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羽化 - R

 ちょっとでも「好き」という気持ちがこっちに向いてくれたら。  そう思って仕掛けたのは俺なのに、紡には全く効いちゃいない。むしろ、俺の方がダメージを食らって、愛しい気持ちがどんどん増していく。  愛おしくて胸が痛いなんて、初めてだ。  分かっている。  直接的な言葉を避けて、逃げた俺の負けだって。  抱かれたい男性芸能人、恋人にしたい男性芸能人、その他諸々。  いろんな賞に何度もランクインしていたって、好きな子の前では形無し。  スーパーアイドルだって、恋をすればただのひとりの男だ。  「あの、律、大丈夫? 酔いが回った?」  急にしゃがみこんだから驚いたのだろう。あたふたしているところもかわいく見えるなんて、重症だ。だけど、俺を心配する気持ちが百パーセントだろうから、それも悪くないと思えてくる。  ふと顔を上げれば、チワワみたいに大きな真ん丸の目が様子を伺っている。じっとその目を見つめれば、じわじわと頬が朱に染まっていくのがおもしろい。  ……俺のこと、好きなくせに。  好きなのは顔だけ?  頑なに首を縦に振らない君に、そんな意地悪を言ってしまいたくなる。    君が好きなのは芸能人の俺だけなの?  ただの東雲律には興味無い?  本当は、そう言ってしまいたい。    だけど言ったら最後、君は罪悪感に顔を歪ませて俺のところから去ってしまうのだろう。あの、はじまりの日のように。  もしかすると、紡は俺以上に芸能人としての東雲律を大切に思っているかもしれない。俺だけじゃなく、ファンのことも気にしているのだろう、優しい子だから。  それが分かっているから、俺は笑顔を貼り付けて何も無かったように立ち上がる。  今はまだ、そのときじゃない。  いつからか自然にできるようになった作り笑い。本当は君にそんなものを見せたくないけれど、そうしないと怯えさせてしまうから今回ばかりは許してほしい。  「お水飲む?」  じりじりと周りから攻めていこう、なんて。  そんなことを考えているとは知らず、心配そうに眉を下げた紡がペットボトルを差し出す。  酔っ払ったふりをした、狡い大人でごめん。  自分が濁ってしまった分、紡の純粋な心、その曇りなき眼がより一層尊く見える。  眩しいなぁ……。  どんなに暗い夜でも、星空を散りばめた紡の瞳は綺麗に輝くのだろう。  きっと紡が傍にいれば、真っ暗な夜道に迷うことはない。孤独な夜に怯えなくて済むんだ。  ずっと、この瞳に映りたかった。  作りものじゃなく、東雲律として。  俺以外、見えないようにしてやりたい。    だけどピュアで初心で綺麗すぎる紡に、こんな欲望に塗れた気持ちを押し付けるわけにはいかない。  過ちは二度繰り返さない。  今はじっくり、ゆっくり、その時を待つのみ。  君にキスがしたいんだけど。  ……なんて、苦い顔をさせた紡に対して言える台詞じゃない。  きっと、君は知らないはずだ。  俺があの収録を、いや、君に会える日を楽しみにしていたことを。  それは、オーディション番組の応募締切が残り数日に迫ったときまで話は遡る。  その日最後の仕事だった音楽番組の収録を終え、マネージャーの楠木さんと共に廊下を歩いていると、たまたま田島さんとすれ違った。  「お疲れ様です」  「お疲れ様。……あ、東雲くん、この後って予定詰まってる?」  田島さんはよく音楽番組でお世話になるから、気楽に話せるスタッフさんのひとりだ。  いつものように挨拶して通り過ぎようとすれば、何かを思い出したらしい田島さんに引き止められる。  「いえ、今日はもう帰るだけですけど」  「ちょっと見せたいものがあるんだけど、どうかな」  面白いアーティストでも見つかったのだろうか。  田島さんだって、忙しいひとだ。  