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首筋に花

 カーテンの隙間から新しい朝がやってきたことを告げる、柔らかな日差しが微かに漏れている。  ぼんやりと意識が浮上するけれど、まだまだ寝足りなくてそれを避けるようにごろりと寝返りを打つ。  (……ん?)  寝ぼけ眼を擦りながら、いつもとは違うベッドの感覚に違和感を覚える。覚醒しきらない頭でぼんやりと目を開けた。  「えっ!」  目の前に、神さま。  一気に意識が覚醒して、二人とも服を着ていないことに気がつき、赤面してしまう。  昨夜の出来事が蘇る。半ば気を失うように眠りについたから、最後の方は記憶がないけれど……。  無防備な姿をさらけ出してぐっすりと眠りにつき、まだ目覚めそうにない律を見つめる。  夢なんかじゃない、本物の律だ。  ぐっと胸に熱いものがこみ上げてくる。  八年前からずっと、貴方に会いたかった。    こんな形で会うことになるなんて想像もしていなかったけれど。十分すぎる思い出をもらったから、それを宝物にして僕はこれから生きていく。  そう決意するけど、もう会えないと思うと胸の奥がキリキリと痛む。  寂しいと思っては、駄目。  もっとそばにいたいなんて、そんなことを望むのは許されない。  だって、住む世界が違う。  平凡な僕は特別な世界の住人じゃない。  見合わないのだ。  そんなこと、前々から分かりきっていたことだろう。それなのに、心が律を求めてる。  ……だから、会いたくなかったんだ。  会ったら最後、次を求めてしまうから。  律に会うのは、これが最後。  世界中のファンが望んでも叶えられない体験をしたんだ。  僕は律の前に現れない方がいい。  これ以上は罰が当たる。    床に散らばった衣服に手を伸ばし、そそくさと身なりを整えた後、芸術品かと見間違えるような美しい顔を網膜に焼き付ける。  もう会えないなら律の意識がないうちにじっくり堪能したかったけれど、そういうわけにもいかない。  「んん……」  見惚れていると、すやすやと眠りについていた律が眉間に皺を寄せた。伸びた前髪が顔にかかって邪魔みたい。こんな律、みたことない。  少しだけなら、貴方に触れても許されるかな。  起こさないよう、慎重に彼の柔らかい髪を払ってあげると、表情が柔らかくなってホッとする。  律の目が覚める前にいなくなった方がいい。  幾許の名残惜しさを感じながらも、それを断ち切って、僕は静かに律から離れようとした。  「黙ってどこ行くの」  その瞬間、パチッと目を開けた律に手首を掴まれて、驚きのあまり、僕は固まってしまった。  下から見上げてくる瞳が鋭くて、遠慮なく僕を責める視線が痛い。  うまい言い訳も思い浮かばなくて、黙り込むことしかできなくなった。  「いなくならないで……」  「……」  それは、昨夜僕が伝えた言葉と同じ。  感情を隠そうともせず、ただ淋しいと切実に伝えてくる。  だけど、僕は頷くことはできない。その願いを叶えられるのは、僕じゃない。  律にお似合いのひとはいくらでもいるから。彼のそばにいるのは、僕なんかじゃなくていい。  でも、こんな弱った律を置いて行くのは良心が痛む。彼を傷付けたくない。幸せでいてほしい。葛藤が僕の行動を抑制する。    「紡、」  ~~♪  掴まれた手にぐっと力が入る。  律が何かを言おうとした瞬間、スマホの着信音が静かな部屋に喧しいほどに鳴り響いた。  その音を聞いて、ハッと我に返った。  違う、僕のいるべきところはここじゃない。  何とか手を離そうも試みるけれど、律もそう簡単には許してくれない。  「電話、出ないと」  早く出ろと急かすようにスマホは鳴り続けている。  仕事の連絡だったら、たくさんの人に迷惑がかかる。業界人からの評価も高いのに、律の好感度をこんなことで落としたくない。  諭すように言うと、律は苦虫を噛み潰したような表情で僕を見上げる。  たぶん、律はわかってる。  手を離したら、僕がいなくなるってこと。  ……ごめんね、律。その通りだよ。  そうしているうちに着信は一旦切れたけれど、間を置かず、またすぐにスマホがうるさく主張し始める。  こんな朝から何度も電話をかけてくるのだ。よっぽど重要な用事なのだろう。  「お願い……」  「…………わかったよ」  これ以上、貴方の負担になりたくない。  消え入るような声で頼むと、律は本当に渋々といった顔で僕の手を離し、スマホを手にとった。  「……もしもし」  聞いたことのない、冷たく暗い声で律が電話に出る。感情を持たない視線は、僕にロックオンしたまま。  彼の電話が終わるのを待っていられる程、僕の心臓は強くない。ここはいわば天界、凡人の住むところじゃない。  (律……、さようなら)  もう貴方に会うことはないけれど、誰よりも幸せを願ってる。  表情が崩れるのを我慢するために唇を噛み締めて、僕は律に一礼すると、そのまま早足で家を出る。  最後に見えた、捨てられた子犬のような顔をした律が、走っても走っても脳裏にこびりついて離れなかった。  ◇◇  「律さん、聞いてますか? あと十分で着きますからね」  「ああ、わかってる」  マネージャーとの通話を終えた律がベッドに沈む。  淋しい。虚しい。悲しい。  