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夜の帳が降りた後

 ぱちっ、しゅわしゅわ、きゅん。  胸の奥でそんな音が鳴る。  夏の暑い日にキンキンに冷えたサイダーのペットボトルを開けたときのことを思い出した。  ◇◇  深夜のコンビニバイトはしんどいと思うことは少ないけれど、かといって楽しいと思うこともあまりない。やりがいなんて、もっとない。  そもそもお客さんなんてあまり来ないし、ぼーっとして時間を潰しているのが大半。  学生にしては時給がいいし、ただなんとなく惰性で続けているだけ。明日から来なくていいよって言われたら、素直に「はい、わかりました」って答えちゃうレベル。  何かが起きるなんて期待していないし、大学・家・コンビニのトライアングルを行き来する毎日に何の不満もなかった。  だって、ベータだから。  生まれ持ったカリスマ性で注目を浴びるアルファや、誰もが虜になる儚くて美しいオメガとは違う。    何の才能も持たない、ありふれた人間の中のひとり。トロッコ問題で選ばれない側の人間。それが二十一年間ずっと、平凡街道を歩き続けてきた春崎陽という人間だ。  アルファに対する憧れなんてとうの昔に捨ててしまった。「平凡」という言葉がよく似合う人生を送ってきたのだから諦めるのもしかたないとすら思う。いくら努力したって天性の才能には敵わないのだから。  だから、自分がベータだということに納得しているし、これからだって目立たないように日陰の中で生きていくのだ。陽の人生はスポットライトを浴びることなく、人知れず幕を閉じる。  ――そう決まっていると思っていた。  あの日、突然星が降ってくるまでは。  ◇◇  時刻は零時を過ぎた頃。ここからのシフトは僕ひとりだけ。今日も今日とて暇だなぁと時計を眺めていれば、珍しく入店音が店内に鳴り響く。レジからやる気のない「いらっしゃいませ~」で気持ちばかりのお出迎え。    ホワイトブロンドの派手な髪を肩まで伸ばし、キャップを目深に被った背の高い男。らこちらを見ようともせず、そそくさとお酒のコーナーに足を進める。  数分と経たないうちにレジにやってきた男は、ガコンと荒っぽく缶ビールを二本、僕の前に置いた。  なんかキレてる?  そう思うけれど、マスクで顔の半分以上が覆われているから、彼が怒っているのかすら分からなかった。  着けている時計や取り出した財布がギラギラしている。ブランドに詳しくない僕でも高級だって分かる。きっとこの人はアルファなのだろうと推測できた。  だけどあまりじろじろ見るのもよくないなと思って、缶ビールをスキャンすることに集中した。  時期的に花粉症なのだろうか、彼がすんと鼻を啜る。一度では治まらず、続けてすんすんと何かを確認するように。  カードを取り出そうとしていた動きを止めた男は、一瞬固まった後、キャップの鍔を持ち上げた。  まるでスローモーション。  隠されていたぱっちり猫目が僕を射抜く。  その瞬間、何かが弾ける音がした。  ――この人を僕はずっと待っていた。  たんぽぽの綿毛がふよふよと漂うみたいに心が踊る。穏やかなそれは心地良くて、春の陽気に誘われてぽかぽかと暖かい。ずっとこのままがいい、そう思ってしまうほど。  彼も僕と同じように感じたのだろうか。  驚いたように目を見張った男は、手に持っていた財布をぽろっと落とす。ちゃんと閉じられていたそれから小銭が溢れてあわや大惨事、なんていうことは免れた。  ――高そうな財布なんだから早く拾わないと。  そちらに意識が持っていかれた僕を引き戻すように、「俺を見ろ」と言わんばかりに彼が僕の手を掴む。ぎゅうっと力が込められて、痛いぐらいだ。それなのに胸の奥はきゅんと鳴いて、触れられたことに喜びを隠せない。  そしてふたりだけの秘密を共有するように、男は甘い声で囁いた。  「きみはオメガ?」  サッと血の気が引いた。  初対面の人に第二の性を聞くのは失礼だって、もう大人なのだからよく知っているはずなのに、どうしても聞かずにはいられなかったらしい。  お前はオメガなのだろう?  