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第五章 恋の鼓動と開く心41

***  陽太の背中が、教室の扉の向こう側に消えていった瞬間、手を伸ばすことも名前を呼び止めることもできなかった。  胸の奥が、じくじくと鈍く痛む。さっきまで確かにあたたかかった陽太の手の感触が、まだ手のひらに残っている。あんなにまっすぐに想いを向けてくれているのに、どうして俺は素直に応えられないんだろう。  恋なんて知らない。誰かに好かれることも誰かを好きになることも、自分には縁のない話だと思っていた。でも陽太と一緒にいると、心の奥のほうがじわっとあたたかくなって、ひとりのときに思い出してしまう瞬間がいくつもある。 (――俺は本当に、なにも感じていないのかな)  陽太が言ってくれた言葉が、今さらになって胸を打つ。バース性なんてオマケみたいなものだって、柔らかく笑った。俺がベタであることも余すところなく肯定するように、そっと包んでくれた。  あれは、陽太の持つ優しさだけじゃない。俺に向けられていたのは、ちゃんと恋をしてる人の目だった。  そんな思いが浮かんできた自分に気づいて、ふっと息をはいた。いつの間にか、文庫本を伏せていた机の上。小さなカールのある髪が、頬に触れている。手櫛でそれを整えながら、そっと視線を上げた。  陽太の姿はもうないけれど、教室の外からはざわつく声が聞こえて、いつもの日常が続いている。でも俺の中には、静かな変化が生まれた。  少しだけ、心の扉が軋んだ音を立てて開いた気がした。それには、あることがキッカケになっている。  修学旅行の最終日、陽太と過ごしたあの日の夜。函館の空は、東京よりずっと高く感じた。ロープウェイの窓から見下ろす夜景は、言葉を失うほど美しくて、まるで街全体が星の海みたいに見えたっけ。 「すげぇな……」と陽太が隣で声を漏らしたとき、俺は彼の横顔に目を奪われた。  展望台に着いたときも人の多さに少し戸惑ったけれど、陽太は人波の隙間をぬって、ちょうど柵のそばにある静かなスペースを見つけてくれた。肩が触れ合うほどの距離で並び、俺たちは黙って夜の海と光の街を見つめた。  冷たい風が吹き抜けたとき、陽太がそっと声を落とす。 「手、つないでもいい?」  一瞬、心臓が大きく跳ねた。なにかを問われたというよりも、たぶん俺自身に試された気がした。戸惑いながらも答える前に、俺は自分から陽太の手を探していた。  つないだ手が少しだけ汗ばんでいることで、緊張してたのは俺だけじゃないのがわかった。それなのに陽太の手はしっかりと優しく、でも頼もしく握り返してくれた。  誰かと手をつなぐことが、こんなにも温かいなんて思わなかった。寒さではなく、内側からなにかがあふれてくるような感覚に、俺はただ黙って彼の手を握った。 「なぁ悠真、こうしてるの変かな?」  小さな声だったけど、耳元に落ちてきた陽太のその言葉に、俺は首を横に振った。本当は、返事なんてできなかった。ただつないだ手を、そっと強く握り返すことしかできなかった。  そのとき、俺はまだ「好き」と言えなかった。でも、“なにか”が確かに、胸の奥で脈打っていた。まるで、恋が目を覚ましたみたいに――。  あの夜の記憶が胸に灯ると少しだけ温かくなって、それと同時にほんの少しだけ痛む。きっと俺がまだ陽太の気持ちに、正面から向き合えていないから。  教室の窓から見える青空は、函館の空とは違って低く感じる。でも陽太の声は、どこにいても変わらず俺の胸を揺らした。 「悠真、俺はなにを言われても諦めないから!」  さっきの陽太の言葉が、まだ耳に残っている。気づかないふりをして、本に目を落としたけど、本当は文字なんてまったく頭に入ってこなかった。  陽太は、いつも真っ直ぐだ。俺が曖昧な態度を取っても言葉を濁しても、まったくぐらつかない。あの夜、そっとつないだ手も、今日俺の手を包んだぬくもりも全部――まるでそれは、陽太そのものだった。 (どうしてあのとき陽太に好きだって、俺は言えなかったんだろう)  自分でもよくわかってる。誰かに強く求められることが、すごく怖かった。その気持ちに応えられなかったら、間違いなく陽太を傷つけてしまう。そんなふうに思い込んで、いつも逃げてきた。  でも――。 「変わらないままでもいいって言ってくれたんだ、陽太は……」  小さく、声に出してみた。優しさを感じさせるその言葉に、ほんの少しだけ勇気をもらう。変われない自分を責めるよりも、今の自分を見つめよう。怖がって俯いて、それでも――手を握り返したあの夜のことは、きっと本当だった。 (――そのことを陽太に、ちゃんと伝えたい)  教室のドアの向こうから、誰かの足音が近づいてくる。もしかしたら、もう一度陽太が戻ってくるかもしれない。そう思うだけで、また胸が高鳴る。  恋の鼓動が俺の中で静かに、でも確かに響いていた。

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