その間を縫ってまで俺に見せたいものがあるというのなら、拒否するのも申し訳ない。  「……いいですよ」  「こっち、ついてきてくれる?」  少し迷って頷けば、連れていかれたのは小さな資料室。ノートパソコンの前に座らされて、田島さんがマウスを動かせば、とある動画が再生された。  映し出されたのは、仄暗いカラオケの映像。画面がぐらぐらと揺れて、お世辞にも見やすいとは言えない。  スマホで慌てて撮ったのだろうか。音質もあまり良くない。Aメロが終わったところからスタートしているし、映像の完成度としては惜しいところばかりだ。  それなのに、ワンフレーズを聴いただけで一瞬で惹き付けられた。ぴしっと背筋が伸びる。    すぐに自分の曲だと分かったのは隣に座る楠木さんも一緒だったようで、小さく「律さんの曲だ」と呟くのが聞こえた。  透明感のある、伸びやかな歌声はほんの少しだけ緊張を滲ませていて、これでまだ未完成なのが末恐ろしいと感じるほど。きっと彼の本気はこんなものじゃない。そう思わせてくれる。  同じ曲のはずなのに、俺が歌ったものとは全くの別物に思えた。それに対して、不快感よりも興奮が勝る。  いくつもの宝石を散りばめたように煌めく瞳が、まっすぐに画面を見つめている。  その視線の先にいるのがミュージックビデオの中の自分であることに嫉妬すると同時に、そんな感情を自分が持てることに驚いた。  気がつけば、スカウトされて入った芸能界の荒波に揉まれておよそ八年。数えてみれば長い年月が経っているけれど、がむしゃらに駆け抜けた八年はあっという間だった気がする。  元々、有名人になりたいとか芸能人になりたいとか、そんなことを思ったことすら無かった。小学生の頃からこれといった将来の夢なんてなかったから、クラスメイトに聞いた人気の職業を作文に取り上げた。  自分が何をしたいのか。どんなひとになりたいのか。そんな漠然としたイメージすら抱けなかった、高校生の頃の俺。  周りと同じように大学に進学して、とりあえず内定をもらった企業にでも就職するのかな。  他人事みたいに考えて、ただなんとなく、流されるように過ごしていた。  そんな折、母親の病気が発覚した。  朝から晩まで汗水流して働いて、女手一つでここまで育ててくれた母親に恩返しがしたい。  それは常々考えていたことだったのに、現実は未成年の俺にできることなんて限られていて、そんな自分がやるせなかった。    病院のベッドに横になって、日に日に痩せ細っていく母親。  「そんなに心配しなくても大丈夫よ」  お見舞いに行く度、そう言って笑うけれど、日毎に弱っていく姿にも胸が傷んだ。  あれは暑い夏の日だったと思う。  病院からの帰り道、電車に乗ろうと駅に向かっていた道中にスーツを着た男に話しかけられた。  少し緊張気味の男は名刺を差し出して、楠木と名乗った。  そこに書かれていたのは、流行りに疎い俺でも知っていた有名な芸能事務所。聞けば、そこに所属してデビューしないかという話だった。  「それって稼げますか?」  どんどん病気が悪化する母親の治療のためにはとにかくお金が必要だった。  失礼を承知でストレートにそう尋ねる俺を馬鹿にすることなく、楠木さんは真面目腐った顔で頷いた。  「君なら売れる、絶対」  その瞳は嘘をついていなかった。  今この瞬間がはじめまして、そんな見ず知らずの人なのに、楠木さんのことを信じてみたくなった。  そうして俺はお金が稼げるなら何でもやってやると覚悟を決めて、芸能界に飛び込んだ。  青春時代を投げ捨てて、ただひたむきに与えられた仕事をこなした。  暴言を吐かれることはしょっちゅうあったし、SNSには誹謗中傷も書き込まれた。有名になるにつれて、アンチの数も増えていった。  心無い言葉はナイフとなり、数え切れない程の傷を作る。いつしかそれは瘡蓋となり、鎧に変わった。  芸能界なんて、レンズを通してキラキラなエフェクトをかけているだけ。