答えを聞く前に男の瞳がそう言っていた。サンタクロースを待つ子どものように、ワクワクと目を輝かせて。  番探しでもしているのだろうか。  そう思いついた途端に、心臓がぎゅうっと掴まれたみたいに酷く傷んだ。  春から冬に逆戻りしてしまったかのように、びゅうびゅうと冷たい風が胸の中を通り過ぎていく。  「……僕は、ベータです」  「え、まさかそんな。だってこんなに、」  「すみません、お客様。お会計を」  狼狽える男が身を乗り出す。首筋に顔を近づけてこようとするのを避けて、掴まれていない方の手で離れるようにそっと体を押した。  これ以上話を続けられないよう、強くはないけれどきっぱりとした口調で会計をするように告げる。彼はじいっと僕の瞳を見つめた後、渋々僕から手を離し、財布を拾って黒いカードを手渡した。  ~♪  カードを機械に読み込んでいると、スマホが騒ぎ出して店内を賑やかにする。不機嫌に目を細めた彼は画面を確認すると、こちらにも聞こえるほど大きなため息を吐き出して画面をタップした。  「はい……うん、分かってる……はいはい……」  さっき聞いた声とは全然違う、地を這うような低い声。怒っていますと声に書いてあった。  そんな彼に気が引けながらも控えめにカードとレシートを差し出せば、小さく会釈してそれを受け取ってくれた。  通話を繋げたまま、缶ビールを鞄にしまう姿を観察していれば、スマホを耳からぱっと離した男が僕の瞳をまっすぐに見つめて言う。  「……また来ます」  その言葉に何故か凍てついていた心がじんわりと溶ける。表情を弛めた僕を確認した彼はウインクを飛ばして足早に去っていく。その姿はとても様になっていて、アイドルみたいだった。  退屈だったバイトにとんでもない嵐がやってきた。ぽかんと開いた口が塞がらない。  まるでお星さまが落ちてきたみたいな、そんな衝撃。ホットチョコレートのように甘くて落ち着く声が耳に残っている。  僕は目と目が合ったあの瞬間を思い出して頬を弛めながら、身体の奥からしゅわしゅわと何かが湧き上がってくるのを感じていた。  ……うーん。  どこかで見たことあるような気がするんだよなぁ。あの甘い声だって、最近聞いたような気もする。それも一度きりじゃなくて、何度も。  喉元まで浮かんできている気がするのに、答えはなかなか見つからなくてモヤモヤしてしまう。うんうんと考えながら、僕はゴミ出しをしに外に出た。  どうして自分がそこまでして正解に辿りつこうとしているか分からないけれど、ただ彼が何者なのかを知っておく必要があると思った。  慣れた作業だ。ぱっと手早く済ませて中に戻ろうとしたところで、窓にずらっと貼られたポスターが目に入った。予約受付中の文字が大きく目立つ。コンセプトも世界観も異なるアーティストたちのジャケット写真が集うこの場所は、まるで展覧会。  そろそろ剥がさないといけないものもあるなぁと順番に目で追って、最後の一枚の前でぴたりと足が止まった。  「……あ、」  思わず、気の抜けた声が漏れる。  彼は入口に最も近いそこに鎮座していた。  思っていたよりもずっとすぐそばにいたのだ。  ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸が綺麗に解けたような爽快感。答えが見つかってスッキリする。    ヒントは目元だけ。だけどそれでも分かる。本能がこのひとだと告げている。  あんなにバレないように変装していたのに、素顔も名前もこんなに簡単に分かってしまうのがすこしだけおかしくて、かわいいと思った。  ――sui。  芸歴十年、この国で知らない者はいないと言われるほどの国民的人気を誇るトップアイドル。年齢も性別も関係なく、彼を知った誰もが虜になってしまう。  見るものを惹き付けて離さない圧倒的カリスマ性と、抜群のビジュアルで一気にスターダムに伸し上がった。芸能人に疎い僕でも知っている、名の知れた有名人。  「きれい……」  星空の下、ロングコートを身に纏って湖畔に佇む男。ハーフアップに束ねたホワイトブロンドの髪が夜に映えて、シンプルなジャケット写真なのに滲み出るオーラがある。