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言い聞かせてる時点で恋だった

 寂れた深夜のコンビニにトップアイドルが通うようになって、一ヶ月が経った。  翠が来ると、見慣れた店内の照明だってシャンデリアに様変わりしてしまう。彼を取り巻く全てがキラキラと輝いて見えた。  初めて出会った時から翠の香水は変わることがなくて、僕はその香りを嗅ぐ度に心地良さを感じていた。  そんなある日の午前一時を過ぎた頃、お決まりの入店音が鳴り響く。翠かなと入ってきたひとを確認すれば、推定五十歳以上の初めて見る背の高い筋肉質なおじさんだった。  その足取りはふらふらで、今にも倒れそう。酔っ払いの相手なんてついてないと思いながらも、転けて怪我をしたおじさんに言いがかりをつけられたらもっと最悪だ。  「大丈夫ですか?」  「……ああ?」  レジから出て声をかければ、焦点の定まらない目がこちらを向く。酒臭くて顰めっ面になりそうなのを堪えて、無理やり笑顔を貼り付ける。  「お手洗い、行かれますか?」  善意で手を差し出せば、すごい力でがっと掴まれる。酔っ払いが加減を知らないせいで、ぎりぎりと痛みが走った。  「離してください」  「おお、気持ちいい手だな」  きっぱりと離すように言っても、逆に手の感触を確かめるように腕を摩られて、掌を揉まれた。  性的な欲望を孕んだ目で見つめられる。ねっとりとした手の動きに嫌悪感が募って、不快ゲージが溜まっていく。  「そうだ、一万円やるから一発抜いてくれよ」  「やめてください、警察呼びますよ」  遂に笑顔がなくなった僕に気が付かない酔っ払いの行動は、エスカレートしていく。伸びてきた手にお尻まで触られて、吐き気がした。  気持ち悪くて仕方がないのに、力の差が歴然で抵抗するのもままならない。  初めてこのバイトを選んだことを後悔した。だって、ここには僕しかいない。あるのは絶望だけ。警察を呼ぼうにもレジまで行かないと無理だ。そう頭で理解した途端に血の気が引いた。  「っやだ、離せ」  「ん? 珍しい、お前オメガか? よく見ればかわいい顔をしてるな」  逃れようと体を捩るけれど、それすら軽く去なされる。悔しくて唇を噛み締めれば、いやらしく歪んだ瞳がまじまじと見つめてくる。  オメガじゃないのに勘違いして、馬鹿みたい。そう心の中で詰ることしかできない。  乾燥した皺だらけの手が目の前まで伸びてくる。気持ち悪い、触られたくない。だけど僕は無力で、自分の身すら守れない。  こんなことで泣きたくないのに、涙がじわじわとこみ上げてきて、僕はぎゅっと目を瞑った。諦めにも似た心地だった。  「おい」  そんなとき、地を這うように低い声が聞こえて目を開ければ、酔っ払いの手を鷲掴みにしている翠がいた。血管が浮き出るほど、力が込められているのが分かる。  おじさんは「痛い痛い」と大袈裟なまでに喚いているが、無表情の翠は力を弱めようとはしなかった。  「失せな」  あっさりとおじさんを僕から引き剥がした翠は、そのまま首根っこを掴んで、まるでゴミでも捨てるかのようにぺいっと外に投げ捨てた。  ぶわりと威圧するオーラを纏ったまま、瞳に光の戻らない翠が戻ってくる。  自分に向けられたものではないと分かってはいてもまざまざと力の差を見せつけられて、目の前のアルファとの壁を感じてしまう。  これが人類の頂点に君臨するアルファ様。  平凡な僕とは大違い。どう頑張ったって相容れない。  酔っ払いから解放されたからか、アルファに圧倒されたからか、はたまたそのどちらもか。急に力が抜けてしまって、僕はその場にへなへなとしゃがみこんだ。  膝に顔を埋めれば、自分の体が震えていることに気がついた。  「陽?」  「…………」  声をかけられて、体がびくりと反応する。  恐る恐る顔を上げれば、心配の色を滲ませている翠が僕の前に跪いていた。慰めるようにくしゃりと髪を撫でられる。  「大丈夫?」  「……はい」  こくりと頷けば、翠がほっと胸を撫で下ろす。  もう威圧的なオーラはなくなっていて、焦っていたのがよく分かる。僕も少し息がしやすくなった。  手を引っ張られて立ち上がると、濁りのない綺麗な瞳が僕だけを見つめてる。  翠に触れられるのは全然平気なのに、むしろ嬉しいと思ってしまうぐらいなのに。他の人にはどうしてこんなに嫌悪感を抱くのだろう。  「……よかった」  「ありがとうございました」  安心したように笑みを浮かべる翠の顔をまっすぐ見れない。小さな声でお礼を言うと、再びぽんぽんと頭を撫でられた。  「……あのさ、お願いがあるんだけど」  「はい」  「このバイトを辞めてほしい」  「……え?」  言うか言わないか悩んで、視線を落として躊躇いがちに言われた言葉を思わず聞き返す。下手に出ようとするその態度はやっぱりアルファらしくない。  「嫌なんだ、また陽がこんな目に遭うのは」  「今日のはたまたまですよ」  「俺が来なかったら、自分がどうなっていたか、分かって言ってる?」  