この世にある負の感情を全て集めて煮詰めたみたいな、そんな心境。  彼を腕の中に閉じ込めたとき、これ以上ないほどの幸せを感じたのに……。紡がいない今は、ぽっかりと心に穴が空いたみたいだ。  律は天井を仰ぎ見て、自分を取り巻く環境に絶望した。  ◇◇  翌日、朝から目覚まし時計の音に起こされて、僕は僕の平凡な日常に戻ってきた。  夢のような二日間は遥か遠い日のようで、自分に起きたことだと未だに実感が湧いてこなかった。  さようならをするぐらいなら、はじめから会いたくなかった。こんなに胸が痛むなら、叶わない恋をしたくなかった。  僕は何もいらなかったのに。  現実に帰ってから、ずっと苦しい。  心はしんどいままなのに頭の中はぽやぽやする。それに比例して動作が遅くなるせいで、大学に行く準備を済ませるのがいつもよりもずっと遅かった。  「はよ」  「おはよ」  遅刻ギリギリで教室に入り、先に席を取っていた奏の隣に腰を下ろす。  一昨日収録だったことを知っている奏は、様子のおかしい僕に何かあったと気がついていないわけがない。  それなのに、僕から話し出すまで触れずにそっとしてくれる。昔からそんな奏の優しさに何度救われただろう。  授業が始まるけれど、教授の話は全く耳に入ってこなくて、僕はシャーペンを掴んでぼーっとしていた。  これまで悩んだときは、何でも奏に相談してきた。でも、さすがに今回のことは誰にも言えない。  (うぅ……)  立ち去ったときの律の顔が浮かんできて、僕は罪悪感と共に机に伏せた。  「吉良~」  授業が終わり、話しかけてきたのは宇田。いつもよりもテンションが高い。収録日を知っているから、その話でもしにきたのだろう。  伏せていた顔を上げれば、ワクワクを抑えきれていない宇田と目が合った。  「土曜日さ、」  僕の想像通り、ミーハーな宇田は収録についての話を聞きたかったらしい。けれど、何かを見つけた宇田はニヤリと笑って言葉を切った。  ん? と首を傾げれば、ニヤニヤした宇田は首筋を指先で示しながら僕の耳元で囁いた。  「ついてんぞ、ここ♡」  ハートマークのついた語尾が気持ち悪くて、ぞわっとしたものが背筋を通り抜ける。  示された先に何があるのかわからない僕が未だにクエスチョンマークを頭上に浮かべていると、宇田はやれやれといった表情で首を振った。  「ったく、つけられてることに気づかないぐらい夢中だったのかよ」  「だから何がだよ」  「……キスマーク」  答えを理解した瞬間、爆発した。  真っ赤になって首筋を隠した僕を見て、ニヤニヤの止まらない宇田がヒューとからかってくる。その声に何だなんだと教室に残っている生徒がこちらに注目する。  (最悪だ……)  犯人はひとりしかいない。  あの日はずっと夢見心地で、訳がわからなかったから、全く気づいていなかった。  宇田なんか相手にしている場合じゃない。  僕は立ち上がると、走って教室を出ていった。  「おい、吉良!」  背後から宇田の呼び止める声が聞こえるけれど、呆れた顔をしていた奏がなんとかしてくれるだろう。  いつも尻拭いさせてごめん。  そう思いながらも、僕の足は止まらなかった。  ◇◇  洗面所の鏡の前に立って、首を確認する。  朝はぼーっとしていたから全く気が付かなかったけれど、確かにそこには律の残した痕があった。  こんなことをされたら、忘れられないじゃないか……。  鍵をかけて、綺麗な思い出として一生閉まっておこうと思っていたのに。  指先で痕をなぞれば、あの夜の出来事が鮮明に脳裏を駆け巡って思わず赤面してしまう。  ファンに手を出すんだって、幻滅したことは一度もない。だけど、僕の前に現れないでほしかった。  だって律にもう一度会いたくて、どうしようもなく好きだって心が求めてる。  そんな感情が芽生えることさえ、許してこなかったのに。たとえ変わってしまっても、僕にはどうすることもできない。  住む世界が違うのだ。  いくら思い焦がれても、この恋は叶わない。  ツンと鼻先が傷んで、じーんと目頭が熱くなるけれど、そう理解しているから涙を流すことさえも許されない。  それが、僕の選んだ恋だった。  ◇◇  首筋の痕が日に日に薄くなっていくのを、なんとも言えない気持ちで確かめる日々が続いた。  この痕は律に会えたことの証だから、消えてしまえばその事実すらなくなってしまいそうだった。  それなのに、忘れてしまいたい気持ちも心のどこかに隠れていて、僕はぐるぐると重たいものを抱えて過ごしていた。  長いようであっという間に時間は過ぎ去って、痕は綺麗さっぱりなくなった。  もう、首筋に花は咲いていない。  だから、もうあの日のことは思い出さない。そう決めた。ちくりと胸が痛むけれど、決意は揺るがない。    ただの律のファンでいたいから。  遠くから静かに活躍を見守って、彼を後押しする微かな風になりたい。  スマホを開けば、待ち受けに設定した律の写真が表示される。親の顔より見た顔は何度見ても惚れ惚れする。  (好きだなぁ……)  しみじみとそう思う。何年も積み重ねた恋は、簡単には崩れない。  未練ばかり抱えていることに蓋をして、僕はベッドに横になった。それと同時にスマホの画面も真っ黒に変わった。

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