一度見たら忘れない、それがsuiという男。  表題曲のタイトルである「stargazer」と「sui」の文字が、カリグラフィーで控えめに書かれている。皮肉な曲名だと思う。星の煌めきさえも、自分を輝かせるための道具にしてしまうのだから。世界の主人公は彼だと思わせてしまうほどに、きらきらと光り輝いていた。  視線ひとつで人を惹き付けてしまう。流石、老若男女に愛されるトップアイドル様は格が違う。  この人はアルファに違いない。  誰が見てもはっきりと分かる。僕のようなベータからしてみれば天上の人だ。住む世界も見ている景色も歩んできた過去も、何もかもが違う。  芸能人なんて滅多にお目にかかれない。  今夜はラッキーだったと思い出に変えてしまえばいい。また来ます、アイドルのそんな甘い嘘を信じられるほど僕は素直じゃなかった。  それでも退屈な日常がほんの少し彩られた気がして、僕は余韻に浸りながら店内に戻る。  その瞬間、ふわりと彼の残り香が鼻腔を擽った。柑橘系を感じさせる爽やかなサイダーのような、ずっと嗅いでいたい香り。  さっきはそこまできつい香水をつけているとは感じなかったけれど、高級なものはこんな風に匂いが残るのかもしれない。  僕には縁がないものだからその辺はよくわからないけど、別に不快な香りではない。彼がここにいたと証明しているみたいで、この香りに包まれていることが正直嬉しかった。  じんわりと絶えず湧き上がってくる感情の正体が掴めない。  あったかくて優しくて、愛おしい。ふわふわとした気持ちは落ち着くことがなくて、ぽーっと熱に浮かされたように全く仕事に身が入らないまま、気がつけば勤務終了の時刻になっていた。  いつもは不健康な体を責めるように遠慮なく痛めつけてくる不快な太陽も、今日ばかりは清々しい気分で迎えられる。柔らかな日差しが眩しくて、生きているというのはこんなにも素晴らしいことなのかと実感する。  帰宅後、シャワーを浴びてベッドに転がり込んでも、あの甘い熱を孕んだ眼差しが忘れられない。小さな火種がじんわりと心の中に宿るのを感じた。  もし、あの言葉が本気だったらどうしよう。  明日、明後日はシフトが入っていない。その間に来店してしまって、飽きられてしまったら……。そう思うと、絶望で胸が張り裂けそうになった。  相手は芸能人。期待なんてしたくない。もし叶わなかったら必要以上に傷ついて、悲しみに溺れてしまうから。  もっと男らしく、どんと構えられるひとになりたかった。腕で顔を覆って、ないものねだりをしてしまう。全てを吐き出すように大きく息を吐いて、一番に浮かんできたものはひとつ。  ――会いたい。  それはあまりにもシンプルな答えだった。    目と目を合わせて、香りを確かめて、そして彼に触れられたい。そんなことを考えている自分が恥ずかしいのに、その答えは変わらなかった。  それから二日挟んだ次の出勤日、僕はいつもより念入りに髪をセットしてコンビニに赴いた。平凡なことを理解しているからこそ、少しでもマシな姿で彼に会いたかった。  普段は重たい足取りも、今日ばかりはスキップでもしているかのように軽やかだった。  淡々と決められたルーティンをこなすけれど、彼が訪れる気配はない。ただ時間ばかりが過ぎていく。  時計を何度も確かめては、数分しか経っていない事実にため息を吐く。小さな石ころが胃の中に溜まっていくような感覚が不快だった。  そして結局、その日suiがコンビニに来ることはなかった。  当然だ、この国で一番売れているアイドルはそこまで暇じゃない。そう自分を慰めるけれど、心の奥はしくしくと泣いていた。  それから二週間経ったけれど何かが起きることもなく、また平凡な毎日に元通り。あの日が特別な夜だっただけで、もともと僕が進むべき人生はこんなもんだって思ったら納得できた。  もう期待することは諦めてしまった。半ば拗ねた子どものように、僕は夢見ることをやめてしまったのだ。  なんとなくいつもより早く家を出て、大学に向かう前にコンビニに寄って店内を物色していれば、流れていた流行りの音楽から店内放送に切り替わる。  「皆さんこんにちは、suiです」  落ち着いた声が誰のものか分かった瞬間、ハッとして固まってしまう。  