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第29話

 遠い遠い昔の記憶だ。  エルヴィンは当時八歳。エルヴィンは泥まみれになりながら、雨の中を必死で駆けた。  家族とともにリディアの町に来ていたエルヴィンは予想外の大嵐に巻き込まれたのだ。父親とふたりの兄は小高い丘にあるリディア城の食事会に招かれていて、その最中だった。食事会に参加できるのは十歳からで、エルヴィンはその間、町はずれの宿屋でひとり留守番をしていたのだ。  朝から大雨が降り続いていたが、まさかここまでの大洪水になるとは誰も予想しなかった。建物の中にいるから雨風はしのげる、大丈夫だと安心しきっていたのに、洪水で宿屋の建物が倒壊し、エルヴィンは惨事に巻き込まれた。  エルヴィンは最低限の荷物を背負い、マントを身につけて宿から避難をした。目指すは父と兄がいる丘の上のリディア城だ。  雨の中、足元は泥だらけになりながらもエルヴィンは懸命に駆けた。その途中、同い年くらいの獣人を見つけたのだ。  変な子だった。みんなが避難する中、道端でうずくまり動かないのだ。 「おいっ、早く逃げろっ!」  エルヴィンは見捨てることなどできなかった。黒いマントのフードを目深に被っていた獣人は、エルヴィンの声に反応してフードの隙間からほんの少しだけこちらに金色の瞳を向けてきた。 「どうしたんだよ、怪我でもしたのかっ?」 「……行く場所がないんだ」  小さな声だった。エルヴィンは耳を澄ましてやっとその声を聞き取った。 「城に行けば大丈夫だ! 誰でも助けてくれると聞いたっ」  エルヴィンには父と兄がいるが、平民でも受け入れてくれると宿の店主が皆に伝えているのを聞いた。だからこの子もきっと拾ってもらえるだろうと思った。 「俺は城には行かない。兄上が城に来るなと言った」 「えっ……?」  まったく状況は掴めないが、この獣人はエルヴィンが何度「大丈夫だ」と言っても「城には行かない」と一点張りで頑なに動こうとしない。今まで声をかけてきた獣人に対してもこんな様子だったのではないだろうか。これじゃみんな、狼獣人の態度に呆れて離れていっただろう。  雨は降り続き、時間もない。  エルヴィンには、見捨てるという選択肢はない。 「じゃあ、別のところへ逃げよう」  エルヴィンはうずくまっている狼獣人に手を伸ばす。 「一緒に行こう。ひとりじゃ動けないんだろ?」  きっと何か事情があるのだろう。それを聞いている暇はないから、まずは逃げないとだ。ふたりで。 「早く立って。雨も風もしばらくやまない。こんなところにいてはダメだ」  エルヴィンが促すと、狼獣人はエルヴィンの手に右手を重ねてきた。エルヴィンはその手をすかさず掴んで引っ張り上げる。 「行こう」  エルヴィンが手を引くと、狼獣人はあとを追ってきた。   雨と嵐の中、雨宿りできる場所を探す。あちこち歩いてエルヴィンが見つけたのは小さな教会だ。  古い教会だった。中に入っても司祭らしき獣人の姿はなく、誰もいない。もう使われていない様子だったが、石造りで建物も小さいので頑丈そうだった。 「外にいるよりはいいよ」  エルヴィンはびしょ濡れになったマントを絞って、教会の長椅子の背もたれにかけた。ついでに狼獣人のマントも同じく絞って、背もたれに干してやる。 「お兄さんとケンカしたの?」  エルヴィンは教会の中をあちこち物色しながら狼獣人に訊ねる。幸い使えそうな毛布があったのでそれを手にして狼獣人のもとへと運ぶ。 「兄上は俺がいなくなることを望んでる。俺なんて生まれてこなければよかったんだ」  そう呟く狼獣人はひどく寂しそうだった。  きっと兄にケンカの延長線上でひどいことを言われたんだろう。 「生まれてこないほうがよかったなんて言わないで」  エルヴィンは狼獣人の肩に毛布をかけてやる。 「自分で自分をそんなふうに言ったら、自分が可哀想だよ。僕は出来損ないだけど、それでもほら、生きてるよ」  エルヴィンは背負っていた鞄から、油紙の包みを取り出す。紙に包んでいたのは、宿の店主がくれたパンだ。 