裏側はそんな綺麗なものじゃない。  人間の汚い部分を嫌という程、目にしてきた。いろんなことを諦めて、たくさんのことに失望した。  好感度の高さが評判の芸能人が、裏では態度が悪くてスタッフをこき使っていることだってザラにある。  逃げ出したくなることは度々あった。  だけど、それが出来なかったのはここまで育ててくれた母親への恩返しのため。それだけが芸能活動を続ける唯一の理由だった。  数年もすれば感覚は麻痺するもので、いつからか心を動かすことが煩わしくなっていた。  喜びも悲しみも、感情全てが邪魔なもの。どれも芸能界でやっていくには不要だ。  まだ純粋だった頃の俺はどんどん作り笑いが上手くなることに心が削られていたのに、今となってはどうやって心から笑っていたのかさえ分からない。  カメラに映し出されたそこに、本当の東雲律は存在しない。大衆に求められた作りものの彼は本音を隠して、完璧な東雲律を演じることしかできない。  そんな日がこれからもずっと続くと思うと、全てを投げ出してしまいたくなった。  俺って何なんだろう。  一体、誰がただのひとりの人間として扱ってくれるのだろう。    そんな疑問が浮かんでも答えは一切出てこなくて、暗闇に取り残された気分になる。  はじめは暗闇に囚われないように独りでもがいていたけれど、足掻くことさえ諦めてしまった。これって、見世物小屋の生き物たちと何が違うのだろう。  ……俺の幸せって、どこにあるの?    恵まれた環境にいることは分かっている。この立場が望んでも簡単に手に入れられるものではないことも理解していた。    だけど、寂しかった。  俺はずっと、独りだった。  そんな俺が一瞬で虜になった。  目が離せない。彼のことを知りたい。  小さな画面に映し出された彼は、俺とは違って純粋で、眩しくて綺麗だった。心が感じて動く、感動ってこういうことだったと思い出す。  あたたかな春が来て雪が溶けていくような、そんな春の陽だまりを感じる。真っ暗闇に一筋の光が射し込むのが見えた気がした。  君の名前は? 好きな人はいるの?  どうして俺の曲を選んだの?  もしかして、俺のファンかな。  そうだったらいいな。  次々に彼に対する興味が湧いてきて、止まることを知らない。  君の笑う顔が見たい。  俺の名前を呼んで、まっすぐに見つめてほしい。  君のことなんて何も知らないのに、そんなことを望んでしまう。    胸の奥が軋む音がした。  心を無くして数年、久しぶりに気分が高揚した。  こんな気持ちは初めてだ。  思えば誰かにちゃんと恋をした経験がなかったから、その時はよく分からなかったけれど。  ずっと探していた宝物を見つけたみたいに心が踊る。惹き付けられて、たまらない。  じんわりと氷が溶かされるみたいに胸の奥がぽかぽかと暖かくなる。    一目惚れって、こういうことをいうのかな。  きっと、このときから俺は君を――……。  「田島さん、この映像って……」  「今度オーディション番組をやるんだけど、それに応募してきたんだよ。でも一曲フルでっていう決まりでね、僕としては通過させてあげたいんけど……。扱いに悩んでるところなんだ」  新たな人材の発掘に目がない楠木さんが仕事人の目を光らせながら尋ねると、うーんと唸りながら田島さんが答えた。  「通過、させるべきだと思います」  「東雲くんもそう思う?」  「はい」  君のことをもっと知りたいのに、ここで落とされてしまっては困る。本当はこういうことに口を挟みたくないけれど、今回ばかりは私情を優先させてほしい。    そう思って口を開けば、田島さんと楠木さんが驚いたようにこちらを見る。俺が提案するのはふたりとも予想外だったらしい。  「東雲くんのお墨付きなら通過させてもいいかな、うん。審査員の方も説得してみるよ、ありがとう」  「……審査員?」  