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店を出た後、翼くんが腕を組んできた。少しびっくりしたけれど、朝食を奢ったくらいでこんなに懐かれるなんて、男の子はチョロいなと思う。
僕自身が、先輩に甘えられるような性格じゃないから、素直な翼くんの態度は好感が持てたし、むしろ羨ましいくらいだった。人懐っこい、年の離れた親戚の子みたいで、可愛いと思った。
手を引かれ、駅から離れるように歩いた。しばらくは、どこに向かっているのか分からなかった。
「どこ行くの?」
と聞いても、
「分かってるクセに」
と言って、翼くんは教えてくれなかった。
僕はだんだん気まずくなって、何か話さなければと話題を探した。
主要駅を出てバスやタクシー乗り場を抜けた先、大きな道から外れた通りには大抵、ホテル街があるからだ。
「こっち」
誘われた先は、そのうちの一軒だった。
「えっ? いや、ちょっと……」
冗談だと思った。こんな所にいる事すら冗談みたいなのに。
すぐに周りを見回す。真っ昼間どころか、朝方の、お泊まりをしたカップルが出てくるような時間帯だ。スーツを着た男が高校生を連れ込んでいるところなんて、見られたらおしまいだ。
でも、翼くんはその場から動かなかった。料金の書かれたパネルの裏の通路。入口の自動ドアからも、通りからも見えない位置で、僕を振り向く。
「何?」
少し、イライラしている口調と表情だった。
「な、何する所か分かってるの?」
何とか止めようとして、出てきたのはそんな言葉だった。
「いや、こっちのセリフだし」
翼くんはそれだけ言い、中に入っていった。
受付で止められる事もなく、部屋に入れてしまった。
殺風景な内装で、ラブホテルらしく大きなベッドと、壁には大きな鏡。ヘッドボードにはランプと電話、小さなテレビがあるだけだ。窓はあるが、外側の戸が閉められていて、太陽の光が入ってこない。
「何してんの? チョーキョドってんじゃん」
部屋の入り口近くで立ち尽くしていると、バッグを床に下ろした翼くんが聞いてきた。
「いや……」
うまく答えられない。すると翼くんが目を見開いて、
「えっ! 増田もしかドーテー!?」
大声で聞いてきた。
慌てて首を振る。
「ちっ、違う! 違うけど……」
咄嗟に言われたせいで、焦って否定してしまった。その反応が童貞みたいで、自分でも恥ずかしくなる。
「……どうして、こんな所にいるのかなって」
しどろもどろになって言うと、
「ま、オレはこーゆーの慣れてっし」
翼くんは僕と目を合わせず言いながら、僕の背広を脱がせて、クローゼットのハンガーに掛けた。手際がよくて、されるがままに流されてしまう。
「さ、最近の子だね……」
「昔からあるっしょ、エンコーなんてさ」
「え?」
心臓がギュッと痛んだ。聞き間違いかも知れないと思って、そう願って聞き返す。
「ご、ごめん、何?」
声が上ずってしまった。
翼くんは唇を尖らせて、一瞬僕を見上げる。細い眉がつり上がって睨んでいるみたいな目だった。
「じゃ、シャワー浴びてくっから」
なぜか急に不機嫌で、怒ったような声になった。僕の質問には答えてくれなかった。
「えっ、あっ……」
何か言う前に、翼くんはドアの向こうへ消えてしまった。
浴室はそこにあるらしい。間取りまで分かっているという事は、やっぱりあの子がここに来るのは初めてじゃない。
「……え?」
一人残されて、疑問の声が出た。
どうしてこんな状況になっているのか、どこでおかしくなったのか、記憶を辿ろうとするのに、うまく思い出せない。
ひとまずベッドに腰を下ろし、頭を抱えて考えようとする。
「…………」
断片的に、翼くんの顔や仕草、駅のホームと線路、ファストフード店で食べたハンバーガーなんかが浮かんでは消える。
『エンコーなんてさ』
翼くんが言ったのは、援助交際のことだ。
生活に余裕のある大人がお金を出して、イマドキの若い子と遊ぶ。その遊びには、食事に限らずデートやプレゼント、そして肉体関係も含まれる。
僕にとっては馴染みがないけれど、聞いた事のない話ではない。都市伝説のようなものだ。
『楽しい事してみね?』
と、翼くんは確かに言っていた。エンコーのことを指すなら、僕には、そんなつもりはない。
ただ、翼くんといるのは、それだけで楽しい事かも知れなかった。少なくとも、自分の中に押し寄せてくる不安や恐怖は和らいでいた。
「…………」
鼻から息を大きく吐いて、顔を上げた。
何もせずに済むかも知れない、と思った。翼くん側には、変な気持ちはなく、ただ2人になれる場所で、僕を落ち着かせようとしてくれている。そういう事なんじゃないか。
シャワーを浴びにいくのも、深い理由は無いんじゃないか。
そこまで考えた時、ドアが開いた。
翼くんは裸だった。
茶髪はセットしたままで、細い体は少し濡れて、腰にタオルを巻いている。
「入って来ねーの? 交代?」
平然と言ってくるのを、ただ見ているしかできない。
「っつーか、服も脱いでないじゃん! 何やってんの増田ぁ!」
翼くんがまたイライラして急かしてくる。
何を急かされているのかも分からないのに、慌ててしまう。
「あ、えっと、服……」
急いでネクタイを外した。何でそうさせられているのかも、理解が追いつかないけれど。やっぱりヤンチャな子は、年下だとしても恐いと思ってしまう。
翼くんがずかずか歩いてくる。
「おせーな、貸せ」
そう言って、翼くんは僕の膝の上に乗ってきた。腰に巻いたタオルが、ずり上がりそうなスカートみたいだ。
