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第2話
「それにしてもツァリは随分消耗しているね」
ヨニ先生が顎に手を当ててツァリ神官を見る。その言葉通り、横向けで青白い顔をしたツァリ神官は、少し落ち着いたにしろまだ呼吸が浅い様子だ。消耗しているとは。廊下の出会い頭ではこんなことになるとは思っていなかった。俺はベッドを挟んだ向こうに立つヨニ先生に片膝をついて頭を垂れる。
「私と接触したところ突然このように……鞘であることが判明すると何か負荷がかかるのですか?」
「いいや? そんなことはないはずだけど。軽い立ち眩みがあったり目の前にキラキラとしたものが見えたりするとはよく言われるけどね。倒れることはそう起こらないよ」
そう起こらない? ならどうしてこうなったんだ?
俺が混乱していると、ヨニ先生が人差し指を振ってみせる。
「ああ、そう起こらないだけで、無いわけではない。でもそれって結構特殊なことなんだよね」
「特殊……」
「えっと。魔剣の手くんはなんという名前なのかな」
問われて失態に気づく。自分の名乗りを忘れていた。
「申し遅れました。エリオット・セム・グランヴィルと申します」
「なるほど、見るからに階級は騎士って感じだね。じゃあエリオット騎士は魔剣の種類にどんなものがあるかは知ってるかい?」
また問われる。魔剣の種類。騎士の身分ではあるし、国教のことなのだからある程度は知っている。魔力に関する範囲であれば初等教育にも組み込まれていることだ。だが魔剣に特化させるとなればそう詳しいわけでもない。こんなことになるのなら真面目に説教を聞いておけばよかった。
「浅学のため、各魔力属性に寄ったものや、複数の属性を持つものが存在する程度にしか存じません」
「うんうん。じゃあ毒属性の魔剣があるのは知ってるかい」
毒。魔力種の環状関係に含まれない別種の魔力。人体のステータスへ影響を与えるそれは、良くも悪くも効果をアイテムでも補えるためにそれを専門にできる魔術師も少ないと聞いている。治癒術師がサブとして修得しているイメージか。
「毒……ですか」
「知らないようだね。なら教えてあげよう。毒属性の魔剣は竜の呪いがかかった稀少な種なんだよ」
基本属性の炎や雷といった魔剣なら以前出現していたのを知っている。今存在が確認されているのはカノザ王国の炎の魔剣と、ブラフタ国の水の魔剣だ。炎は比較的多くみられる魔剣で、それに対してブラフタ国が水の魔剣を得たことで属性的に有利となっていた。おそらく我が国は雷の魔剣を求めていただろう。いや、他の国もそうか。
それであって毒とは。魔剣の権威争いに参加できる属性なんだろうか。
「毒竜の魔剣は歴史上一度だけ存在が確認されているんだ。その時の鞘も、今のツァリのように一時的に体調を崩したとある」
「一度だけ? なら、まだその属性の魔剣だとは決められないのでは……」
「それはそうだ。他にも鞘の体調に影響が出た他の属性の例がある。だけどエリオット騎士、その鎧を見るに君はうちの竜騎士だね」
そう告げられて息をのむ。確かに鎧は所属する団の意匠を施されているのだから、有識者が見れば判別できるだろう。それはそうなのだが。
「なにか関係が……」
「あるよ。魔剣の属性は手と鞘それぞれに縁のある属性に引っ張られるんだ。今回は手が先に見つかったのと、それが竜騎士の君で、鞘となったツァリが倒れたならおそらくそうだと判断をつけられるだろう?」
訊ねられては何も言えなくなる。俺が竜に関りがあるからといって、ツァリ神官に影響がでているというのは考えたくない関連性だった。そも魔剣の手にもなりたかったわけではないのだが。
副神官が俺の肩に手を置く。
「神官は魔剣に身を捧ぐものです。それに必ずや、鞘として務めを果たせるよう治癒させましょう」
思わず眉間にしわが寄った。これを隠せというほうが無理だろう。まるで鞘であること以外の存在意義を無視するかのような言葉。けれど副神官は俺の表情をヴェール越しに見ただろうに、何も言わずに肩から手を放していった。
