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天を仰ぐ

 一年生の頃の、あの自由のない時間割って何だったんだろうと思う今日この頃。必修科目を落とすわけにはいかないと躍起になっていたっけと、思い出せば遠い記憶のようだ。  三年生にもなれば、わざわざ大学に毎日通わなくて済む。イメージしていた大学生活をようやく満喫できると思っていたけれど、現実は僕の想像を遥かに超えていた。  トップアイドルの家政夫になって、早一ヶ月。同じ時を過ごすにつれて、どんどん翠から離れがたくなっている事実には蓋をしたままだ。  この気持ちに真正面から向き合うつもりはなかった。望んでも叶わない恋なんて、早く消してしまいたい。  しゃぼん玉のようにどんどん膨らんでいくこの想いは、いつか本当にぱちんと消えてなくなってしまうのだろうか。  週の真ん中、水曜日。そんなことを考えているなんて微塵も思っていない様子のアルファ様は、ご機嫌に膝の上に寝転んで手を伸ばした指先で僕の髪をいじって遊んでいる。  「んふふ」  「楽しい?」  「そりゃあもう、すごく」  ケアのされていない、少しパサついた髪の何がそんなに翠を夢中にさせるのか。アルファ様独特の感性は何時だって不思議だ。  やめてと拒否するのも違う気がして、翠の好きなようにさせてしまう。結局、いつもこうだ。翠からのスキンシップが嬉しくて、もっとと望んでいる自分がいる。  「陽は大学卒業したらどうするの?」  「うーん……、まだ悩み中かな」  翠に言われてから自然ととれていった敬語が、僕らの心の距離が少し近づいたことを表している。  周りが始めているからと、やりたいことも見つけられないままなんとなくでやり過ごしている就職活動の話に、自然と表情が暗くなる。それを目にした翠の手が伸びてきて、僕の頬を擽る。  「そっかぁ」  「…………」  「行きたいところがないなら、俺がスカウトしちゃおうかな」  「え?」  「卒業しても、ずっと俺の傍にいてよ」  「っ、そんなの、」  「今は頭に入れておくだけでいいから。もし就活が上手くいかなくてもその選択肢があるって思えば、気は楽でしょ」  そう言って笑う翠は、狡い男だ。  貴方に恋をしている人に、なんて残酷なことを言うのだろう。  たとえ今、翠に恋人がいなくても、こんなにいいアルファなのだ、いつかは彼の特別が現れる。仲睦まじい二人を一番近くで見ていろと言うのか。  想像しただけで何かが失われたみたいにこんなにも胸が苦しくなるのに、僕はそんな未来を耐えられるわけがない。  先程とは違う意味で眉を下げていれば、僕を見上げている翠と目が合う。下から見上げられたら隠すことができない表情なんてバレバレ。誤魔化すように、へにゃりと下手くそな笑顔を作るしかなかった。  たとえネガティブな感情が顔に出ていたとしても、僕の心の内までは流石の翠も分からないだろう。このあまりにも重たい無価値な恋心がバレなければ、それでいいと思う。  「陽は素直だね」  「……、ただの一般人なので」  僕は演技の上手い俳優でもないし、本音を隠し通すホストでもない。唇を尖らせてそう言えば、くすりと笑われる。  「褒めてるんだよ。俺は陽のそういうところが好きだから」  「っ、」  これ以上瞳を見ていたら、言わないはずの言葉が溢れ出してしまいそうだったから。たまらなくなって、天を仰いだ。  きっと、アイドル様は普段からいろんな人に言っているから何の照れもなく口にできるのだろうけれど、軽々しく「好き」とか言わないでほしい。  心臓が一際大きく跳ねた音が、翠まで届いていないことを願うしかなかった。  「変わらないでね」  「僕はずっと僕のままだよ」  変わるとしたら、翠の方だ。  今は平凡なベータを面白がって傍に置いているけれど、飽きがきたら僕なんてすぐに捨てられる。だけど、そんなことを本人に直接言えるほど、僕は勇敢でも正直者でもなかった。  すると僕の返答に満足したのか、翠はごろりと寝返りを打つと猫のように擦り寄ってきた。  身動きを取るたびにサラサラと揺れる、肩まで伸びたホワイトブロンド。彼の真似をして、バレないように毛先に触れるけれど、敏い翠にはすぐに気づかれてしまう。  「どしたの」  「綺麗な髪だなあと思って」  「……好き?」  「うん、この髪色が一番翠に似合うんじゃないかな。どこにいても、翠だって一目で分かるし」  何かを試すように、一瞬の間を空けて投げかけられた質問。そこに深い意味はないと、動揺を悟られないよう、平気な顔をして嘯くことしかできない。  「なら、ずっとこの色にする」  「……それは、」  「陽がすぐに見つけられるなら、これが一番いい」  僕なんかより、ファンの人の意見を聞いた方が絶対にいいに決まっているのに。説得しようにも、変なところで頑なな翠はこれ以上聞く耳を持たない様子。  