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男の子に連れられるがまま、僕は下り線の電車に乗った。通勤で使っているのとは反対方向だ。
乗り際に、その子は僕の腕をつかんで、
「離れんなよ」
と言った。
混雑する時間帯でも、上り線に比べれば空いている。それでも注意され、支えられてしまう僕は、相当頼りなく見えるらしい。
何駅か通り過ぎて、名前だけは聞いた事のある、知らない駅に降りた。
改札階と商業施設が直結していて、まだ、オープンしていない時間帯だった。
そこまで行って初めて、男の子が学生カバンを持っていないことに気付いた。学校指定ではなさそうな、スポーツメーカーのエナメルバッグを提げている。校則が優しいのか、運動部なのか、それとも家を出た時点で学校に通う気がなかったのかは分からない。
どんどん進んでいくバッグを追いかけて階段を降りると、バスロータリーに出た。バスを待っている人たちは、皆、これから仕事に行くのだろう。
そう思って、嫌な気分になった。後ろめたさや不安、答えの出しようがない考えが頭の中をぐるぐる回る。人の視線が気になった。
こんな時間に、僕は知らない場所にいる。知らない高校生と一緒に。
「ねー、名前なんてーの」
男の子が振り向いて、少しだけ甘えるような声で聞いてきた。
「あ、えっと、増田 ……」
あまりにも突然で、思わず立ち止まって答えた。
「何で名字なん。ウケる」
ウケると言った割に、さっきのように笑ってはいない。若者の言うことがよく分からなくなって来たのは、いつからだっただろう。
「オレはね、翼 」
その子は顎を上げ、自分を指差した。確かに、“翼”と言われると納得する雰囲気がある。
「翼、くん」
「くん付けキモい」
確認するように繰り返すと、即答されてしまった。
「……じゃあ、翼?」
「呼びすてムカつく」
「え……」
何と呼べばいいのか分からなかった。
困っていると、また八重歯を見せて笑われる。
「そんな傷つく? 増田マジウケんな」
何が面白いのか分からなかった。
何も言い返せず黙っていると、僕の二の腕をこつんと小突いてくる。
「どんなけサガんだよ。いーよ、何でも」
手首に着けている腕時計は、中に着たTシャツと同じ赤色だった。
ロータリーを通り過ぎ、人の波に逆らう方向に横断歩道を渡る。歩行者用信号の音を聞くだけで、心臓がバクバク言った。何かに急かされているような気がした。
翼くんはずんずん歩いていく。息を切らして、後ろ姿を追った。
「増田、歩くのおせーんだけど」
横断歩道を渡り切った所で待ってくれていた翼くんが言ってくる。
「そうかな……」
そんなことを言われたのは初めてだった。
「信号変わるし、マジで」
翼くんの言葉に後ろを振り向くと、確かに青信号が点滅していた。
前までは、こんな事は無かったはずだ。でも、それがいつまでだったのかは分からない。自分でも気づかないうちに、動作や反応がゆっくりになっていた。
駅でも、翼くんにひっぱってもらわなければ歩けなかった。
駅前には、コンビニやファミレス、牛丼屋、ファストフード店と24時間営業の飲食店が並んでいた。
「っつーか朝メシ食わね? オレ腹減ってんだけど」
「あ、うん……」
「オゴリ?」
翼くんは話を進めるのが早い。でも、少し強引なくらいが、今の僕にはちょうど良かった。
「うん。いいよ」
そうするのが道理だと思う。高校生が稼げるバイト代と、倍以上も歳をとった社会人の給料では比べ物にならない。
「マジで? やりぃ」
ひひっ、と上機嫌そうに笑って、翼くんは一番近いファストフード店に入った。
レジで注文する間、今度は店員さんや他のお客さんの目が気になり出した。
スーツの僕はともかく、明らかに制服を着た高校生が、学校の始業時刻にファストフード店に居る。世間からは、どんな風に見られるだろう。
翼くんはそんな事なんて気にもせず、レジカウンターに腕を乗せてメニュー表を見ている。前かがみになって、なぜかリズムを取るように、腰を左右に揺らしていた。
「BLTバーガー2つとぉ、ポテトのセットでぇ、あとオレンジジュース」
たくさん注文する割には、細いと思った。大きなバッグを掛けた肩幅も狭く、クラスの中でも背の順は前の方かも知れない。
斜め後ろから見ても、輪郭から見えるほど睫毛が長い。耳にはピアスの穴があいている。
「他にご注文は?」
店員に聞かれ、翼くんが僕の方を見てくる。
「何 にすんの?」
「あ、僕……ホットコーヒー1つ、お願いします」
「だけ!?」
なぜか驚いて聞き返してきた翼くんの声が大きくて、気まずくなる。
「食欲なくて……」
店員さんの顔色をうかがい、小声で答えた。
「いや、ありえねーわ。ちょっ、やっぱバーガー3つにして。あとホットコーヒー1つで」
翼くんはまた強引に、店員さんにもタメ口をきいた。
商品の乗ったトレーを受け取るなり、翼くんは一番奥の席に向かった。