「任せたまえ、治癒なら僕がかけよう。そしてツァリ、君を診察させてもらう。いいね?」
ヨニ先生も副神官と同じ視点でしかない。俺は不愉快極まりなかったが、それでも俺に治癒術は使えない。小さくツァリ神官も頷いてしまったのだから断ることはできなかった。
ツァリ神官の体が仰向けにされる。彼の胸の上にヨニ先生が両手をかざすと、青白い光がくゆるように浮かんで、乱れていたツァリ神官の呼吸がゆっくりと落ち着いていく。段々と、見る間に回復していく様はやはり胸のざわつく光景だった。騎士団でも外傷の治癒はよく行われるが、見えない範囲の回復は何が起こっているかも分かりづらく不安が残る。
瞑られたままだったツァリ神官の目がうっすらと開いた。灰色の瞳が揺れて、俺を見て、視線がヨニ先生と副神官へと移される。
「……私は……」
意識がはっきりとしないのだろうか。さきほど少しだけ会話できたのはうわごとだったのかもしれない。俺は彼の顔を見てはいけないだろうと頭を下げる。
「おや、これから魔剣の手と鞘の間柄となるのに律儀なものだね」
「ツァリ様のご意向を伺っておりませんので」
「騎士とはかくやと言える真面目さだなあ。まあいいさ、具合はどうだいツァリ」
治癒の光が止む。ベッドがきしむ音がした。起き上がれるようになったのか、と安堵して小さく息をつく。
「……っ」
「だから君もヴェールなんか要らないんじゃないかい。ああ、真面目が二人だ」
やれやれというようなヨニ先生の言葉と、身じろぎする音。おそらくツァリ神官がヴェールを着けているのか。頭を下げていてよかった。やがてまたベッドがきしむ。
「騎士様、お手数をおかけいたしました。もう問題ありませんので……」
「君たち形式ばってるなあ。せっかく稀少種の魔剣を得られたんだ。僕としては早速仲良くなってもらいたいところなんだけど」
顔を上げれば、ベッドで上半身を起こしたツァリ神官と、その向こうでベッドに頬杖をついたヨニ先生がいる。
「ヨニ先生。私が倒れたのは……」
「うん。毒竜の魔剣を孕んだからだね。いや、今風に言えば《宿した》が正しいかな。ともかくおめでとうツァリ! 君は選ばれたのだよ」
満面の笑みを浮かべるヨニ先生に対して、ツァリ神官は言葉に詰まったようだった。
「……ありがとう、ございます」
絞り出すような声。ヴェールで顔は見えないが、彼の表情が今どうなっているかを俺は知っている気がした。
「さて、それじゃあツァリの診察といこうか。エリオット騎士、君は副神官と一緒に外へ出ておいてくれないか」
「承知いたしました」
鍵のないドアをくぐり、副神官と外に出る。医者というのだし診察ということは俺にできることは何もない。鎧は置いてきてしまったがもう構わないだろう。
副神官はドアから少し離れたところで背筋を伸ばして立っている。先ほどヨニ先生が言っていたことのうち半分ほどしか知らなかった。ヨニ先生も教えてくれはしたが、まだ聞いたこともないことなんていくらでも出てくるんだろう。
「副神官様」
「なんでしょう」
「魔剣の手としての身の振りを教えていただくことはできませんか。畏れ多くも私の浅学によるもので、大変お恥ずかしいお話ですが……」
魔剣を扱う二人の人間について、物語めいた逸話はいくらでも耳にする機会はある。だがその実どうであるかなどはある種下世話な噂程度しか届いてこない。行われる行為を考えればそれも致し方ないのかもしれないが、いざその身になってみれば参考となる文献などもないのだと気づいたのだ。
「私にはできかねます」
「……なぜ、でしょうか」
「手と鞘の関係は一概には言えるものではないためです。グランヴィル騎士もツァリ神官も神殿の教えを知る方。お互いにとって相応しい者となるには対話を持つことが最短かと思われますが、いかがですか」
なんだその恋愛相談に関するうやむやな回答のお手本のような言葉は。結局得られることは何一つなく、しばらく待っているとやがて部屋から声がかかった。副神官に続いて中に戻れば、ツァリ神官はベッドからおりて立ち上がっているほどには回復したらしかった。
