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臆病者の終着駅

 律は何か言いたそうなのをぐっと堪えると、笑顔を作って歩き始めた。  きっと触れたら駄目なのだろう。子どもの頃なら踏み込めたかもしれないけれど、僕らはお互いに大人になってしまったから。僕は何も言わずに後をついていくことしかできない。  「タクシー乗ろっか」  「うん」  交通網の多い道に出れば、タクシーなんていくらでも走ってる。さすがは都会。  終電はまだ残っているから、律がタクシーに乗り込むのを見送ったら僕はいつも通り駅まで歩こう。  そう思っていたのに、タクシーの中に押し込まれた。  「ねぇ、僕は電車で帰るよ」  「いいから、乗って」  「りつ、」  「ちょっとでも一緒にいさせてよ」  大好きな人にそんなことを言われたら、もう意味のある言葉は出てこなかった。  さすがに車内で手を繋ぐのはやめた。仮にも人前、酔っ払いといえど変に思われたくない。    それなのに、急激に手の温もりがなくなっていく感覚がした。寂しいと思ってしまっていることは、もう誤魔化しの効かない事実だった。  だんだん離れがたくなっている自分に気がついているのに、僕は見て見ぬふりをした。少しはそんな僕の我儘も許してもらえないだろうか。  夜の街を駆ける車窓からまだまだ煌びやかなネオン街を見つめる。  律のことがやっぱり好きだ。  それは紛れもない事実だった。  ここに来たのはたったの一度だけだというのに、しっかりと記憶している自分に笑ってしまいそうになる。  どれだけ必死にはじまりの夜を忘れようとしても、この調子だと完全に無かったことにはできなかっただろう。  まさか再びこの場所に来ることになるなんて。  人生って本当に何が起きるか分からない。  律の住むマンションは以前と変わらず、一般人は足を踏み入れにくい近寄り難さがある。  やっぱり疲れが溜まっていたのだろう。瞳を閉じてすやすやと眠っている律は、自宅の前に到着したことに気がついていない。  「起きて」  「んん、つむぐ?」  「そう、タクシー着いたよ」  永遠に見ていたい、天使の寝顔。  起こすのは心苦しいけれど、運転手さんを困らせてしまう。  体を揺すれば、とろんと寝ぼけ眼が僕を映す。  まだはっきりと意識は覚醒していないらしい。  律の代わりに代金を支払い、タクシーから引っ張り出した。すると、離さないと言いたげに腕が回される。  さっさと走り去っていくタクシーを見送って、僕はため息を吐いた。  「僕はここで帰るから、ちゃんとベッドで寝てね」  「は?」  その言葉にハッと目を見開いた律が僕の顔を覗き込む。近いし、こわい。  何冗談を言ってんのと目が訴えかけてくる。あまりにも綺麗なひとの真顔は威圧感がすごい。  「疲れてるでしょ、早く休んだ方がいいよ」  「……泊まっていけばいいじゃん」  「え?」  「明日の朝、家まで送るから」  どれだけ高い壁を作っても、どれほど頑丈にバリアを張っても、律はいとも簡単にそれを乗り越えてくる。  今から駅まで走ればギリギリ終電には間に合うだろう。だけど、掴まれた手がそれを許してくれる気配はない。  蘇るは、はじまりの夜。  自分が自分じゃなくなる感覚。  今までにないぐらい熱くて、気持ちよくて、ふわふわした夢心地。  嫌という程、繰り返し夢に見た。  唇を噛んで考え込む僕を見た律は、気まずそうに呟いた。  「前みたいなことはしないって約束する。ただ紡と一緒にいたいだけだから」  律は律で、あの日を振り返っていろいろ思うところがあったらしい。  その瞳に後悔と反省が滲んでいたから、僕は仕方なく頷いた。好きな人の頼みを断れるほど、僕は残酷ではないし勇敢でもなかった。  もう、何だっていいや。  ぱあっと笑顔を咲かせる律を見ていると、そう思う。  律が笑って過ごせるなら、そこに僕の意思は必要ない。律の幸せが僕の幸せだから。  数ヶ月ぶりに足を踏み入れた律の家。  そこは記憶していたものと何ら変わりはなく、相変わらず生活感がない。失礼ながら、空虚な部屋だと思う。  眩しいほどのスポットライトと歓声を浴びた後、この部屋にひとりで帰ってきた律はどんな気持ちなのだろう。  ……寂しくはないのかな。  そんな馬鹿みたいなことを考えて一瞬でそれを打ち消す。  寂しいに決まってる。  だから夏だっていうのに、どこか冷たい空気を感じるんだ。  前も同じように孤独を感じたことを思い出す。  