他に客はお年寄りしかおらず、ますます高校の制服が目立つ。僕はキョロキョロしながら後に続く。
窓際のソファー席を陣取った翼くんはバッグを下ろして、すぐに食べ始めた。
「よく食べるね、朝からそんな、バーガーとか……」
向かいの椅子に座って、思わず言った。
翼くんは早くもハンバーガーをあふれそうなほど口に詰め、もぐもぐしながら見てくる。
「食うっしょ。腹減ってるっつったじゃん」
「見てるだけで胃もたれする」
「増田も食うんだよ!」
赤い腕時計をした手で、目の前のトレーを指差す。
そう言われても、食欲が無いのは本当だった。
社会人生活に慣れるにつれ、朝は食べなくなった。昼はコンビニ弁当で、夜はカップ麺か冷凍食品、出来合いの惣菜を買えば良い方。
『腹減ってる』と今の翼くんのように言っていたのは、学生の頃までだ。
「っつーか、胃もたれとか言ってんのヤバ。どんなけジジイなん。っつーか、増田いくつなん?」
「32──いや、33か」
そんな生活を、10年くらい続けている事になる。数字にすると、その現実感の無さに自分でもびっくりだった。
「え、もっとおっさんかと思った」
正直すぎる感想で、苦笑いするしかない。
「よく言われる。老け顔だしね」
「や、なんか見た目ってか、疲れ具合? ザ・リーマンってカンジ」
そう言って、翼くんはストローでオレンジジュースを飲んだ。
「あぁ……」
実際、その通りだと思う。何かを言い返す気にもならなかった。
最近は特に時間がなく、食事よりも、睡眠欲が勝っていた。ベッドに入ったって、ろくに眠れもしないし、酷い時は嫌な夢まで見てしまって、疲れも取れない。そんな悪循環の中にいる。
しばらく僕は、翼くんが食べているのをぼーっと見ていた。
2つめのバーガーを取って、包装をはがす。顔の脇に髪が垂れて来たのに気付いて、一旦トレーに戻す。髪をヘアピンで耳の上に留め直し、また改めて、かぶりつく。
レタスが大きめに飛び出してきて、噛み切れもせず、一瞬どうしようかと固まってしまう。
「ん……」
と小さく声を漏らして、クリッとした目を上げた。
僕が見ているのと目が合うと、少しだけ恥ずかしそうに笑って、また下を向く。それから、小さい口を何とか動かし、しょりしょりとレタスを吸い込んでいく。
今度はトマトの汁が垂れて、口の周りを汚して、顎に伝う。それを指や手の平で拭いて舐める。ウェットティッシュも使わないし、紙ナプキンはコップの下になってびしょ濡れ。オレンジジュースを飲むストローの先は、噛んでしまってぺったんこ。
ガラスのコップの中のジュースがみるみる減っていき、飲み干す時には、ズズズッと吸い込む音がした。お行儀がいいとは、お世辞にも言えない。
でも、たかだかハンバーガーを食べているだけなのに、生き生きしている。疲れなんて知らないし、今を楽しむのに精一杯、忙しい。そんな風に見えた。
と同時に、目の前に置かれたハンバーガーが、とてもおいしい食べ物に見えてきた。
『増田も食うんだよ!』と、翼くんが言っていた通りにしたくなった。
「僕も、ちょっとだけ食べようかな……」
小さく言うと、翼くんは口いっぱいにほおばったまま、右手の親指を立ててグッドサインをしてくる。
それから少しのみ込んで、
「まいうー」
と言った。
「まいうー? あぁ、美味いってこと?」
僕が聞くと、翼くんが目を見開いて固まる。
「は? 何言ってんの? えっ、まいうー知らんの?」
「最近テレビとか、観る時間なくて……」
「ありえねー。金曜の夜だぜ? ぜってー見てるって」
「何時からの番組?」
「9時」
「そんな時間、まだ会社だよ」
苦笑しながら言うと、翼くんが鼻の頭にシワを寄せた。
「ヤバ。素でドン引きなんだけど」
「どんびき?」
「もういーって、しつけーなおっさん」
面倒臭そうに手を振られて、あしらわれてしまった。
それ以上聞き返すのはやめて、ようやく包装紙をはがして、ゆっくり口に運ぶ。一気に食べるにはぶ厚くて、顎が外れそうだった。
トーストされたパンのいい匂いがして、少しバターらしき風味もある。黄色っぽい甘めのバンズに、こんがり焼けたベーコン、明るい緑のレタス、真っ赤なトマト。シャキシャキした野菜の食感を味わったのは、久しぶりな気がした。いつも食べる冷凍食品の、しなしなになった具材とはまったく別物だ。
胡椒のきいたベーコンの油が、じゅわっと溶け出して口に流れ込んでくる。オーロラソースと混ざった味が舌に広がる。ちょっとだけ、では止まりそうにない。
気が付けば僕も夢中で食べていた。薄いピンク色のソースが、灰色のスーツに垂れようと構わなかった。後で胃もたれしても、どうなってもいいと思った。
熱くて持てなかったホットコーヒーも、ちょうどいい温度になって湯気が柔らかく立ちのぼっている。いつも会社で飲んでいるインスタントコーヒーとは違う、深い香りだった。
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