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特別はいらない

 昨日と同じ今日を生きる。  明日も明後日も変わらない毎日。  気がつけば、太陽は沈んでいる。  たまに見ることができる、空色と夕焼けの薄桃色が混じり合う瞬間の空が好きだった。  この部屋は僕の住む家よりもずっと空に近い。窓から外を眺めれば、ぽつんとひとり、取り残されたような気持ちになる。  合鍵をもらった僕は大学の授業を終えた後、この場所に向かうようになった。  コンシェルジュに止められないかと不安に思っていたけれど、翠と一緒にいたところを覚えていたのか、丁寧な会釈で見逃された。さすが超高級マンション、しっかりしている。  初めてここに来た日のこと。  翠の住む部屋は僕なんて必要ないぐらい綺麗に整頓されていて、家事といっても何をすればいいのか分からなかった。  「え、適当に寛いでていいよ」  遠慮がちに尋ねて、返ってきた答えがこれ。  仕事の指示を与えない上司は嫌われると、どうやら彼は知らないらしい。  玄関で仕事に向かう翠を見送るついでに、「じゃあ、勝手にします」と啖呵を切った僕は買い物に出かけて、適当にご飯を作った。  この家の冷蔵庫には食べるものがちっとも入っていない。翠の帰りを待っている間に腹は空くし。こちとら、まだまだ成長期だと信じたい年頃なのだ。  少し不機嫌に作った生姜焼きは塩っぱくて、気分が沈む。何もうまくいかない。だだっ広い部屋にひとりぼっちだという事実が、余計に胸の奥をちくちくした。  作っている最中は楽しかったのに、ひとりで食べるのは味気ない。お腹が空いていたはずなのに、箸が止まりかける。義務のように咀嚼して、無理やり喉奥に流し込んだ。  洗い物をしてから少し溜まった洗濯物を見つけて、そのままにするか悩んだ末、洗濯機を回すことにした。  翠の残り香を嗅ぐとどうしても心が震えるから、そのまま放置しておくのは毒だった。  洗濯を終えても、ほんの少しだけ残るそれに反応してしまって唇を噛む。部屋から漂っているものなのか、服からなのか、正解は分からないけれど。くらくらと、熱が溜まっていく感覚がしたのを覚えてる。  何もすることがなくなったけど、翠に待っててと言われたから、しかたなく僕は部屋の主の帰りを待っていた。僕も翠の顔が見たいからとか、別にそんなんじゃない。  高そうな革張りのソファに座ってぼーっとしていれば、急激に眠気が襲ってくる。  今寝たら帰れなくなる。寝たらだめだとうつらうつらしながら戦っていたけれど、それは無駄な足掻きだった。  ◇◇  「……う、」  「んん……」  「陽、起きて」  自分の名前を呼ばれた気がする。幸せな夢を見ている邪魔をしないでと幼子のようにぐずっていると、肩を揺すられてようやく意識が覚醒した。  カーテンも閉めずに何やってたんだ。開けっ放しの窓の外はすっかり日が沈んで真っ暗。眠らない街は星が少なくて、それが残念だと思う。  ぱちぱちと瞬きを繰り返せば、優しい微笑みを浮かべた翠と目が合った。それが嬉しくて、体の奥から喜びの声が聞こえてくる。  だけど、駄目だ。謝らないと。  少し掠れた声で謝りながら目線を落とす。  「あ、寝ちゃっててすみません……」  「んーん、いいよ。でも、風邪引くから気をつけて」  長く細い指が頬をするりと撫でる。  気持ちいい。まだはっきりと動いていない頭、再び目を閉じて何も考えずに擦り寄ってしまう。  警戒心のない子猫が甘えるような仕草に、翠は嬉しそうに口元を綻ばせた。  「かわいい……」  言うつもりはなかったのに、思わず漏れた。そんな風にぽつりと零された言葉は、寝起きの頭には届かない。  「……泊まってく?」  「……ううん」  「お願いって言ったら?」  「……ずるい」  「うん、ごめんね」  甘く蕩けるような声で囁かれると、思考まで溶かされてしまう。ぼんやりと目を開ければ、翠は思ったよりも近くにいて心臓が跳ねた。  世界中のひとから愛されているその顔立ちに改めて惚れ惚れする。美人は飽きない、自分とは全く違う顔の造りに感心さえしてしまう。こんなに至近距離で見ても毛穴ひとつないなんて、綺麗なひとって凄い。一等級の芸術品だ。  