「もうお体は良いのですか」
「ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません」
深々とお辞儀をされてしまい慌ててしまう。彼の頭を上げさせていると、やりとりを見ていたヨニ先生が聞えよがしなため息をついた。
「言っておくが君たち、今でこんな状況ではこれから大変なことになるぞ。魔力を互いの体に巡らせないといけないんだ。分かっているのかい?」
魔力を巡らせる。これは魔剣の維持と威力を上げるために必要な行為だ。そしてその行為が、魔剣の手と鞘の間で行われる性交なのだ。
何がどうなってそんな行為が必須となったのかは分からない。ただ、魔剣の手と鞘となった男女が夫婦となった時にその関連に気づいたのだという。それがハリア教でも有名なクローズ夫妻だ。お陰で男女のペアは夫婦になることがほとんどだ。だが、手と鞘の間には子供が生まれない。これは長い歴史の中で『いまだに生まれていない』という結果論ではあるが、ともかくとして、それを理由に公然とした愛人をもつこともある。俺はそれもあまり好きではない。手と鞘の間に行われる性交は聖なる行為だと言われたとして、明確に別の相手を持つ人と体を交えることができる感覚が分からないのだ。
「務めは果たします」
そう呟いたのはツァリ神官だった。俺は、そんな権利もないのに少なからず傷ついていた。彼にとっては務めなのだ。当然ともいえるだろう。彼は神殿に仕える神官なのだから。
どこか、彼が自分と同じように、魔剣の鞘ないし手として選ばれたことを不服と思っていないだろうかと考えていた。祝福ともいえる宿りの宣告を受けて、言いよどんだような声をしていたから。けれど彼は務めを果たすという。神官として、国民として、魔剣の鞘として。
たとえその魔剣の手が、俺じゃない誰かだとしても。
「それならいいのだけどね。特に男性同士の手と鞘はいろいろと難しいことも多いだろうから。そんなときにはいつでもこの僕を頼っていいのだからね! 覚えておくように!」
「はい」
意気揚々と自身の胸を叩くヨニ先生に、ツァリ神官が頷く。その声もどこか力なく聞こえた。どうしてだろう。純粋にヨニ先生のようなタイプが苦手という可能性もある。
「さて、こまごまとした祭事の取り決めなんて面倒は神殿に頼んで、あとは君たち二人で少し仲良くなりなさい。ああ、初夜は祭事の後になるから手はまだ出しちゃダメだぞ。……うーん、ちょっとならいいけど」
「ヨニ医師。我々は控えましょう」
「ちゃんとわかってるだろうね? 頼むよほんと……」
腕を捕まえ、副神官がヨニ先生を連れ出していく。頼まれなくてもそんな無粋は侵さないし、こんな鍵もない部屋で何も起こすことなどない。嵐のように去っていった二人を見送り、俺とツァリ神官はしばらく沈黙した。
「……あの方が専門医でいらっしゃるのですね」
「……ええ。私たちの健康を診てくださっています」
一先ず関係のない話をして場を緩ませようとする。するとツァリ神官が片腕を体の前でさするような動きを見せた。寒いだろうか。今日は暖かいくらいのはずだが。
「ここは少し落ち着きませんから……よければ裏庭へ参りませんか。今の時間なら昼の奉仕で誰もいないはずです」
「はい。ぜひ」
ツァリ神官と一緒に部屋を出る。自室なのに落ち着かないとは。自分のエリアに他人の俺がいることが原因なのかもしれない。鎧はそのままでいいと言われたので、手足の鎧だけはつけたまま神殿の中を進む。
石造りの中を鎧の足で歩くと金属音が鳴る。静かな通路、中庭を過ぎ、さらに奥へと進んでいく。倒れてすぐにこれほど動いて大丈夫なのだろうか。後ろに付き従いながら、何か変化があれば対処できるよう緊張感を持ちながら行く。
けれどツァリ神官は確かに回復したのか、裏庭に続く腰ほどの高さの草扉を開いて奥へと向かった。そこは裏庭、というよりも畑が広がっており、午前で水まきや手入れは終わったのだろう、確かに人影は見当たらなかった。
