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針のない羅針盤

 これまで普通だった日常が非日常に変わる。  それは突然で、だけどそうなるだろうということは僕以外には簡単に予想できていた。  JTOが放送されてから、僕を取り巻く環境はがらりと変わった。    なんとなく入っていたグループから連絡先を追加したのか、あまり仲の良くなかった中学や高校の時の友人からメッセージがいくつも届いた。  すれ違った名前も知らない学生に急に声をかけられるようになった。  これまではひっそりと日陰で暮らしていたのに。  急に草の根をかきわけて捜し出されて、スポットライトに照らされる。それがどれだけ苦痛だったか。    借りぐらしが見つかってしまったあの子みたいに、居心地の悪いこの場所から逃げ出したかった。  だけど、世間はそれを許さない。  たったの一夜にして、羅針盤は行き先を見失った。  いくら人の目を気にしたって、大学の授業は待ってくれないし、アルバイトをしなきゃお金だって貯まらない。  だから、これまでよりも目立たないようにするため、僕は下を向いて存在感を消すように努めた。  人の噂もなんとやら。そのうちみんな飽きるだろうから、それまでの辛抱だ。  奏の影に隠れるようにして、大講義室の端の一番後ろの席に座る。さすがに授業中にまでこっちを注目するひとはいないことが救いだった。  ――ピコン。  机の上に置いていたスマホがメッセージを受信した。共通科目の内容に退屈していた僕は、迷わずそれを確認する。  『吉良くん、久しぶり』  そんな言葉から始まるメッセージは、JTOの番組プロデューサーである田島さんから届いたもの。予想もしていなかった相手に心臓がどっと早鐘を打つ。  『急で悪いんだけど、明日空いてる? 夕方から番組の収録があるんだけど、見学に来れないかな?』  なんだか遠い世界の向こう側から手招きされてるみたいだ。何度も何度も読み直して、その意味を反芻する。そこには間違いなく僕の名前が書いてあって、意図の分からない誘いが記載されていた。  僕なんかがいいのだろうか。  そう思いながらも、オーディション番組に出演したときの高揚感が蘇る。    華やかでキラキラと眩しい世界。そこで生きていけるのは運と実力を兼ね備えた、まさに別世界の住人だけ。  つくづく、僕に似合わない世界だと思う。  だけど……、律に会うわけじゃないし。  僕が出演するわけでもない。ただ、収録の様子を見るだけ。  わざわざ忙しい間を縫って、こんなメッセージを送ってきてくれたんだ。何か他に理由があるのかもしれない。  今、この瞬間はもう戻ってこない。  平凡な僕はタイムマシーンなんて作れないし、未来予知の能力も持っていない。  羅針盤に針がなくなってしまったのなら、自分で切り拓くしかない。未来を決めるのは、いつだって自分自身なのだから。  『お久しぶりです。見学、してみたいです』  ゆっくりと文字を打って、数度送信ボタンを押すのを躊躇った後、画面に表示されたのは送信完了の四文字。  ふぅ……とため息を吐き出せば、隣から遠慮なく突き刺さる視線。  「なに?」  「んー、ちょっとは元気出たみたいでよかったなぁって」  やっぱり、気づかれていた。  なんでもないようにそう言う幼馴染に、胸を打つ。    腐れ縁っていうのもあるかもしれないけれど、いつだって傍で味方でいてくれた奏。  感謝してもしきれないほどの恩がある。  律のことは話せないけれど、それでも静かに見守ってくれた。  「……ごめん」  何でも話せる仲だって言ったのに、言えなくてごめん。こんな僕の面倒を見させてごめん。  消え入りそうな声で謝れば、奏は大人びた表情で笑った。  「何年一緒にいると思ってんだよ。もっと俺を頼ってくれてもいいぐらいなのに」  心強くて、頼もしい。  奏ほど優しいひとを僕は知らない。  幼馴染で本当によかった。  じーんと感動していれば、滅多に生徒の様子を気にしない教授がこちらを見る。  