何とも言えない気持ちになっていれば、テーブルに適当に置かれた雑誌が目に入った。  律がレギュラーモデルを務めている雑誌。全て入手しているはずなのに、見覚えのない表紙をまじまじと見つめてしまう。  「ああ、それは今月発売されるやつの見本誌だね。別に見てもいいよ」  「えぇ……」  僕の視線の先を辿った律がなんてことないように言う。  ……オタクにそういうことは簡単に言っちゃいけないんだよ。律はファン思いだけど、案外オタク心理を理解していないのかもしれない。  本当は駄目だって断らなくちゃいけないのに。  ちゃんと他のオタクと同じように、発売日に店頭で並んだものを買って売上に貢献しなくちゃいけないのに。  喉から手が出るほど、見たい。  ――オタクならここは断らなくちゃ。  ――見たいなら見ちゃえばいいよ。  天使と悪魔が同時に囁きかける。  「ふふ、待てしてるチワワみたい」  目の前の餌を前にうーんと葛藤していれば、ひとりで百面相している僕が面白かったのか、律が笑った。  かわいいなぁ……。そう零すように付け足された言葉は、聞かなかったことにしておく。  「そんなに悩むなら、先にお風呂入っておいで」  そう言って渡された、バスタオルと律の服。  僕は素直に受け取って、頭を下げた。  シャワーを浴びながら、心はここにあらずの状態。シャンプーしているときも、体を洗っているときも、何故自分がここにいるのかがよく分かっていない。  ……そうだ。  律はどうしてバイト先が分かったんだろう。  忘れていた疑問が思い浮かぶ。  後で聞くしかないか。  そう思いながら浴室を出てバスタオルに包まれば、自分が律の香りで満たされていることに気がついた。  「…………」  なんだか急に堪らなくなって、無言でその場にしゃがみこんだ。  だって、こんなの、律に抱きしめられているみたいだ。ぽたぽたと髪から雫を垂らしながら、僕はきゅっとバスタオルの先を摘んだ。  顔が赤いのは、きっと、お風呂上がりだから。今はそういうことにしておこう。  「紡、こっちおいで」  律から借りた、僕には少し大きい服を着てリビングに戻れば、待ってましたと言わんばかりに律が楽しそうに椅子を示す。  言われるがまま大人しくそこに座れば、律がドライヤーを起動した。  「自分でやるよ」  「やだ、俺にさせて」  背後を振り返って言うけれど、律は頑なに首を横に振った。  僕なんかに構わずに、律もさっさとお風呂入ってくればいいのに。そう思うのに、その優しい指先が触れるのが心地よくてそれ以上何も言えなかった。  「髪を乾かすだけでこんなに愛しさが募るなんて初めて知ったよ」  「…………」  乾かし終えた律は満足そうに僕の髪をするすると撫でる。そして、何も言えなくなっている僕の顔色を見て、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。  「お風呂入ってくるね。雑誌見てもいいし、先に寝ててもいいから」  「……ん」  照れくさくて顔も見ずに頷いた僕の髪をもうひと撫でした律は、まるでスキップしているかのような軽い足取りで部屋を出ていった。  ……嗚呼、駄目だ。  律に甘やかされるのが嫌じゃないと思ってしまった自分がいる。  僕は律の撫でた部分を指でなぞり、熱が引くのを待った。  ……さて、どうしよう。  家主、否、神さまを置いて先に寝るのは申し訳なくてリビングで待つことにした僕の前には見たくてたまらない未発売の雑誌。  うんうんと悩んでいると、シャワーの水音が聞こえてくる。  なんだかいけないことをしているような気分になりながらごくりと唾を飲み込んで、僕は恐る恐る雑誌に手を伸ばした。  ぺらり、震える指先で表紙を捲ると香水のボトルを手に取り、挑発的な視線を送る東雲律がページを独占していた。    金色の髪が少し顔にかかって、影を作っている。毛穴ひとつない肌は艶々で、指先まで傷一つなく整えられている。  まるで絵画のような、あまりにも美しすぎる一枚だ。  雑誌は多少加工しているのが当たり前。それなのに、実物の方が更に美しいというのだから恐ろしい。  今までその美貌を目の当たりにして、目が潰れていないのが奇跡だと思う。  「……好き」  何度も何度も思って、独りで爆発させてきた感情が思わず漏れた。果たして芸能人としての東雲律への気持ちか、はたまた律に対してなのか。  きっとそれは後者に近くて、だけど……、ううん、だからこそこれから先、ずっと、本人に直接伝えることは絶対にできない二文字の言葉。  