前に聞いたものとは少し違う、余所行きの声。新作のお菓子に伸ばしかけた手を止めて、聞こえてくる彼の声だけに集中していた。  「この度、記念すべき三十枚目のシングル『stargazer』が五月四日に発売することになりました。いつも応援してくださる皆さんに向けた、僕なりのラブソングです。店頭でもご予約受付中! よかったらたくさん聴いてください。以上、suiでした」  たったの一分にも満たないあっという間の放送。けれど、suiが僕の心を奪うには十分すぎる時間だった。  「はぁ~~」  なんだか力が抜けて、へなへなとその場にしゃがみこむ。顔が熱い。  おかしいな、ファンになっちゃったのかも。ぐと唇を噛み締めて、僕は葛藤しながらレジに向かう。  「すみません、suiのCDを予約したいんですけど……」  バイト先じゃなくてよかった。  そんなことを思いながら、知らない店員さんに向かってそう言っていた。  ◇◇  その日の夜、無気力に掃除をしていればうるさいぐらいに入店音が鳴り響く。顔も上げずにお決まりの文句を口に出せば、慌てたような足音がどんどん近づいてきた。  ……ん? トイレか?  それとも何か聞きたいことでもあるのかなと顔を上げてびっくり。待ち侘びて、焦がれて、でももう来ないのだろうと諦めたひとがそこに立っていた。  「やっと会えた……」  よかったと、ホッとしたように笑う彼から目が離せない。  その視線に気づいたsuiが邪魔だと言わんばかりに帽子を取った。肩まで伸びた髪がさらりと揺れる。  じいっと胸の辺りを見つめた彼は、にいっと口角を上げた。  「春崎(はるさき)くん、君に会いに来たよ」  恥ずかしげもなく言われた言葉は、まるでドラマの台詞みたい。  ストレートな物言いと名前を呼ばれて、どくんと血が沸き立った。  ああ、名札を確認していたのかと心の中では冷静に察するけれど、スターを前に何を話せばいいのか分からなかった。    一番星のようにきらきらが止まらない。  彼を囲うようにして星でも散りばめられているのかっていうぐらい、全てが輝いて見える。オーラって目に見えるものなんだ、そう実感したのはこの時が初めてだった。  ぱちぱちと瞬きを繰り返していれば、suiは表情を弛める。あまりにも無防備で柔らかな顔をするものだから、警戒心なんてどこかに消えてしまう。  「春崎くんの下の名前は?」  「……えと、陽(よう)です」  「陽……、いい名前だね」  自身に馴染ませるように反芻される名前。  生まれたときから一緒だったそれがなんだか特別なものに思えてくる。  僕の名前を何度も繰り返すsuiをじいっと見つめれば、その造形の美しさに惚れ惚れしてしまう。すっと伸びる睫毛が猫目を特徴づけて、透き通るような白い肌は自ら発光していると思わせるほど。  どれだけ見ても飽きないな。  遠慮なく見つめていれば、それに気づいたsuiが首を傾げる。そんな仕草までナチュラルで魅力的に見えるのだから、芸能人というものは人種が違うのだと腑に落ちた。  「ああ、俺の名前言ってなかったね」  「…………」  いや知ってますよ。  そう言い出せる空気ではなくて、僕は黙りこくることしかできなかった。  「深山翠(みやますい)です、ずっと来れなくてごめん」  「え、あ、いや、大丈夫です……」  世間一般には公表されていない名前を簡単に口に出す彼にどきまぎする。  そりゃあ芸名を名乗られても反応に困るけど、本名を知ってしまうのはもっと狼狽えるに決まっているだろう。  吃りながら首を振れば、sui、改め深山さんはホッと息を吐いて胸を撫で下ろした。  「忘れられてなくてよかった」  「……正直、もう来ないと思ってました」  「それはごめん、でも俺のことを待っててくれたんだね」  「…………」  墓穴を掘って黙り込む僕、悪戯に微笑む彼。  期待するなと言い聞かせていたのは、傷つきたくないから。自己愛が強い弱虫のおまじない。     世界中の人が彼の虜だっていうのに、そんな人が僕だけに笑いかけている。  ふたりだけの時間、今この瞬間だけはトップアイドル・suiも僕のもの。