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 蝉が鳴いていた。粘着くような真夏の日差しと、暗く湿った放課後の教室。「曜介」と微かに己の名を呼ぶ声が響いた。  一学期の最終日。夏休みの始まり。学校は早くに終わり、曜介は校庭でドッジボールをして遊んでいた。   「先生に頼まれ事されちゃったから」    そう言って、幼馴染の真尋は教室に残った。何の違和感も覚えずに、曜介はボール片手にグラウンドへと飛び出した。青く煌めく熱風も、騒がしい夏の日差しも、暑苦しい蝉の大合唱も、全てが曜介のものだった。  やがて、正午を知らせるチャイムが鳴り響いた。校庭で遊んでいた子供達は、一人、また一人と家へ帰っていく。最後に曜介一人が残った。  一緒に帰る約束はしていなかった。いつものことだ。曜介は、帰りの遅い真尋を教室まで迎えに行った。  蝉が鳴いていた。開け放たれた窓の向こう、網戸を震わせて鳴いていた。汚れた上履きを突っかけて、黄ばんだ廊下を駆ける。放課後の学校はがらんとしていて、別世界のように静かだった。  教室には鍵が掛かっていた。窓も閉め切られ、中の様子は分からない。真尋は教室に残ったのではなかったろうか。別の場所に移動したのか。誰かいないの?と軽くノックをしてみる。その時だった。   「……」    確かに声がした。真尋の声だ。途切れ途切れに己の名を呼ぶその声が、泣いているように聞こえた。  無我夢中で、曜介は窓ガラスを蹴破った。鋭い音と共に砕け散ったガラスの破片が鈍く光る。閉め切られた放課後の教室で真尋が何をされていたのか、その光景を前にしてもなお、幼い曜介にはまだよく分からなかった。  ただ一つ分かるのは、大切なものを傷付けられたということだけ。教卓の上で真尋に圧し掛かっていた男を、曜介は力いっぱい突き飛ばした。男の手から奪い取るようにして、真尋を強く抱きしめる。   「真尋! 大丈夫かよ、何があった」    抱きしめた体が震えていた。中途半端に衣服が乱れ、汗ばんだ肌が覗いている。   「大丈夫、だから。何でもないから……」 「何でもないわけ……」 「本当に、何でもないんだ。頼むから、曜介……」    震える手で、真尋は曜介の手を握った。掠れた声が震えていた。   「そばにいて……」    蝉が鳴いていた。粘着くような真夏の日差しと、暗く湿った放課後の教室。両者の間には、埋めることのできない隔たりがある。決して踏み越えることのできない、くっきりとした境界線が引かれている。  夏だというのに、曜介の手を握る指先は、氷のように冷たかった。

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