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第五章 恋の鼓動と開く心14
***
廊下の喧騒がどんどん遠のいていく。榎本くんにお姫様抱っこされたまま、図書室まで来てしまった。
「月岡、図書室の鍵を持ってるでしょ? 話を聞いてあげるから開けてよ」
「榎本くん?」
「いつも笑ってる月岡の笑顔、今日は一回も見てない。西野委員長と、なにかあったんだろうなって」
優しさを帯びる榎本くんの言葉を聞きながら、図書室の扉の前に降ろされた。笑顔を見ていないと指摘されたので笑おうとしたのに、頬の筋肉が引きつって、どうしても笑うことができない。
「月岡、無理しなくていいって。ほら、早く鍵を開けなきゃ。時間がなくなっちゃう」
そう急かされたので、仕方なくスラックスのポケットから鍵を取り出し、扉を開錠した。そしてゆっくり引き戸を引いて中に入り、朝の図書室の空気を吸い込む。木の匂いと古い紙の香りが、苛立っていた心を沈ませた。
(やっぱり、ここの空気が一番好き。少しずつだけど落ち着いていくな――)
佇んだまま図書室の空気を吸い込む俺を追い越し、榎本くんは勝手に図書室の中に入り、椅子に腰かけた。俺は扉を開けっ放しにして、彼の向かい側の席に着く。
「月岡、西野委員長と喧嘩でもしたのか?」
榎本くんの第一声に、なんて答えたらいいのだろうか。
「ごめん。俺、今の自分の心の中がぐちゃぐちゃになっていて、どこから話をしたらいいのか考えがまとまらないんだ」
「あー、それわかる! 俺ってば涼のことになるとすぐそうなっちゃうから、突き詰められたときに話がまとまらなくて、涼にいつも怒られて凹むパターン!」
元気な返事を印象づけるように、曇り空から覗く陽の光が、榎本くんの明るい髪色を輝かせた。
「佐伯、恋人の榎本くんに容赦ないんだね」
「えへへ。だけどベッドの中では優しいんだ~」
くしゃりと破顔する彼の笑みにつられるように、俺もやっと笑うことができた。
「榎本くんはオメガだから、アルファの佐伯といても誰もなにも言われないよね」
「月岡は西野委員長と一緒にいて、誰かになにか言われたのか?」
瞳を瞬かせながら訊ねられたことに、ちょっとだけキョドりつつ口を開く。
「えっと、付き合っちゃえばって言われたことがあったんだけど、俺はベタでしょ。陽太は優秀なアルファなのに、そんなのダメだと思ってね」
オメガならアルファの陽太の隣にいてもいいのに、俺はフェロモンも感じることができず、さっきのように突き放すだけ。でも陽太のポカポカは、ベタの俺には特別なぬくもりだった。
そんなことを考えていると、榎本くんがテーブルに拳を打ちつけた。ドンッという鈍い音に、思わず体を竦ませる。
「おかしいよ、それ!」
「お、おかしい?」
「月岡は西野委員長のこと、んーと、友達というか人として好き? それとも嫌い?」
以前、俺が恋愛についてわからないと言ったセリフを覚えていたのか、榎本くんは答えやすい質問を投げかけてくれた。
「陽太のことはそうだね、嫌いじゃない。俺にはもったいない友達だって思う」
不意に、陽太の笑顔が胸を過る。保健室でポカポカをくれたあたたかい手、貸した本を握りながら「テストで5位以内、絶対取る!」って告げたときのキラキラした瞳。あのがんばりが俺のためだってわかってるのに、陽太の悲しそうな瞳を思い出すと、胸がズキズキ痛む。
彼を「好き」と言えないのは陽太のポカポカが俺にとって、特別すぎるからかもしれない――。
「嫌いじゃないということは、好きじゃないのか?」
「俺、安易に好きという言葉を使いたくないんだ。誤解されたくないし」
俯いて答えた俺に、榎本くんは声を大にして返事をする。
「俺は逆に、たくさん好きって言っちゃう。嫌いだって誤解されたくないから」
「確かに。佐伯に誤解されたくないもんね。好きだから、誤解されたくない、か……」
しんみり呟いた言葉を、朝の予鈴がかき消すように時刻を知らせる。
「月岡、大丈夫?」
「うん。榎本くんと喋ったら、少しだけ落ち着けた。ありがとう」
椅子から腰をあげて頭を下げたら、榎本くんは慌てて立ち上がり、俺の肩を掴んで頭を無理やり上げさせる。
「俺、たいしたことしてないのに、いちいち頭を下げなくていいから! 報酬は涼から徴収するんだしさ」
「それなら俺も佐伯に、お礼を言わなきゃならないね」
ふたりで顔を見合せながらクスクス笑って、一緒に教室に戻る。榎本くんのおかげで、マイナスなメンタルが癒されたのは、本当に助かった。
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