腿にまたがった勢いのまま、シャツの1番上のボタンを外される。
「な、何でっ? なんでこんな事……!」
思わず聞いた。声が裏返ってしまった。胸ぐらをつかまれて脅されているような気分で、泣きそうだった。
翼くんが手を止める。僕の目を見た。さっきまでとは別人の、やけに暗い目元だった。
「高校生だから。今がイチバン価値あるんだって、オレら」
「それは……エンコーのこと?」
逃げられない、と思った。
さっきまで理解できなかったのは、理解するのが恐かったからだ。何も考えたくなくて、そういうふりをしていた。
「言ったじゃん。最後に楽しい事してみねーかって。っつーかキホン分かんじゃん、ビビってんの?」
「…………」
頭が働かないのに、新しい事、知らない事、面倒な事なんて、起こってほしくなかった。状況を飲み込んでしまえば、対処しなければいけなくなる。僕は、自分のことで手一杯なのに。
「……そんな、そんなにお金、必要なの?」
目を見られず、翼くんの胸の辺りを見ながら聞いた。
「そりゃそうだろ。いくらあっても足りねーよ」
翼くんは当然のように言い返してくる。
少しだけ顔を上げると、顎を上げて見下ろして来ているのと目が合った。
「何、お、お金困ってるの? まだ高校生なんだし、そんなに高い買い物なんて──」
「なー。そーゆー説教とか、聞くのあきてんだけど。オレ的に」
今度は翼くんの方が顔を伏せて、話を遮ってくる。冷たい声だった。
そして僕の膝から降り、腰のタオルを巻き直すと、裸足で歩いて自分のバッグの方へ向かう。
しゃがみ込んで取り出したのは、煙草だった。
僕を見ながら、翼くんはこれ見よがしに咥え、火を点けた。
そこからゆらりと立ち上がって、大きな鏡の前にあるカウンターにもたれ掛かる。一度深く吸い込み、煙草を口から離す。すーっと細く煙を吐いた。
「オトナっていーよな? まっとーにカネ稼いで、好きなモン買えてさ。酒もタバコも、エロい事も、フツーにできんじゃん」
まだ高校生になって間もなさそうな翼くんと、酒やタバコという言葉はちぐはぐな気がした。
でも、注意できなかった。吸い慣れている手つきだし、僕がこの子ぐらいの年の頃、同級生にそういう人がいても、知らないふりをしていたから。注意すればそれだけで、火に油を注ぐから。
黙っている僕に、翼くんはカウンターの上にあった灰皿に煙草の灰を落として続ける。
「誰とヤろーが、好きなトコ住もーが、何時に寝よーが自由じゃん。それでオレらにはマジメにしろとか言ってんの。ありえねー。オレらだって何しよーが自由じゃん」
「自由……?」
翼くんの言葉で、何か忘れていた事を思い出しそうな気がした。
この子の思う自由、僕がこの子くらいの頃に思っていた自由が、今の僕にあるのだろうか。
何でも好きにできる生活なんて送っていない。仕事以外では誰とも関わらず、寝るためだけの部屋に住んで、その睡眠時間も仕事のために削る。
この子の言う通り『何しよーが自由』だったとしても、何がしたいかすら分からない。
本来の自由とは何かが分からなくなっていた。考えもしなかったし、考える事もしたくない。
「そ。だから自由にすんの。っつーか、ここまで来たら逃がさねーし」
どうやら翼くんは、僕を脅しているつもりらしかった。
「……僕が、カモってこと?」
ふふん、と見下したように鼻で笑われる。
「増田もーすでにオレにメシ奢ってっからね。ヤッてなくても金出した事バレたら犯罪になるんだぜ、おっさん」
さも詳しいんだぞと言う態度で、また煙草を咥える。
僕がこの子に朝食を奢ったのは確かだ。そうするべきたと思ったから。今になって気付いても手遅れだということを言いたいのだろう。
でも、後悔はなかった。戻りたい、やり直したいなんて考えは湧いてこない。
湧いたのは久しぶりの食欲、食事をおいしいと感じた感覚、それからこの子に振り回されるような忙しない感情。
どうせこの先も自由はない人生の中で味わえる「楽しい事」には、もう充分だった。
「……いいよ、それでも」
僕が言うと、
「は?」
翼くんの方が困ったように聞き返してきた。
「どうせ死のうと思ってたし。数年は社会に出なくて済むかな。そうまでして生きたくもないけど」
自分の口とは思えないくらい淡々と、つらつらと言葉が出てくる。
そして、僕はすぐ思い付いて立ち上がり、クローゼットの中に置かれた鞄から財布を取り出した。勝手に体が動いているみたいだった。
呆然と見ている翼くんの胸に押し付ける。
「あげる。もう僕が持ってても仕方ないし。あ、カードの番号書くね」
また鞄の方へ戻り、手帳とペンを取ってベッドに座る。書き始めた時、手が伸びてきた。
「わりぃ……おっさん、本気なんだな」
煙草を消した翼くんが、僕の手をペンと手帳ごと両手で包み込んだ。
「何?」
顔を上げると、すぐ目の前に顔があった。
少し遅れて、唇に何か柔らかくて小さいものが触れているのに気付いた。ようやく、翼くんからキスされたのだと分かった。
最初は煙草、次に石鹸、最後に整髪料の匂いがした。男の子と、男性の要素を混ぜたような匂いだ。
んっ、と声を立てて、翼くんは顔を離した。
「いったん忘れよーぜ。オレこーゆー空気ムリなの。今は楽しい事しに来たんだし」
そう言いながら手帳を取り上げて、ペンを挟んだまま閉じさせ、脇に置いた。キスされるとは思っていなくて、きょとんとした状態で従ってしまう。
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