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第六章 恋のはじまりと揺れる未来16

***  昼間の部活より、帰り道の沈黙の方がずっと疲れを残していた。ベッドに寝転がったまま、ぼーっと天井を見つめる。 (……なんでだよ。悠真、俺と一緒にいたくないわけじゃないって言ってたのに)  頭ではわかってる。悠真は優しいから、俺のことを思って距離を置こうとしてる。父さんに叱られたことも、きっと気にしてるんだ。  でも、気にしてるのはそれだけじゃない。俺のことを想ってくれてるからこそ、苦しそうな顔をしてた。  胸の奥がじわじわ熱くなって、拳をぎゅっと握る。 (俺、悠真にもっと笑っててほしいのに。俺といるだけで、苦しいって思わせてるのか?)  考えれば考えるほど、胸の中がざわついて眠れなかった。枕に顔を埋めても、思い出すのは悠真の少し硬い笑顔。手を伸ばしたかったのに、伸ばせなかった距離。  汗ばんだ手のひらを強く握りしめる。そこに、悠真の指の温もりを探してしまう。繋いだはずの手は、もうどこにもない。 (……もし悠真が、このまま俺から離れていったら?)  想像しただけで、息が止まりそうになった。胸の奥で渦を巻く切なさに、抗えなかった。  ――結局、俺は悠真を求めずにはいられない。 ***  目を瞑ると、優しさに満ち溢れた陽太の笑顔が浮かぶ。スマホを握ったまま、ベッドにうつぶせになった。昼間の陽太の笑顔も、帰り道の不安そうな横顔も、どっちも鮮やかに焼きついて離れない。 (俺のはっきりしない態度……やっぱり、陽太を困らせてるよね)  本当はもっと触れてほしい。キスしたい。抱きしめてほしい。この間の唇の感覚が、まだ唇の奥に残っている。あの温もりを思い出すたびに、胸が熱くなってしまう。でもそれを望めば、陽太がまた叱られて苦しい顔をする。  だから「距離を置こう」って言いたかったのに――結局言えなかった。胸の奥で理性と欲求がぶつかり合って、すごく息苦しい。 (陽太にとって俺は……負担になってる? それとも、ちゃんと必要とされてる?)  スマホの画面を開いては閉じて、メッセージを書いては消して。そんなことを何度も繰り返す。  打ちかけた「ごめん」も「会いたい」も「好き」も――どれも結局送れなかった。枕に顔を埋めたまま、胸がぎゅっと痛む。 (陽太を困らせるくらいなら、言わない方がいいのに。それでも俺は、こんなにも求めてしまう)  ――結局、俺は陽太を求めずにいられない。 ***  朝の空気はむし暑くて、全然爽やかじゃない。ここ数日の寝不足のせいで、体もかなり重い。けれど胸の奥で一番重いのは、昨日の悠真の横顔だった。 (このまま俺がなにも言わなかったら、悠真が離れていっちまう……)  その想像だけで、心臓が嫌な音を立てる。恐怖が喉を塞いで息苦しくなる。悠真を失うなんて、絶対に嫌だ。  迷うより先に、俺はスマホを掴んでいた。 『悠真、今日の午後……会えないか?』  送信ボタンを押す瞬間、心臓がどくんと跳ねる。ほんの数分の返信待ちが、永遠に感じられた。  やがて震えたスマホを開くと、悠真から短い返信。 『うん、いいよ』  たったそれだけ。いつもより短くて、悠真の感情が読み取れない。だけど、会えることに変わりはない。 ***  駅前に悠真の姿を見つけた。いつもの穏やかな顔じゃない。少し硬い表情で、俺を見てわずかに笑ったあと、すぐに視線を逸らす。それだけで胸がきゅっと痛んだ。 「悠真!」  名前を呼んで俺から駆け寄ったのに、悠真は僅かに笑っただけで視線を逸らす。昨日から続いているよそよそしさが、また俺を不安にさせる。  俺は深呼吸して、勇気を振り絞った。 「悠真、昨日からずっと様子がおかしいよな。なんでだよ? 俺、悠真に嫌われるようなことをしたのか?」  思わず言葉が溢れていた。怖くても、誤魔化すことなんてできなかった。  悠真は驚いたように目を見開いて、きゅっと唇を引き結ぶ。まるで言いたいことを飲み込むみたいに、俺の目に映った。 「悠真――」 「……嫌いなわけない。むしろ逆。でも陽太が困るなら、俺が我慢したほうがいいのかなって」 「困る? 俺が?」  思わず強く返していた。 「俺は悠真といると楽しいし、元気になるし……だから困るどころか、もっと一緒にいたいんだ」  まっすぐに言い切ると、悠真の肩が小さく震えた。目の前にあるその瞳は、ほんの少し潤んでいて――俺の胸に強く刺さった。 (この顔……やっぱり、悠真も同じ気持ちなんだ)  込み上げてくる安堵と切なさを抱えながら、俺は悠真の手をそっと握りしめる。人の多い駅前で立ち止まっているのが苦しくて、俺は思わず言った。 「悠真、ちょっと歩かない?」  悠真は一瞬驚いたように俺を見て、それから小さく頷いた。  人通りの少ない路地を抜けて、川沿いの公園に出る。蝉の声がやかましいくらいに響き渡り、ここには俺たち以外誰もいない。  ベンチに並んで座ると風が少し涼しくて、心臓の鼓動がようやく落ち着いてきた。ふたりきりだというのに、隣にいる悠真の横顔はまだ硬いままだった。 「悠真……」  名前を呼びながら、悠真に手を伸ばす。そっと握った指先は、ほんの少し冷たかった。 「昨日も今日も、なんかよそよそしいから……俺、すげぇ不安になった」  そう打ち明けると、悠真は目を伏せたまま、いつもより低い声で告げる。 「俺が陽太と一緒にいると、陽太が困るんじゃないかって。お父さんに叱られるのも見ちゃったし……」 「それでも俺は、悠真と一緒にいたい」  遮るように言った。驚いた顔をする悠真をまっすぐに見つめる。 「父さんに叱られるのが怖いとか、そういうんじゃない。悠真と一緒にいる時間のほうが、俺にとっては何倍も大事なんだ」  喉が詰まる。だけど、ちゃんと伝えなきゃいけない気がした。 「だから嫌な思いをするくらいなら、距離を置こうなんて考えないでほしい。俺は、悠真と会えるのが嬉しいんだ」  胸の奥から搾り出すように渦巻いていた気持ちを告げると、悠真の瞳が大きく揺れた。 「……俺だって、陽太に触れたい。もっと一緒にいたい」  小さな声でこぼれたその言葉に、胸が熱くなる。 「じゃあ、遠慮すんなよ」  囁くように言って、俺は悠真の手をぎゅっと握りしめた。そのまま、ほんの少し身を寄せる。目の前で揺れる睫毛。ためらうような息遣い。距離が一気に縮まって、俺の唇は自然と悠真の唇に触れていた。  短いキスだった。でも、昨日までの不安が嘘みたいに消えていく。顔を離すと、悠真が赤くなった頬で小さく笑っていた。 「やっぱり、こうしてるのが一番落ち着く」 「俺も」  それ以上言葉はいらなかった。指先を絡めて、互いの温もりを確かめ合う。  蝉の声も、遠くの車の音も、もうどうでもよかった。この夏の午後、俺たちはようやくまた、同じ気持ちを確かめられた。

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