……なんてありえないことを考えて、ないないと自嘲する。傲慢にも程がある。恨みを買って、ファンに刺されてもおかしくない。  話していると、どうして人気なのかがよく分かる。ころころ変わる表情に夢中になってしまう。惹き付けられて目が離せない。  アルファの中でも上位に君臨しているはずなのに、そんな雰囲気を微塵も感じさせない。  これまで数人のアルファに出会ったことはあるけれど彼のようにフレンドリーじゃなかったし、プライドが高くてアルファ以外の人間を見下していた。  それが普通のアルファだと思っていたから、僕は彼の特別だって錯覚してしまう。僕自身が偉くなったわけでもなんでもないのに、馬鹿だなぁ。  自分が小さく思えて嫌悪感は募るけど、彼の世界の一部になることに対する高揚感が上回る。モブキャラ以下の存在から村人Aにランクアップした気分だ。  「実は仕事が忙しくて、なかなか時間が取れなかったんだ……。今日はたまたま早く帰れてよかったよ」  CDのリリース日が迫っているから、その宣伝のために収録や撮影でスケジュールが埋まっているのだろう。少し疲れた色が滲んでいるのも頷けた。  早く帰れたと言っているけれど、既に日付は変わってしまっている。シンデレラも帰るのを諦めてしまうぐらいの時刻だ。  アイドルということに触れていいものか悩んでしまう。知ってほしかったら、suiと名乗っていただろうし。  会話を続けながらそんな悩みを抱えていれば、お昼にも聞いた店内放送が流れ始めた。あ、と声が漏れてしまって気まずい沈黙が流れる。  「…………えと、」  「…………」  うまく取り繕うことすらできなくて、ひやりと背筋が凍る。お客さんの少ない深夜でも流すと決めたコンビニ上層部を恨んだ。  「やっぱり気づいちゃうよね」  「……黙っててごめんなさい」  彼が諦めたように笑う。  胸がぎゅっと締め付けられて、そんな顔をさせた自分に腹が立った。  「いいよ、いつかは言おうと思ってたし」  「……深山さん」  「それやだ、翠って呼んで」  「でも、」  「陽には翠って呼ばれたい」  直々に許可されたといっても、アルファ様を呼び捨てするなんてあまりにも恐れ多い。本人がよくても周りは許さないだろう。  遠慮する僕を見てむっと唇を尖らせた深山さんは、反抗期の子どものように頑なだ。綺麗な顔いっぱいに「不愉快です」と書いてある。  「俺がアイドルだから?」  「そういうわけじゃ……」  「苗字で呼ぶなんて他人行儀だよ」  「だって、」  だって僕らは同じ世界の人間じゃない。  そう後に続くはずの言葉は口に出せなかった。    アイドルと一般人、アルファとベータ。  はっきりと目に見えてわかる格差。  どうしたって僕らの糸が絡まることはないのだから。この距離は縮まらない。  そんな考えを敏感に感じ取ったのか、彼は苛立ちを隠そうともせず、僕の腕を掴んだ。  「同じ人間だよ」  「…………」  「アイドルだからって、壁を作らないで」  「…………ごめんなさい」  差別していたのはどっちだ?  性別や仕事を言い訳にして、自分は弱者だからと諦めていた。平凡を盾にしていたことが恥ずかしい。  翠の気持ちを考えれば怒るのも無理はない。素直に謝れば、翠が掴んでいた腕を離した。  「陽と仲良くなりたいんだ」  「……それは、僕でよければ」  真っ直ぐに見つめられれば照れてしまう。  思わず視線を逸らして返事をすると、翠にぎゅうっと抱き締められる。  その瞬間、甘くて爽やかなサイダーの香りが鼻腔をくすぐる。  すっぽり収まる腕の中は居心地がよくて、相変わらずいい匂いだとうっとりしそうになるけれど、すぐに我に返る。  「あ、え……?」  「ふふ、かわいい」  言葉にならない声を漏らしながら、疑問が浮かぶ。友だちの距離感ってこんなだっけ?  だけど嬉しそうに笑う翠にそんな無粋なことを言えるはずがなくて、僕は大人しくされるがままになっていた。  胸の奥の方できゅんと何かが鳴ったのは、多分気のせいだ。

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