「あげる」  エルヴィンはパンを半分こにして狼獣人に手渡す。狼獣人は遠慮していたが、おそるおそるパンに手を伸ばしてきた。  ふたりで無言でパンを食べる。会話はなく、壁に打ちつける雨の音と、時折ビュービュー風の音が聞こえてくる。それでも静かで穏やかな時間に感じられた。 「寒いね」  エルヴィンは狼獣人の隣に座り、こっそりと毛布の中に身体を忍び込ませる。狼獣人も嫌がることなくエルヴィンと一緒にひとつの毛布の中に入ってくれた。 「寒い……」  エルヴィンは暖を求めて狼獣人に寄りかかる。濡れた身体は本当に寒くて震えが止まらない。 「おい、大丈夫か……?」 「うん……大丈夫」  口ではそう言うものの、手先は冷え切っているし、だんだんと動く気力もなくなってきた。 「お前、靴に穴が開いてるじゃないか」 「お古だから……」  別にこの雨風でやられたわけじゃない。もとからエルヴィンのブーツはボロボロなのだ。 「こんな靴じゃ足がすぐに冷えるに決まってるだろ。服もひどい。びしょ濡れじゃないか」  それも知っている。エルヴィンのマントも服もみんな着古したものだ。 「靴を脱げ。それから上着もだ」  狼獣人はエルヴィンの靴を脱がせ、懐から出した布で足を拭いてくれた。その布はやけに肌触りのいい上質な布だった。  それから狼獣人はウェストコートのボタンを開け、エルヴィンをその中に閉じ込めてくれた。さらにその上から毛布をかけてくれる。  冷えた身体にとって、その温もりはとてもありがたいものだった。 「こんなナリでよく俺を助けようとしたな。あのままひとりで城に行けば今ごろ暖かい場所にいられたのに」  狼獣人の言うとおりかもしれない。でも、あのときの狼獣人は、ひとりじゃ動けないと訴えているようで、それを無視することなんてできなかった。 「僕は大丈夫だよ。もう八歳になったんだ。自分のことは自分でできるようにならなくちゃ」  着替えだって、出かけるときの支度だって、全部ひとりでできる。少しでも家族のお荷物にならないように頑張らなくては。 「俺と同い年だ」 「そうなんだ」  狼獣人との思わぬ共通点にエルヴィンは頬を緩ませる。  そこで会話は途切れた。  ふたりは身を寄せ合い、暖をとる。狼獣人のおかげでエルヴィンの冷え切った身体が少しずつ暖かくなってきた。 「でんでこガエルの帰り道~」  エルヴィンはでんでこガエルの歌を口ずさむ。なんか、少し明るい気分になりたかったからだ。  そのとき思い浮かんだ歌が、|巷《ちまた》で流行りのこの歌だった。 「なんだその歌、聞いたことがない」 「えっ、知らないのっ?」  びっくりしてエルヴィンは顔を上げて狼獣人を見る。  意外だった。近所では誰でも知っているし、よく耳にする歌なのに。 「でんでこガエルの歌だよ。みんな歌ってるけど。僕の母上もよく歌ってたよ、もうこの世にはいないけど」  エルヴィンの母親は、エルヴィンが七歳のときに病気で亡くなった。母親が亡くなって半年過ぎたがいまだに生活のあちこちで母親の面影を感じる。亡くなったことがまだ信じられないくらいだ。 「これ、母上からもらったんだ」  エルヴィンはシャツの首元に身につけていた琥珀のブローチを狼獣人に見せる。 「形見分けって言うんだって。僕が一番高価なものをもらったんだよ。だから一生大事にするの」 「へぇ……よく似合ってる」 「ありがと!」  エルヴィンが微笑みかけると、狼獣人はハッとした顔をする。どうかしたのだろうか。 「明日の朝になれば、きっと雨がやむよ。それまでここにいよう」  エルヴィンは狼獣人に身を寄せる。湯たんぽ代わりにして申し訳ないが、狼獣人にくっついているととても温かかった。 「そうしよう」  狼獣人はエルヴィンを抱き寄せる。  そのままふたりはひんやりとした教会の石床の上に寝そべり、寄り添ったまま夜を明かした。    そんな、遠い遠い幼いころの記憶だ。  お互い名前も知らない、あのときの狼獣人は、今はどうしているだろうか。

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