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第1話

 プロローグ  そのときひどく懐かしい人の顔が時田(ときた)恵世(あやせ)の閉じた瞼の裏に映った。  ――なぁ。  嗄れてはいるがやさしい声が耳元に語りかけるようにどこからか聞こえてくる。  ――一粒は空を飛ぶ鳥のために。一粒は地の中の虫のために。残りの一粒は人間のために。  可愛がってくれた祖父の声だった。  毎日、口癖のようにその言葉を呟きながら、畑仕事に出かけていた。幼い自分はさぞかし足手まといだったはずなのに、嫌な顔ひとつせず、手取り足取り土いじりの楽しさを、また豊かさを教えてくれた人だった。いつも自分を膝の上に座らせてたくさんの話を聞かせてくれ、やさしく頭を撫でながら語りかけてくれる祖父がとても好きだった。  祖父のその声が、わんわんと頭の中を共鳴するように何度も何度も繰り返される。  どうしてその言葉ばかり頭の中を行き来するのだろう。だがその声は確かに自分の中へと響くのだ。そうして懐かしいのだか、せつないのだか、悲しいのだか、よくわからないごちゃごちゃしたものを抱えながら、浅く短い呼吸をする。  死がすぐそこに迫っているのかもしれない、とぼんやり思った。 (ああ、結局あの論文はリジェクトされたままだった……)  恵世は農学部の博士課程に在籍する学生である。といっても、博士論文は遅々として進んでおらず、オーバードクターに片足を突っ込んでいる状態なのだが。  論文が進んでいないのはけっして恵世本人に原因があるわけではない。教授がパワハラ、モラハラ気質で、研究室は助教すら次々に辞めていく始末で人が居着かず、現在は教授一人しかいない。  そのため、かろうじて残っている恵世に研究室の一切合切を請け負わせ、教授はふんぞり返っている有様だ。それだけで済めばいいが、恵世がその忙しい合間を縫って研究を進め書いた論文もなにかと難癖をつけて却下(リジェクト)する。要は、恵世が学位を取ってしまえばタダでこき使える人間がいなくなってしまうのだ。そのため、恵世に学位を与えたくないのだろう。  とはいえ、恵世もこのままここで飼い殺しにされたくはない。なにがなんでも学位を取得し、ここから出なくてはならなかった。  もっと時間があれば、と思うのだが、生活費もバイトで捻出していた恵世にはそれも難しい。  恵世は天涯孤独の身の上で、早くに両親を亡くし、唯一の肉親である農業を営む祖父のもとで育てられたが、その祖父も恵世が大学に入学してすぐに亡くなってしまった。学費にと蓄えてくれていた貯金とわずかな田畑を恵世に残してくれたが、現実は厳しく、田畑を売却せざるを得ず、そのお金も数年前に底をついてしまい、生活費をバイトで稼ぐより他ない状況だ。 (じいちゃんのために研究も続けていたけど……ごめん、じいちゃん)  今研究している植物促進剤が認められれば、いずれは自分が祖父の土地を買い戻せる、そう思いながら毎日身を粉にして働き、研究を進めていた。  毎日の睡眠時間は仮眠程度にしかとれないまま、食費を削り続けてろくなものも食べられない状況で、身体も限界だったようだ。  目眩がしたのは覚えていたが、どうやらそのまま倒れてしまったらしい。  死を前にすると記憶はその引き出しをすべて開け、生きていくためのなにかを見つけようと瞬時に探しはじめるといわれる。走馬燈のように想い出が脳裏をよぎるとよく表現されるが、それは自分自身がたとえ蜘蛛の糸程度の極めて細い記憶の糸でも生存する可能性、あるいは生存するための糧、支えを手繰り寄せ辿るために脳内が一瞬にしてデータ処理した結果見せる像であるらしい。  祖父と過ごした色鮮やかな世界。緑豊かな田舎でたくさんの作物を育て、大好きな犬のノクスと野山を駆け回った。  夜の闇のように黒い毛をまとったノクスはきっと恵世のことを自分の弟とでも思っていたのだろう、忙しい祖父の代わりに恵世の面倒を見てくれていた。そんなノクスも祖父の死を見届けて、後を追うように虹の橋を渡った。  ――恵世、笑っていろ。笑っていたらなんとかなるもんだ。  祖父の声とノクスの泣き声が響いた。  多分、この声が自分の生きていく支えであったのだろう。祖父とノクスの傍で幸せだった頃の記憶が。  意識がさらに遠のく。  祖父と暮らした土地で再び過ごすその夢は叶わなかったが、また祖父とノクスに会えるならこんな結末も悪くない。  それにようやくパワハラからも論文からも解放されるのだから――。
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