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第五章 恋の鼓動と開く心42
***
放課後、最後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に緩む。まばらになった席――誰かが立てた椅子の音や、笑い声が背中越しに遠ざかっていく中で、俺はまだ席に残っていた。教科書をしまいながらも、手が何度か止まる。
ずっと、陽太の姿を目で追ってしまう自分がいた。だけど今日は、彼のほうから視線を合わせてこない。
(今朝のやり取りで、陽太のことを傷つけてしまったんだ――)
陽太はいつもみたいに、冗談めかした態度じゃなかった。本気で悲しそうな顔をしていた。あのとき自分が言った何気ない一言が、どれだけ彼の心を冷たくさせたのか――ようやく実感として胸に落ちてきた。
心の中で名前を呼ぶ。呼び止められなかった背中を思い出す。あのとき、なにかひとつでも言葉を返せていたら――そう思っても、時間は巻き戻らない。
教室を出ると、廊下はもうほとんど人がいなかった。急ぐように階段を下りて、校門のほうへ歩く。いつもならこのまま駅に向かうはずなのに、今日はなぜか足が止まった。
(もしかしたら、まだ……)
夕焼けに照らされた中庭。ベンチにひとり座っている人影が見える。
陽太だった。半袖の裾をわずかに風になびかせながら、俯いてスマホの画面を見つめている。指先が動いていないところを見ると、なにかを読むだけで返事はしていないようだった。
俺の存在に気づいていないことに安心しつつ、でも近づいていきたい気持ちがじわじわと胸に広がっていく。
(――今度こそ、ちゃんと話がしたい。しなきゃダメなんだ!)
そう思った瞬間、気づけば歩き出していた。心臓の音がすごくうるさい。まるで走ってきたあとのような、早鐘が胸に響く。
「……よ、陽太っ」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げて振り向いた。驚いたように目を瞬かせてから、少しだけ眉を下げる。
「どうした、帰ったんじゃなかったのか」
いつもより低い声。気持ちを隠しているのがよくわかる。きっと俺のせいだ。
「俺……今朝のこと、ちゃんと謝りたくて」
「謝るようなこと、悠真はしてない……俺が勝手に期待して、勝手に落ち込んだだけだって」
それでも、陽太は目を逸らした。でもこのまま逃げたくない。もう陽太を置いて、背中を向けちゃいけないんだ。
「俺ね陽太の言葉を、素直に嬉しいって思った。でもあのとき、うまく言えなかっただけで」
陽太の表情が、少しだけ揺れる。俺は勇気を振り絞って、言葉を続けた。
「今もまだ、ちゃんとした気持ちはわからない。でも陽太といると苦しくなるくらい、なにかが胸の中に確かにあって……それがたぶん”恋”ってやつなのかなって、思いはじめてる」
風が吹いた。校庭の木々が一気にざわめく。その音の中で、陽太が静かに立ち上がった。
「今の、録音していいか?」
「だめ……」
「だよな。俺だけの宝物にしとくわ」
くしゃりと笑った陽太の顔を見て、ようやく俺も笑えた気がした。
鼓動がまだ落ち着かない。でもそれはもう、不安からじゃなかった。ほんの少しだけ開いた心の扉の隙間から、光のようにあたたかい気持ちがこぼれていくのを感じていた。
***
「だよな。俺だけの宝物にしとくわ」
悠真を目の前にして笑いながら告げた言葉は、まぎれもない俺の本心だった。
“恋ってやつなのかな”――頬を真っ赤に染めた悠真がそう言ってくれた。それは、ずっとずっと待ち望んでいたはずの瞬間になる。なのに、胸の奥に不思議なざわめきが残った。
ようやく届いた想いのかけら。それは確かにあたたかくて、心にふんわりと落ちてきた。
けれど同時に、どこかふわふわしていて――地面に足がつかないような心許なさがあった。
(俺はちゃんと“もらった”んだよな……)
そんな問いが、小さく心の隅で囁く。
確かに悠真は、自分の言葉で気持ちを伝えてくれた。震えながら、それでも目を逸らさずに俺だけを見てくれた。その勇気がどれほどのものだったか、俺には痛いほどわかってる。
それでも、もしも欲を言えるなら。もう一歩だけ、踏み込んだ言葉が欲しかったのかもしれない。
たとえば「好きだ」とか「陽太のことを考えてしまう」とか。そんな、わかりやすくて曖昧じゃない、“好き”の輪郭をはっきりと伝える言葉たち。
(……こんなことを考える俺、最低だな)
悠真なりのペースで、必死に前を向こうとしているのに。それだけでも充分嬉しいはずなのに、心のどこかで「もっと」と願ってしまう。
こんな自分が、悠真の気持ちに触れる資格なんてあるのか――そんなことまで、つい考えてしまう。
はあ、と小さく息をついた。
誰もいなくなった校庭のベンチで、ぼんやりと夕焼け空を仰ぐ。日が暮れかけていて、紫とオレンジがまざり合った空が、少しだけ心を宥めてくれた。
今日の夕空は、やけに綺麗だ。部活をサボって、正解だったのかもしれない。ふと、あの夜――函館山の夜景を思い出す。
目の前に広がる光の海。手の中にあった、細くてあたたかい指先。あのときの悠真の震えは、言葉じゃなくてもちゃんと伝わってきた。
――たぶん、あれが“本当の悠真”だった。気取らず、繕わず、ただまっすぐ俺と向き合ってくれた。
(……なぁ悠真。俺、おまえのことをちゃんと見てるよ)
心の中でそっと呟いて、スマホのロックを開く。そこには、函館でこっそり撮った夜景の写真がある。少しピントがズレたそれは、正直いってあまり上手な写真じゃない。けれどその右端には、見切れた悠真の手が映ってる。
――俺が初めて「悠真が愛おしい」と確信した瞬間の証拠みたいな一枚。
「よし……信じてみるか」
小さく呟き、自分の胸にそっと手を置く。
不安はまだ残っている。手応えも、少しぼんやりしている。けれどそれ以上に、ちゃんと“響いている”鼓動がここにある。
悠真の一歩を信じよう。またどこかで立ち止まってしまっても、俺は何度でも悠真の手を取りにいけばいい。今の俺なら、きっとそれができる気がするから。
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