「あちらのベンチへ」
木陰になる場所に、休むためらしいベンチがぽつんと置かれている。質素なその座面に二人で腰を下ろした。やはり何を言えばいいのか分からない。
「改めまして、おめでとうございます。グランヴィル様」
「え、ああ、ありがとうございます。……身に余る光栄に、まだ心が落ち着かないのが本音ですが……」
ツァリ神官の顔はヴェールがあって伺えない。落ち着かないのは本当だった。たとえ何であれ、俺の魔剣の鞘がツァリ神官であることは間違いないのだから。
なら、俺がすべきことは一つだ。彼に嫌われないこと。できるなら好かれること。それであれば彼を幸せにできるはずだ。ヨニ先生が言うように、男同士であったとしても。
俺が自分の性的志向を知ったのはツァリ神官と初めて会った時だった。幼いころから少しずつの違和感は感じていた。貴族の家系なのだから、年端もいかない頃から許嫁は紹介されていた。けれど、細くふわふわとした女の子たちはひどく頼りなげで、あまり興味がもてなかった。それは俺がまだ子供だからだと思っていたのだが。
けれどそんなことはなく、ある祭りの日に、神への祈りを捧げるツァリ神官のヴェールが揺らされた時だった。感じたことのない高揚。欲しいと思ってしまった。まだ少年だった彼を。といっても俺も若造だったんだが。そんな自分が恐ろしくて、ツァリ神官が男性神官であることは明白で、俺は、その日あらゆる衝撃を受けて熱を出したのだ。それが十九歳のころ。今から五年前だった。
そうして俺は騎士になることを決めた。いつ死が訪れるかという職を選ぶことで、許嫁を俺から解放した。彼女はいまは新しい伯爵殿と上手くいっているらしい。彼女はよい人だったからその知らせを聞いた時に安堵したことを覚えている。
俺は竜騎士団に入った。竜騎士団には特別な入団試験があり、それを通過できたからだ。そのころ俺は少々自棄になっていたのだと思う。自分の未来がどうなるのか見えず、嫌になっていたことは否定できない。
「ツァリ様もおめでとうございます」
「……、ありがとうございます」
やはり少し言いよどむ声。礼を述べるのに声は無感情だ。
喜べないのも仕方がないことかもしれない。男性同士のペアとして現れることは歴史上や他の国でも少なくない。実際今のカノザ王国でも魔剣の手と鞘は男性同士だという。だが威力を上げるための行為が儀式化するのも否めなかった。剣の手と鞘は、どちらが行為の際受け手を担うかは関係がない。実際男女のペアであったとしても、鞘のほうが魔剣を宿す。魔剣の手が女性であったとしても問題にはならない。魔剣は確かに魔剣の手であればどれほどの重量の見た目の剣であったとしても扱えるのだ。
それであって、剣の手が俺のような騎士の身分であればツァリ神官も喜べはしないだろう。どちらであっても身の丈も自分より高い鍛えている男が相手なのだから。安易におめでとうなどと言うべきではなかっただろうか。少しの後悔が浮かぶ。
「……手を担うのが私では不安でしょうが、誠心誠意努めさせていただきますので、どうか……」
「っ! そのような、貴殿に不安を感じることなどありません。むしろそれは私のほうで……」
予想せず大きな声を出してしまったのか、ツァリ神官は自らの口を手で覆う仕草をした。不謹慎だが可愛いと思ってしまう。隣に座るツァリ神官のヴェールがそよ風ですら揺れる薄さがある。それなのに表情が見えないのが悔しかった。
「……私は……」
「……」
「……互いに名を知ってすぐの私の身の上を聞いていただくのは心苦しいのですが……」
「構いません。ヨニ先生もおっしゃっていました。私たちはきっと、お互いをもっと知るべきです」
言葉を飲み込もうとするツァリ神官を促すように尋ねる。ツァリ神官は少しだけこちらに向き直り、少しだけうつむき、また顔を上げた。
「……私の母はアルティアの出身です。父は、ファガルドの者だと聞いていますが、会ったことはありません。……私は出自がはっきりとしない者なのです。その身でありながら、魔剣の鞘に選ばれるなどと、考えてもみず……」