「ほらそこ、ちゃんと話聞いて」  「はーい、すみません」  珍しい注意に奏が真顔で返事する。  近くに座る女子の集団にくすくすと笑われて、僕は耳を赤くして俯いた。  ◇◇  もうこの場所に来ることはないと思っていた。  近寄りがたい雰囲気は以前と変わらない。だけど、前とは違って今日は自分が出演するわけではないから緊張はマシかもしれない。  久しぶりに訪れたテレビ局一階の自動ドアを恐る恐る通り過ぎれば、ロビーで田島さんが待っていた。  渡された許可証を首から提げて、ゲートを通り過ぎる。すれ違うひとの視線が痛くて、息がしづらい。僕は迷子にならないよう、早足で後ろを追いかけるしかなかった。  「実は、吉良くんに渡したいものがあって呼んだんだ。もちろん、番組の見学もしてほしいんだけどね」  上階のスタジオに向かうエレベーターで、突然そんなことを言われて戸惑ってしまう。それが顔にも出ていたのだろう、田島さんは困ったように笑った。  「そんな怯えた顔しないでよ、悪い話じゃないから。ほら、これ」  そう言って手渡されたのは、デザインがバラバラの四枚の名刺。  オーディション番組の協賛を行っていた芸能事務所から、有名な歌手が数多く所属しているレーベルのものまで様々だ。  「これって……」  こんな僕でも一度は聞いたことのある名だたる事務所。その名刺を手にして、固まってしまう。  どうして僕なんかに、こんな有名事務所の名刺を……?  あまりにも僕が怪訝な表情をしているのがおかしいのか、田島さんはにこにこと笑顔を浮かべている。  「びっくりしてるね」  「そりゃ……」  これが全然違うひとから渡されていたら、偽物を疑っただろう。だけど、相手は業界に精通した敏腕プロデューサー。これは、紛うことなき本物だ。  「番組を観て、吉良くんの歌声を気に入ったって事務所からいくつか話があってね。さすがに勝手に連絡先を教えられないから、まずは僕から話すことになったんだ」  「事務所……」  「そう、吉良くんに所属してほしいってスカウトがきているんだ」  自分のことなのに、まるで他人事みたい。  現実味がなくて、理解が追いつかない。    「正直僕としても番組の結果は残念だったから、吉良くんがこんなに声をかけられているのも納得だと思ってる。でもこれはあくまでも周りからの評価で、最終的に決断するのは吉良くんだから。この世界でやっていく覚悟が必要だよ」  「……」  みんなと同じようにインターンシップに参加して、説明会に行って、就職活動をするものだと思っていた。  大企業なんて高望みしないから、普通の会社で働ければいい。大学三年生になって自分の将来を考えたとき、それが一番だと思っていた。  それなのに、全く想像もしていなかった新しい選択肢が突然生まれた。  僕なんかが芸能界?  まさか、嘘でしょ。どうせ売れない。    平凡には似合わない、キラキラな眩しい世界。  だけど、どうしてだろう。  すぐに僕には無理だと断れないのは……。  黙り込んでいると、エレベーターが目的の階に到着する。田島さんの後に続いて降りて、肩を叩かれる。  「何もすぐにデビューしてほしいってわけじゃないからね。見学しながら、まずはゆっくり考えてみるといいよ」  「……わかりました」  強ばった顔のまま、僕はスタジオに足を踏み入れた。  見慣れたセットが組まれたスタジオでは、大勢のスタッフがリハーサルを進めながら、本番前の準備に慌ただしく追われている。  (あ……)  セットを確認して、何の番組を収録するのか理解した瞬間、息を飲んだ。  ここは、はじまりの場所。  初めて律に出会って、恋をした場所に自分が立っている。そう自覚した途端、名刺の件よりもそのことで頭がいっぱいになってしまう。足が震えるのを誤魔化すのに必死だ。  八年前、この場所で、スーパーアイドル・東雲律は生まれたんだ。    昨日のことのように思い出せる、あの衝撃。熱いものが自然とこみ上げてきて思わず目を閉じれば、あの日の律が鮮明に瞼に浮かんでくる。  