「……そんなに見つめられると恥ずかしいんだけど」  見られることが仕事だろうに。常に多くのひとの視線を集めているだろうに。僕なんかに見つめられただけで、耳を赤くして、口元を手で隠す翠がかわいいと思った。  「翠、」  「うん?」  「……なんでもない」  僕は、今、何を言おうとした?  ぼんやりとしていた頭からようやく霧が晴れた。冷静になって口を噤んだ僕の肩に翠が顔を埋める。  「……何言おうとしたの」  「…………秘密」  言えないよ。  貴方に贈る愛のメッセージなんて、持ち合わせていないのだから。  顔を上げた翠は一瞬瞳を曇らせたものの、それを悟らせないうちにすぐに表情を切り替える。  「もう、ご飯食べた?」  「…………」  翠からしたら何の含みもない問いかけだったのだろう。だけど、僕はどう答えるのが正解か悩んで口を噤んでしまう。  もしかすると、翠がお腹を空かせて帰ってくるかも。そんな思いを消せなくて、冷蔵庫にしまいこんでいる生姜焼き。  想像もつかないほど、高級なものばかり食べている翠に自分の下手くそな手料理を食べさせるなんてどうかしてる。冷静になった頭がそう詰る。  なんとかこの場を誤魔化して、さっさとシャワーを浴びてもらおう。その間に冷蔵庫のゴミは捨ててしまえばいい。  「……食べましたよ」  「何食べたの?」  「えと、コンビニの……、おにぎり」  しどろもどろになりながら適当に答えれば、翠の眉間に皺が寄る。怪しまれていることは分かっているけれど、白状する気はさらさらない。  「もっとちゃんとしたもの食べなきゃ、体壊すよ」  嗜めるようにきゅと僕の鼻を摘んだ翠が立ち上がる。真っ直ぐに向かう先は冷蔵庫。まずいと後を追えば、訝しげに翠が振り返る。  「陽?」  「……はい」  「何か隠してるね」  「…………」  すと細められた瞳が僕を射抜く。真剣な瞳と対峙すれば、嫌でもこの人がアルファだということを思い知る。無意識に威圧のオーラに怯んだ。ぶるりと震える体は気のせいじゃない。  瞳に怯えの色が滲んでいるとすぐに分かったのだろう。翠は苛立ったように頭をかいて、大きく息を吐いた。  ……帰りたい。  不機嫌の理由は僕だ。やっぱり、平凡なベータはアルファ様とは相容れない。  ぐじぐじと、心が傷んでじんわりと溶けていく。  どれだけ歩み寄ろうとしたって、僕らの線はきっといつまでも重ならない。この世界の常識がそう告げている。  「違うんだ、陽」  「…………」  「怖がらせたいわけじゃない、悪かった」  まっすぐに見つめる瞳からは先程の苛立ちがすっかり消えている。出会ったときから変わらない真摯な態度に僕だけが心を揺さぶられてばかり。  翠が他のアルファみたいにもっと横柄で、失礼なひとだったらよかったのに。そしたら、僕だって何の後腐れもなくこの関係を捨てられたのに。  彼は世界中から愛されるアイドル。  僕だけが特別じゃない。  常にそう言い聞かせておかないと、浮かれて勘違いしてしまいそうになる。    翠という人間の本質が出来すぎているから。誰に対しても礼儀正しく、優しくて暖かい。昔からきっと、そういう人なのだ。  「陽、」  「はい」  「どうしたらいいんだろう」  「……、…………」  その目を見たら抽象的な問いかけに答えることができなくて、声にならない空気が漏れただけだった。  「どうやったら、君の心に近づける?」  一歩踏み出した翠は躊躇いがちに手を伸ばす。けれど僕の手に触れようとした瞬間、ぴたりと動きを止めてしまった。  もっと自分本位に行動してくれたら僕だってきっぱりと突き放すことができるのに。こんな風に自身を尊重されたことがなくて、どうしていいのか分からない。  「俺は陽をもっと知りたい」  「…………」  「……許してもらえるなら、君に触れたいと思ってる」  おずおずと視線を上げれば、まっすぐに見つめる綺麗な瞳と目が合った。優しくて柔らかいのに、どろりと熱を孕んでいる瞳に射抜かれると、全てを曝け出しそうになってしまう。  胸に湧き上がる衝動を抑えようとするけれど、本能が勝ってしまって無理だった。すぐそこにある翠の手。震える指先を伸ばして小指だけ握ると、翠ははっと瞳を瞬かせた後、国宝級に美しい顔を幼子のように綻ばせた。  気がつけば、僕は翠の腕の中だった。  