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「おっさん、何やってんの?」
そう言われて我に還ると、真横を快速電車が通過して行った。
声をかけて来たのは、高校1年生くらいの男の子だった。ちょっと、いやかなりヤンチャそうな。
日焼けしたような傷んだ茶髪で、整髪料でカチカチに固まった前髪をヘアゴムで留めて、耳の上にはヘアピンを差している。制服も着崩して、ワイシャツの下には赤いTシャツ、そこからネックレスの鎖が見えていた。
「え、あ……」
返事をしようにも、すぐに言葉が出て来なかった。
『何やってんの?』という質問に答えられないくらい、自分が何をしようとしていたのか分からなかった。
「だいじょーぶ?」
男の子はそう続けて顔を近付けてきた。僕よりも背が小さくて、クリッとした大きな目で見上げてきた。
「す、すみません……」
咄嗟に謝っていた。
次の瞬間、ここがどこで、自分が何をしようとしていたのかを理解した。そして、僕はへたり込んでしまった。
そこは、駅のホームだった。
肩を貸してくれた男の子に支えられ、ひとまずホームのベンチに座った。
「あの、あの……」
心臓がバクバクする。口が乾いて、うまく言葉が出て来ない。頭の中がまだ混乱していた。何から伝えればいいのか、考えられない。
「いーよ、ゆっくりで」
男の子はそう言って、ドサッと音を立てて僕の隣に座った。プラスチックのベンチが揺れる。面倒臭そうで、怒っているみたいだった。
迷惑をかけているという、罪悪感が込み上げてくる。
「も、もう、大丈夫なので……」
何とか声を絞り出した。高校生なら、学校の時間もあるはずだ。
でも、男の子は僕の顔を覗き込んで、
「大丈夫じゃねーじゃん。どーみても」
と言った。
自分がどんな顔をしているのか分からない。けれど間違いなく、まずい顔をしている。
スーツや学生服を着て、鞄を持った人たちが、次々と目の前を通り過ぎる。忙しそうに、イライラしながら、急ぎ足で階段に向かって行く。
僕も、会社に行かなければ。こんな所で座り込んでいては迷惑がかかる。
そこまで考えて、やっと頭が動き出した。色んな事が、次々と思い出してくる。
僕はさっきまで、どうすれば会社に行かなくていいか、ずっと考えていたのだ。
昨日の夜も、一昨日も、その前の記憶もあやふやになっているが、答えが出ない考えにはまっていた。
会社が人手不足なのは誰より分かっている。社会人なんだから、会社と家の往復なのは当然だ。僕が休むと仕事が止まる。色んな人に迷惑がかかる。何より稼ぎがなくなったら、僕が生きて行けなくなる。
でも、休みたい。行きたくない。そんな事を考えてしまった。
いつからか上司や部下、取引先の事を考えると動悸がして、会社の建物を見て足がすくむようになった。夜は寝付きが悪くて、朝起きるのもつらくなる。でも、遅刻はできない。それを毎朝くり返して、通勤してきた。
いつものように電車を待ちながら、ふと思っただけだ。
ここから一歩踏み出せば、もう会社に行かなくて済むだろうな。こんな風に終わりのない事を、あれこれ考えずに済むんじゃないか。それだけだった。
男の子が話しかけて来なければ、今ここでこうしている事はなかっただろう。
「どうしよう……」
とてつもない罪悪感が襲ってくる。思わず頭を抱えた。
いつも電車が遅延する度に、イライラしていた。人身事故という文字を見聞きする度に、他人の迷惑も考えられないのかと思っていた。
“それ”に、なってしまうところだったのだ。僕は大変な事をしてしまった。
「何が?」
男の子が聞いてきた。
「僕、まずくなかった? さっき……」
顔を上げられず、頭を抱えたまま聞き返した。
「だから何やってんのって聞いたじゃん」
男の子はまた面倒臭そうに言った。わざとダボダボにしたスラックスで、脚を組んでいるのが見える。