CDを発売する度、この番組に出演する律を見てきた。  言うなれば、ずっと見てきた夢の世界。  自分がそこに存在して、自分の目ですべてを見ていることが不思議でならない。  今誰がリハーサルをしているとかスタッフさんに注目されているとか、そんな周りのことなんて全く気にならない。僕はただ目に焼き付けるように、セットをじいっと観察していた。  「吉良くん、ちょうど今リハーサルが終わったみたい」  「あ、わかりました」  それから程なくして、リハーサルが終了する。  田島さんの言葉に頷けば、セットから一直線にこちらに向かってくる人影がひとつ。  「田島さーん!」  親しげに話しかけてきたのは、今年で芸歴十年目のアーティスト・|春野響《はるのひびき》。  有名人に疎い僕でも彼のことはよく知っている。律と仲が良くて、ツーショットがSNSに頻繁にアップされているから。  そんな彼は田島さんの影に隠れていて見えなかったのか、僕の存在に気がつくとぐりんと大きな瞳でまじまじと見つめてくる。  「もしかして、つむちゃん?」  興味津々といった様子で気さくに声をかけてくれる。けれど、どうして彼が僕を知っているのかわからなくて頭の中は疑問ばかり。こういう時、うまく返事ができない自分をまた嫌いになる。  「あれ、知り合いなの?」  「ううん、はじめましてだけど」  見かねた田島さんが間に入ってくれてホッと胸を撫で下ろす。初対面の人と話すのはただでさえ苦手だっていうのに、その相手が有名人だなんて置物みたいに立っていることしかできない。  「この子、律のお気に入りでしょ」  綺麗な桜色の髪を耳にかけながら、春野さんは言う。  僕と田島さんは顔を見合わせて、首を傾げた。心当たりが全くないし、そんなこと絶対ありえないんだけど。  「そうなの?」  「そうだよ」  「逆じゃなくて?」  「ぎゃく?」  田島さんが僕の代わりに尋ねると、今度は春野さんが頭上に?を浮かべる番だった。なんだか話が噛み合っていない。  「吉良くんは東雲くんのファンなんだよ」  「へぇ~」  説明を聞いて、ふむと頷いた春野さんに改めてじろじろと観察されて、居心地が悪い。  律の友人にファンであることがバレるのはなんだか気まずくて、縮こまる僕を見た彼は面白そうに口角を上げた。  「じゃあ、よかったね。つむちゃんの動画、律がずっと観てるよ。飽きもせず、毎日のように」  「え、」  どうして……。  その言葉しか頭の中に出てこない。ちっぽけな脳みそは考えることを止めてしまったみたい。  「ふふ、これ内緒ね。田島さん、本番もよろしくお願いしまーす」  「うん、こちらこそ」  にいっと笑ってウインクした春野さんは固まった僕の頭をぐしゃりと撫でると、手を振ってスタジオを出ていった。  律が僕の動画を観ている。  その言葉を反芻して理解しようとしても無理だった。言葉の意味は分かってる。だけど、理解が追いつかない。  何で、どうして、と疑問ばかりが湧いてくるのに、どうしても正解が見つからない。  ぐるぐると堂々巡りして、迷子にでもなってしまったかのような。そんな心地で立ち尽くしてしまう。  「あ、田島さん、ちょっと相談したいことがあるんですけど……」  近くを通りがかったスタッフさんが田島さんを見つけておずおずと声をかける。  「了解。吉良くんは大丈夫そう?」  「ハイ……」  「一旦そこに座っといてくれる? ちょっと行ってくるから、何かあったら周りに聞いてみて」  「わかりました」  スタジオの後方に用意されていたパイプ椅子に腰掛ける。一方の田島さんはスタッフさんに連れられて、足早にセットに向かっていた。  その後ろ姿を見送って、ため息をひとつ。  あれからずっと忘れようと努力して、幾重にも鍵をかけたつもりだった。  馬鹿だなぁ……。  つい自嘲気味に笑ってしまう。  律が関わったことを忘れるなんて、できるはずもなかったのに。

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