首筋から香る翠の匂いにくらくらする。ずっと嗅いでいたら、理性をぐちゃぐちゃにされて何が何だか分からなくなりそうだ。  抱き締められただけで、信じられないぐらいの幸福を感じてる。こんなこと、今までなかった。だけど、それは多分、相手が翠だから。だから、こんなに心が喜んでいるんだ。  「陽」  「……ん」  「……俺自身をちゃんと見てて」  翠に呼ばれるだけで、突然自分の名前が特別なものになったかのように錯覚してしまう。もっとたくさん、呼んでほしい。そんな身の程知らずの願望を抱いてしまう。  耳元で囁かれると背筋がぞくぞくして、胸の奥深くがぎゅーっと締め付けられる。出会って間もないのに、どうしてこんなに愛しさが湧き上がってくるのか。  翠には笑っていてほしい。こんな風に落ち込んで寂しそうなところを見たくない。  きっと、無償の愛というのはあたたかくて優しいものなのに、ほんの少しだけ切ないものなのだ。それをちょっぴり理解できた僕は、返事をする代わりに翠の背中にぎこちなく腕を回した。  途端に翠の腕に力が入る。苦しいぐらいだ。だけど、それが嫌じゃない。このまま翠の一部になればいいのに。  「ゆっくりでいいから、陽のことも教えてね」  しばらくして体を離した翠の表情は和やかなものに変わっていた。ほっと息を吐きながら誤魔化すように曖昧に頷けば、じと見つめられてしまう。  「素直に頷くところなのに。陽の意地悪」  「……ごめん」  「はぁ、ずるいなあ。そんな顔されたら何も言えないじゃん。俺が陽に甘いの、分かってるでしょ」  冗談めかして言う翠に心が痛む。  絆されつつあることは自分が一番よく分かっている。だけど、まだ境界線を越えると決めたわけじゃない。  芸能人と一般人。アルファとベータ。  翠と僕の間にはどうしようもない、いくつもの高い壁があるのだ。  しばらくして体を離した翠が、穏やかな表情で僕を見下ろす。離れがたいと思ってしまったことに気づかないふりをして、僕はきゅっと唇を噛み締めた。  「陽はおにぎりだけでお腹空いてないの?」  「え、と、……はい」  目を逸らしながら嘘をつけば、「ふーん」と納得していなさそうな低い声が聞こえてくる。  すると、翠は振り返り、歩き始めた。彼が足を止めたのは、冷蔵庫の前。まずいと思って止めようとするけれど、翠の行動の方が早かった。  開かれたドアから冷気が流れ込んでくる。目敏い翠のことだ、すぐに冷蔵庫のチルド室にあるものに気づいただろう。  どうしてそんな目立つところに置いたんだと後悔したのも束の間、翠に名前を呼ばれて背筋が伸びる。  「陽」  「…………はい」  すぐに返事をしなかったのは、せめてもの抵抗。  「陽が作ったの?」  「…………はい」  「これって、俺の分……?」  「……はい」  見つかってしまっては、これ以上誤魔化すことはできない。お手上げだと諦めて白状するけれど、翠からは何もリアクションが返ってこない。  「あの、でも、違うんだ。ごめんなさい、勝手にこんなことして気持ち悪いよね。僕が捨てておくから忘れていいよ」  沈黙を埋めたくて、取ってつけたような言葉を繋ぐ。焦ってあたふたしている僕を見つめて、眉を下げた翠は「ちがう」と小さく呟いた。  「うれしい」  「え?」  「陽からの初めてのプレゼントだ」  そう言う翠は本当に嬉しそうに笑っていて、「写真撮らなくちゃ」と冷蔵庫からいそいそとお皿を取り出している。  まさかそんな風に捉えられると思ってもいなくて、かあっと頬が熱くなる。  ただの自己満足だったのに、翠はこんなに喜んでくれるんだ。なんだか涙がこみ上げてきて、じーんと心が震えた。  翠と結婚する人は、きっと世界で一番の幸せ者だ。些細なことでこちらが驚くぐらい喜んでくれて、どんな時でも優しくて、何よりも大切にしてくれる。  ――いいなぁ、彼の運命の番が羨ましい。  なんて、自然に出てきた感情に嫌悪する。  僕なんて、その立場を望むことすらできないのに。  でも、だからこそ、許しが欲しかった。  特別はいらない。  翠の一番になることなんて望まないから、今はただ彼の傍にいることを許してほしいと、誰にともなく心からそう思った。

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