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第五章 恋の鼓動と開く心12

***  幼馴染の智くんが体育祭に現れたことを親に言ったら、必然的に送り迎えをしてくれることになった。同じ高槻の学校に通っている姉ちゃんが俺に会わないように、智くんに注意してくれることにもつながった。  バタバタした週末からいつもの日常へ。重苦しい気持ちを抱える俺とは真逆の、初夏の晴れ間はまるで陽太の性格を表しているみたいな天気だった。 (陽太の気持ちを知ってしまった以上、今までどおりに接することはできない――)  教室に向かう廊下で、ふと足が重くなる。体育祭の来賓席で見た智くんの姿が、頭にチラつく。漆黒の髪が風に揺れ、ダークグレーの一重の瞳が俺を射るように見つめた。あの鋭い視線が、首筋の古傷をじくりと疼かせる。  それと陽太のキス――あの柔らかい唇の感触が、智くんの襲撃の恐怖と重なって、胸が締めつけられる。陽太のポカポカは好きなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう?  そんなことを考えながら教室に入ると、いつもの賑やかさが耳に届く。陽太の席はまだ空っぽなのに、クラスメイトが「西野のリレーの走り、マジで速かった。体育祭の優勝やばかったな!」と盛りあがってる。  俺には感じることのできない陽太のフェロモンが、クラスメイトをざわつかせている気がした。  微妙な心情を抱えて、誰とも挨拶を交わすことなく着席する。スクールバックから教科書類を取り出して机の中に入れ、日課になっている文庫本を読む。表紙の角が少し折れてるのを見ると、陽太の「これ、おもしろいよな!」って言って笑った顔が頭の中に浮かんだ。  でも智くんと一緒に図書室で本を読んだ幼馴染時代も、チラチラ脳裏を|過《よぎ》る。あの頃の智くんは、黒髪を耳にかけて笑っていたのに――今はあの鋭い瞳が怖い。文庫本を開く手が、ほんの少し震えた。  そんなことを考えていると、後ろの戸口から甲高い声が響いた。 「おはようございます! 陽太先輩は来てますか?」  教室の後ろ側の戸口から、下級生と思しき声が中にかけられた。 「西野委員長はまだ来てないよ」  戸口に一番近いクラスメイトが優しく答えるのを、文庫本を読むフリをしながら顔を振り向かせた。 (小柄な体型にパッと見、女子みたいな容姿をしているな。たぶん彼は、オメガなんだろう――) 「陽太先輩に用事があるので、中で待っていてもいいですか?」 「別にいいんじゃね。窓際で本を読んでいるヤツの後ろの席が、西野委員長の席だ」 「ありがとうございますぅ!」  きちんと礼を言った下級生は、靴音をたてて近づいてくる。喋ることもないだろうと、前を向いて文庫本に視線を落としたら。 「あ~! 二人三脚のとき、陽太先輩に抱きかかえられてた、ズルい先輩じゃん!」  とても大きな声で言い放った下級生。肩まで伸ばしたサラサラの黒髪が揺れ、大きな瞳が俺を見降ろす。 「コーンを回る瞬間に陽太先輩がズルい先輩を支えて、観客席がどよめいたんだから! 陽太先輩のいい匂いがするフェロモン、俺も近くで感じたかったのに、ズルい先輩が独り占めなんて!」  尖り声で下級生がまくしたてる。陽太のキラキラした笑顔と体育祭でのリーダーっぷりが、下級生の憧れを煽ったんだろうな。 「あの、ズルい先輩って……?」  あのときは来賓席にいる智くんを見つけて恐怖に震えてしまい、動きが止まっただけだったのにな。 「だってあのとき、コーンを回る大変なタイミングで、陽太先輩に抱きかかえられていたでしょ。まるで仲のいいところを、周りにアピールするみたいに見えたんだから」  俺とはまったく毛質の違うサラサラの黒髪を搔き上げながら、まつ毛の長い大きな瞳で射竦めるように、下級生から視線を飛ばされた。 「一條、それ以上はやめろって。月岡はあのとき、体調が悪くなっていたんだ」  教室にいたクラスメイトがフォローしてくれたけど、一條と呼ばれた下級生は納得していない表情を露わにする。 「体調が悪いのなら、代役をたてればよかったのに。わざと、陽太先輩の気を惹いてる感じだったじゃないですか」 「俺と陽太はそんな関係じゃない。安心してほしいな」  そう否定した瞬間、陽太の笑顔が頭を過る。体育祭で「悠真のがんばりのおかげ」と笑ったキラキラした瞳、保健室でポカポカをくれたあたたかい手。大変なことなのに、笑顔で中間テストで5位以内を目指すって言ってたっけ。  陽太のがんばりを思うと、胸がチクリと痛む。智くんの恐怖と陽太のキスがごちゃ混ぜになって、冷たくしちゃう自分がすごく嫌になった。 「月岡……先輩はオメガじゃないんですか?」 「俺はベタだから、陽太とどうこうなろうとは思っていない」 「よかった! じゃあ僕の邪魔をしないでくださいね」  俺のセリフを聞いた瞬間、一條くんは満面の笑みで返事をし、目の前から去って後ろの席に着席する音を聞いた。 「ここが陽太先輩が見る教室の景色か。早く来ないかなぁ」  先週までは俺がいつも思っている気持ちを、一條くんが告げる。陽太が読み進める本の話をしたくて、彼が来るのを待ちわびていた。だけど今は――。  手にした文庫本を机に置き、顔を俯かせる。あと数分したら、陽太が教室に現れるだろう。そのとき俺は、どんな態度をとればいいのかな。  友達だった先週とは違う、ただのクラスメイトとして接する仕方がわからなくて、後ろで独り言を呟く一條くんの楽しげな雰囲気とは正反対の自分の心の内を、延々と見つめるしかなかった。

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