「…………」  「相手がアルファだったら、陽を傷つけることなんて簡単にできちゃうんだよ」  大袈裟だなぁと、へらりと笑ってみせる。  僕みたいな影の薄いベータなんて、アルファのトップに君臨する翠が心配する必要はない。  翠も笑って引いてくれると思ったのに、却って怒らせてしまったらしい。翠の瞳が赤く燃えている。  「お願い、陽に傷ついてほしくないんだ」  「…………」  「ここは君に出逢えたかけがえのない場所だけど、俺の一番は陽だから」  「…………」  「言うこと聞いてよ、ね?」  ぎゅうっと手を握られると、そのぬくもりが沁みて絆されそうになる。  必死に訴えてくるけれど、翠に言われた通りにするわけにはいかない。なぜなら……。  「うち、僕が稼がないと金銭的に厳しいんです……」  「…………」  両親を幼い頃に亡くして、ずっと祖父母に育てられてきた。決して裕福な家庭ではないのに、そんな苦労を見せずに大学まで通えているのは紛れもなく彼らのおかげ。  僕は少しでもお金を稼がないと。  こんなバイト、いつ辞めてもいいとは思っていたけれど、次も決まっていないのに辞めるなんて無謀すぎる。  いつものらりくらり、適当に生きてきたけど、真正面から現実に向き合えば、そう簡単には生きていけないのが事実。リアルは全然甘くない。  翠も金銭的な問題には口出しできないのだろう。真剣な顔で黙り込んだままだ。  これ以上、踏み込ませない。  絆されない。距離を縮めない。  そうしないと、崩れてしまう。  「……深山さんに助けてもらわなくても、僕は大丈夫です。自分でなんとかします」  彼が嫌だと言った呼び方で突き放す。  悲しみの色を宿した瞳が僕を映しているのを見つめていた。自分勝手に我儘に、ちくんと傷ついた心を誤魔化して。  「そうやってずっとひとりで頑張ってきたの?」  「……え」  ぽつりと零された言葉にハッとする。  なんでもないみたいに平気な顔をすることに慣れてしまった自分が動揺する。  「俺じゃ駄目かな」  「…………」  「陽が抱えてきたもの、はんぶんこしてよ」  突き放したのに、翠は引き下がらない。  手を握りしめられると、その温もりに頑なだった心が溶かされそう。  「迷惑かけたくない」  「迷惑じゃないよ、俺がそうしたいだけ」  「でも、」  「うん」  「……どうせ離れていくなら、最初からひとりがいい」  僕らに永遠はないから。  ずっと一緒にはいられない。  またひとりになると分かっていてその手を取れるほど、僕は強くはなかった。  「俺は離れないよ」  「……口では何だって言える」  「陽が許してくれるなら、ずっとそばにいる」  甘い言葉が心に響く。  嘘だ、ありえない。そう分かっているのにこのひとを求めてしまう自分がいた。  「……駄目です」  なんとか捻り出した四文字に自分勝手に胸が痛む。頑なな態度を取り続ける僕なんて、早々に見限ってしまえばいいのに。  それができないのは、翠が優しいから。だからこそ、彼に甘えるわけにはいかなかった。  すると、翠が何かを思いついたように「あ」と漏らす。  「ねぇ、陽は家事できる?」  「ある程度は……」  「じゃあさ、俺の家のことやってくれない? もちろん、ちゃんと給料は出すから」  名案だと言わんばかりに翠が笑顔になった。対する僕は、全く想定していなかった提案に口がぽかんと開く。  「いやいや、そんなの、もっと無理ですよ」  「どうして? このバイトを続けたいのは金銭的な理由でしょ。今より稼げるようにするよ。それに俺は陽の傍にいたい。ほら、お互いに利害が一致するじゃん」  ぺらぺらと捲し立てられて、頭が混乱する。  トップアイドル様のくせに、自分が何を言っているのか本当に分かっているのだろうか。  「……いやです」  「陽、おねがい」  握りしめられた手を引っ張られて、抱きしめられる。翠の香りに包まれると、心が揺らぐ。  「まずは一ヶ月のお試しでいいから」  「…………諦める気は?」  「ないよ」  「はぁ……、一ヶ月だけですよ」  一向に引き下がる気配すらなくて、その熱意に負けた僕が折れるしかなかった。  渋々了承すれば、「やった」と小さく呟いた翠が抱きしめる腕にぎゅうっと力を込める。圧迫感に「う」と声を漏らせば、それを聞いた翠が謝りながら体を離した。  それを名残惜しく思うなんて、どうかしてる。  触れられる度、自分の中で新しい感情が芽生えかけているのを感じていた。だけど、それに蓋をして僕は気づかないふりをする。  ――翠に惹かれてる。  そんなこと、ありえない。  ベータがアルファ様に恋をするなんて、身の程を弁えるべきだろう。    たとえ僕の心が彼を求めていたって、運命にはなれないのだから。これはトップアイドルに優しくされて、ミーハーの心が騒いでるだけ。  僕は何も始まってない。始められるわけがない。  言い訳を並べて、必死に言い聞かせている時点で認めてしまっているようなものなのに。翠に出会わなければよかった、そんな心にもないことを思うばかりだった。

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