「……そうだね」
返せる言葉がない。すみません、申し訳ない、もう大丈夫、なんて言えなかった。たった今、『大丈夫じゃねーじゃん』と言われてしまったのだから。
僕はもう大丈夫じゃない。
あんな事をしようとしてしまった後で、今から、会社に行ける気がしなかった。
ホームに流れるアナウンスが聞こえる。
『──大変危険です。黄色い線の内側までお下がりください』
それからしばらくして、飽きるほど聴いたメロディーが流れる。
電車が走り込んでくる。ゴオッという音も、強い風圧も、ガタンガタンと車輪が線路を拾う音に合わせてベンチが小さく震えるのも、今は全部が怖かった。
「ううっ……」
思わず耳を押さえてうずくまってしまった。
停車した車両から人が流れ出して来て、また忙しそうな足音が通り過ぎていく。
そこに混ざれない。人の波に乗れない。それが、ものすごく悪い事のような気がした。
今からでも走って行けば、少しの遅刻で済む。頭では分かっているのに、身体が動かない。
どれくらいそうしていたか、ようやく少しだけ顔を上げた。隣には、まだ男の子が座っていた。
暇そうにケータイをいじって、耳にはイヤホンを着けている。
「ねえ、きみ……」
何とか言葉を押し出した。
僕が呼んでいるのに気付いて、その子は顔を上げて、イヤホンを外す。
「その、学校、あるよね? 行かなくて……いいの?」
いいはずがない。でも、それ以外の聞き方が分からない。
男の子は手に持ったケータイの先で自分を上から下まで指した。
「いやいや、見て分かんない? サボってんの」
「えっ、そんな……」
そんなはずがない。僕も姿勢を起こして、男の子に体を向けた。
「ごめん、僕が大変そうだったから、その……付き添ってくれてるんでしょ?」
「は? 何言ってんの、おっさん。しゃしゃんないで」
眉毛を歪めて睨んでくる。すごく不快そうに唇を尖らせて。
それだけで、僕は恐くなってしまった。学生の頃に同じクラスに居ても関わらなかったタイプだとは、服装や話し方で分かる。
「だって、ほら、学校は行かないと──」
「会社行ってないおっさんに言われたくないんですけど」
男の子は鼻で笑って言い返してきた。
スーツを着てネクタイを締めて、鞄を持って革靴を履いた僕を見て、会社勤めだと分からない人はいない。電車の景色に溶け込むような、絵に書いたような、くたびれたサラリーマン。それが僕だ。
「……まあ、そうだね」
言い返せなくなって、肯定してしまう。今の僕には、何の説得力もない。
すると、男の子が吹き出した。
「よわっ。え、ヤバ、ありえな」
何が楽しいのか、眉毛をつり上げて笑い出した。小さい口を広げた中に八重歯が見えた。
「仕事休むん? 今からサボり系?」
そう聞かれて、
「休みっていうか……無断欠勤だよね」
と答えざるを得なかった。
会社に連絡する気も起きない。今の状態を、説明できる気もしない。
「じゃー、こっからどーする系?」
男の子がまた聞いてきた。
「こっから?」
今の状態すら説明できないのに、『これからどうするのか』、そんな事にまで頭は回りそうにない。
「もう何か、分かんないな……」
仕事からは逃げられないのに。だからこそ、こんな状況なのに。
そう考えただけで、思い出しただけで、また気分が塞ぐ。何もできそうになかった。男の子が引き止めてくれた手前、また同じ事を繰り返すわけにもいかない。でも、他に選択肢も思い付かない。
どこからこうなってしまったのかは分からないが、もうどこにも逃げ場が無かった。
それを聞いた男の子は、ベンチの背もたれに腕を乗せて僕を見た。カップル連れの彼氏がそうするみたいに。
「どーせ死ぬならさ、最後に楽しい事してみね?」
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