まあ、仕事関係や気分次第で髪色なんてすぐに変わる。多忙なトップアイドル様は、こんなありふれた日常の会話なんてすぐに忘れてしまうだろうと思ったから、説得するのは早々に諦めてしまった。  もぞもぞとお腹に顔を埋める翠がどんな表情をしているのか、僕には全く分からなかった。  もしも、僕の世界に先に足を踏み入れたのがsuiだったら――……。  そんなたらればを繰り返し考える。  もしも、僕がsuiのファンだったら――……。  もしも、僕がsuiのリア恋勢だったら――……。  今頃、世界は色を変えていただろうか。  画面の中で歌って踊る姿にときめいて、遠くの世界から恋をしている方がよっぽど健全だ。だって、そこには純粋な想いしかない。  叶いもしない、どろどろの醜い恋心を密かに抱いて、人畜無害な顔を貼り付けたベータが隣にいるなんて知ったら、翠は幻滅するに決まっている。  オメガでも、女でもない。  ただの平凡な男に彼が友達以上の感情を持つことはない。  今は、ただ、物珍しくて構っているだけ。それが分かっているのに、翠の一挙一動に乱される自分が馬鹿馬鹿しい。  だけど、心は素直だ。  優しくされれば心が弾むし、会えないときは寂しさが募る。  けれど、日に日に大きくなる「それ」をどれほど大切にしていたって、いつかきっと終わりが来る。  決定権を持つ翠が「もう、いらない」と言えば、僕はそれを黙って受け入れるしかない。  そんな未来が来ることを恐れているから。  一分一秒でも遅く、その時が来てほしいから。  僕は今日も感情を瞳に滲ませないように、何もかもを排除して、彼の望むままに生きるしかない。  ◇◇  「陽、こっち」  ソファに座る翠に呼ばれて、きゅと口を噛み締める。考えていることが顔に出ないように、平然としたふりをするしかない。  ここ最近の翠は、僕を膝の上に乗せて後ろから抱え込むことにハマっている。抱き枕とかぬいぐるみとかと同じような扱いだ。痩せてしまった貧相な身体じゃ、何も楽しくないだろうに。  最初はもちろん断った。けれど、「嫌だ」「無理」と並べ立てているうちに翠の表情がどんどん曇っていく。おまけに縋るように見つめられると、最終的には渋々ながらも受け入れることしかできなかった。  そうして出来上がった、新たなルール。  翠に呼ばれたら膝の上に座ること。  決して軽くはない体重を彼の細い足に負担させるのは気が引ける。鉛の人形のように固まった僕の項に顔を近づけ、すんと香りを嗅がれた。  「翠……?」  「……、……」  背後で何を企んでいるのか、戸惑いながら名前を呼ぶと、一瞬固まった翠は何もリアクションを返すことなく、そこに口付けを落とした。  「んっ」  思わず漏れたのは、自分でも予想していなかった甘い声。  自分の想像以上に敏感だったらしいそこから甘い痺れと、なんかよくわかんない変なぞわぞわがこみ上げてきて全身を巡る。熱を逃そうと荒い呼吸を吐いて、無意識に足を擦り合わせていれば、翠の手が宥めるように僕の頭を撫でた。  「えらいえらい」  「……?」  その言葉の真意を測りかねて、何も言葉を返せない。後ろを振り返って見上げると、熱に浮かされて涙で潤んだ瞳を目にした翠は更に瞳をぎらつかせ、欲を滲ませた。  戸惑いつつも抵抗しないのをいいことに、今度は大きく口を開いて僕の項に歯を突き立てる。  「っ!?」  じんじんと広がる痛みと熱。きっと、血だって滲んでいる。けれど、痛みの中に確かに甘い痺れは存在していて、燻る熱のやり場に困ってしまう。  ただ理由もなく直感的に、身体を作り変えられているような感覚がした。  どうにか溜まった熱を逃そうと、先程よりも激しくはぁはぁと熱い息を吐けば、翠に項を舐められる。その場所を執拗に攻めるのは、アルファの性だろうか。  どうすることが正解なのか分からなくて、ただ身体を震わせてそれを享受することしかできない  ……こんなことをしたって、意味がないのに。こんな風に痕を残したって、オメガと違って数日で消えてしまうのに。  オメガなら誰だって、貴方の番になれるけれど。僕はただのどこにでもいるベータだから、そんな未来を夢見れない。  それなのに、何故。  何故、番になるための言わば神聖な儀式の真似事を僕にしようと思ったのか。アルファなら、その行動の重さを誰よりも理解しているはずなのに。  ……翠が、分からない。  困惑しながら痛みに潤む瞳を向けても、彼は平然としていて、それが少し怖かった。この人はアルファなのだと、思い知らされた気がした。  「ごめんね、痛かった?」  「…………平気」  選択肢なんて他にない。  そう答えるしかない僕の項を、彼がどんな瞳をしながら口付けていたかなんて、知る由もなかった。

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