「それは……」
「八歳の時に母の手から離れてこの神殿に参りました」
それは、つまり。神殿では親をもたない子供を引き取るための院がある。そこに入ったということだろう。彼の母親の考えを慮ることは簡単ではないが、幼い年齢とはいえ記憶に残るその歳で親元を離れることになったツァリ神官の心情は察するに余りある。俺も幼いころそういった院に慈善活動として寄付をする両親についていったことがあるが、当時はあまり深く考えていなかった。今は少なからず思うところがある。
「ですが魔剣の手と鞘になる者に出自の如何は関係ありません」
「それは、そうかもしれませんが……」
「……まだほかにも気にかかることがあるのですね」
訊ねると、ツァリ神官は黙ってしまった。間違えただろうか。踏み込みすぎたかもしれない。俺は彼を以前から知っているが、彼は俺を今日初めて認識したのだろうから。
立ち上がり、ベンチに座る彼の前に片膝をつく。ツァリ神官が驚くのを指の動きで気づいたが、頭を垂れ、騎士が祈る時の姿勢で口を開く。
「ツァリ様。これから私は貴方の信頼を得るべく、誠意をもって接します。魔剣の手としても、一人の人間としても。どうかこの責を互いに各々と負わず、共に分け合いましょう」
「……グランヴィル様」
風が抜けていく。水にぬれた植物の匂いがした。裏庭には俺とツァリ神官しかおらず、ただ二人だけで述べる宣告だった。騎士然とした態度は今までの人生で何度でもこなしてきた。それでも、いくらでも恥ずかしい気持ちがわくのは、相手が恋焦がれていた彼だからだろうか。
「その、それで……つきましてはお願いがありまして」
自分の中に浮かぶ照れを拭うように、真面目な雰囲気を緩ませる。
「なんでしょうか」
「できれば、互いに向ける言葉を崩していきませんか。私たちの間だけで、徐々にで構いませんので。例えばツァリ様、私をエリオットと呼んでいただけませんか」
驚いているのを感じた。できるならそのヴェールもいつかは取ってほしいと思っている。だけどそれは性急すぎるし、ツァリ神官の同意をすぐに得るのは難しいだろう。
「エリオット様」
「……ふふ、少々くすぐったいですね」
「私は慣れません。……恐らくエリオット様は私よりも年齢が上かと存じます。それならば私には敬語は不要です」
「ですが、神官の方には……」
「私たちの間では、徐々に崩すのですよね」
そう言われると返す言葉がない。ツァリ神官の声が少し楽しそうに聞こえたのが印象的だった。ならば、と思い、んん、と小さく咳ばらいをし、あたりを見渡し誰もいないことを確認する。
「……俺が君をツァリと呼ぶのも、少々気恥ずかしいな」
「……っ」
小さく息をのむ声が聞こえる。突然敬語を取るのはなかなか難しいところがある。けれど彼がいいと言うのだから、時と場所を選べば構わないということだろうか。簡単には切り替えられるか分からないが、それも慣れてくれば問題ないだろうか。
「……すみません、私も少し、恥ずかしいです」
「貴方がおっしゃったのでしょう」
「難しいものですね。……ただ、名前は、努力します。エリオット様。……そろそろ中に戻りましょう」
そういえば祭事の取り決めをしなければならないのだったか。本当に副神官が全てやってくれないだろうか。神殿は静かであまり実感がわいていなかったが、今や我らがファガルド皇国は魔剣の手と鞘を迎えたことになる。儀式はいくつあっただろうか。皇族との目通しなどもあるだろう。普段の訓練よりも疲れそうなこれからの予定が思い浮かんで、小さくため息をつく。
立ち上がって手を差し出すと、ほんの僅かな間があって、ツァリ神官が指先だけを乗せて立ち上がる。指先はするりと逃げて行って、まだ親しくあるには時間がかかりそうだと思いながら神殿の中へと戻った。
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