「JTOだからね、芸能事務所とか映画監督から審査員を呼ぶ予定なんだよ」  JTO、開催される度に話題になるオーディション番組だ。その存在はもちろん知っている。  ルールももちろん大事だけど、それ以上に才能のあるひとを発掘するのがこのオーディション番組の目的なはず。彼ほどの才能を落とす方が番組的にも損だろう。  だからきっと、彼はうまくいく。  そう思うとほっとして、小さく笑みが溢れた。  「もしスケジュールが空いてるなら、東雲くんにも出演してもらえたらいいんだけどね~」  「収録はいつですか!?」  「あ、興味ある?」  思いがけない提案に遠慮なく食いついてしまう。告げられた日程を楠木さんが確認すると、雑誌の撮影が午前中に一件だけ入っていた。  「残念ですが、難しそうですね……」  「うーん、じゃあ決勝だけのスペシャル審査員とかはどうだろう」  「それなら時間的には間に合いそうですけど、律さんどうします?」  「それでいいよ、出演する」  田島さん的にも俺が出演した方が盛り上がると考えているのだろう。そんな妥協案を出してくれる。  俺は一目でも君に会えるなら、何だっていい。  決勝まで勝ち進んでくると信じているから。  だから、俺は待っている。  君に会える、そのときを。  「ねぇ、田島さん。この映像、俺にちょうだい」  「そんなに気に入った?」  「うん、ちょっとね」  「珍しいね。本当は駄目なんだけど東雲くんだしなぁ、今回だけ特別だよ」  ちょっとだなんて嘯いて、手に入れた二分弱の動画。移動時間や休憩時間をはじめ、暇さえあれば何度も何度も繰り返し再生した。  サイダーのように清涼感のある歌声は、耳馴染みがいい。うまくいかないときも、彼の声を聴けばスイッチを切り替えられた。  話すときはどんな声をしているのだろう。俺に会ったら、どんな反応をするのだろう。君への興味は日に日に増すばかり。  動画をもらっておいて良かった。これがなければ、絶え間なく湧いてくる飢えを凌げなかっただろう。  「律、何観てんの~」  「あ、勝手に見るなよ」  「若いね、学生?」  「…………」  「えー、めっちゃ怒ってるじゃん。なんでよ、ごめんって」  たまたま雑誌の撮影が重なった響に画面を見られてしまうこともあったりしたけど。睨みつければ離れていったから、まあ良しとする。  いつしかその動画は誰にも共有したくない、俺の宝物になっていた。  君に会える収録日は待ち遠しいはずなのに、世間に見つかってみんなのものになってしまうのは嫌だと思う。  会えない日々に募っていく思いは、日毎に独占欲や執着も絡んでいく。  俺だけを見て、俺の曲だけを歌ってほしい。俺の全てをあげるから、君の全てが欲しい。    彼の爽やかな歌声に似つかわしくない、どろどろに溶かされた執着を抱いていることがバレたら逃げられてしまうかな。かといって抑えようのない感情は、もう今更どうすることもできなくて手遅れなんだけど。  二十五年生きてきて、初めて出会った唯一無二。  君に出会って、モノクロだった景色が色鮮やかなものに変わった。  ずっと、夢を見ていた。  君に恋をするまで、それは叶わないものだと思っていた。  きっと、君は知らないだろう。    インタビューで『律と一緒に歌いたい』と答える姿を見て、君も俺を望んでくれるのだと歓喜に酔いしれていたことなんて。  芸能人のレッテルを剥がした、ただの東雲律という人間を見てほしかった君に、神さま扱いされて傷ついたことなんて。  君は絶対に知らないだろう。  ……でも、別にそれでいいんだ。  君が俺のファンになったきっかけ。  俺が君に恋をしたきっかけ。  実はふたりとも一目惚れでそっくりなんだよ、なんて。  そんな過去の話は、今、俺の隣にいてくれるなら君は知らなくていいんだ。

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