目をやる。その姿は凛々しく、また神々しく、真二郎は見惚れた。

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