本人を抱きしめることはできないから、代わりに雑誌を抱きしめる。  何度見たって、その顔面の造形の完璧さに惚れ惚れしてしまう。たったの一ページしか見ていないというのにもう満足だった。  この雑誌は毎月見開きで律の連載が掲載されている。今回で確か記念すべき十回目。  インタビューだったり、対談だったり、ロケだったり、その月によってテーマに沿った内容はまちまちだ。  今月は――……とページを探して、ポップなフォントの「東雲律連載企画」の文字が目に入る。  見つけた。  だけど、他のオタクはまだ見ることができないのに僕だけこんな形で律の紡いだ言葉を読んでもいいものか、躊躇ってしまう。  ――恋話してる時間が一番楽しいよ。  目立つように書かれた見出しに心惹かれるけれど、ぎゅっと目を瞑ってそのページを飛ばした。  テーマが恋愛だなんて。  それを知ったら途端に臆病になってしまって、胸の奥がきゅっと縮んだ。    普段なら律の恋愛事情だと興奮しながら読み進めただろうけれど、今は違う。なんとなくもやもやして、嫌だと思ってしまった。嫉妬する権利なんてどこにもないのに。  「あ、佐倉くん」  そして、たまたま開いたページには律と大学の後輩・佐倉くんのツーショット。少し前からモデルとして活動を始めたことは知っていたけれど、まさか律と肩を並べる日が来るなんて。  顔馴染みの活躍に頬を弛ませながらほっこりしていると、後ろから覆い被さるように腕が回された。その瞬間、身体中に緊張が走る。  「……浮気?」  「え?」  「他の男の名前、呼ばないで」  「……僕は今も昔も変わらないよ」  ずっと僕の一番は律だから。  そう思って、少し肩の力を抜きながら答えれば、律は拗ねたように唇を尖らせた。  いつの間にシャワーの音が消えていたのだろう。集中していて全く気が付かなかった。  「佐倉くんのことも好きなんじゃないの?」  「大学の後輩ってだけだよ」  「……なにそれずるい」  「えぇ……」  あまりにも子どもっぽい言い草に戸惑いの声を漏らせば、律は嫉妬深く呟いた。  「俺だけ見てて」  キャラメルをどろどろに溶かしたような、甘ったるい声。耳元に吹き込まれれば、全身が蕩けそう。  その声が侵食するみたいに、耳からどんどん熱を帯びていく。せっかくシャワーを浴びたのに、また汗をかいてしまう。  どれだけ近づいたって未だに慣れる気配なんてない。真っ赤になって固まった僕を見た律は機嫌を直したのか、唇に緩やかな弧を描いて体を離すと、立ち上がった。  「紡、おいで」  その声につられて立ち上がり、律の後をついていく。あの日の記憶が脳裏を過ぎる前に、僕は気になっていたことを口にした。  「ねぇ、律」  「ん?」  「何でバイト先が分かったの?」  先を歩いていた律はぴたっと立ち止まると、気まずそうな、バツが悪そうな表情をしてゆっくり振り向いた。    「……言わなきゃだめ?」  その様はまるで悪いことをしたと分かっている子犬のよう。眉を八の字にして、潤んだ瞳が訴えかける。  あざとくて、許してしまいそうになる。  だけど教えてもない情報を握られているのは、相手が律とはいえ正直怖い。せめて、その出処だけでも知っておきたい。  「僕は知りたい」  「……分かった」  渋々といった様子で頷いた律はUターンをすると、いつも使っている僕の鞄を拾い上げて手を引いた。座らされたベッドで隣に並ぶ。    僕の鞄に何か秘密でも?  不思議そうに見つめれば、律は苦笑した。  「やっぱり気がついてなかったんだね」  「何のこと?」  「これ」  勝手に鞄を開けてがさごそと漁ると、何かを見つけたらしい。綺麗な指先で摘んでいるのは、見覚えのない物体。  眉間に皺を寄せてまじまじとそれを見つめてみるけれど、これが一体何なのかは分からない。  「これね、GPSで場所が分かるんだよ」  「は……?」  「だから家もバイト先も大学も、紡のいる場所は聞かなくても知ってたよ」  言葉にならない声が漏れた。  待って。理解が追いつかない。  それって、ストーカーと一緒では?  神さまに対して、そんな無礼なことを考えてしまうのも無理はない。  「初めて会った日に紡の鞄に入れたんだ、あの日限りで終わらせたくなかったから。あれっきり会えていなければ、偶然を装って会いに行くつもりだった」  「どうしてそこまでするの……」  思ってもいなかった告白に動揺を隠せない。  僕なんかにそこまでする必要があるわけないのに。混乱した頭は、律の言葉を受け止めきれない。  吐息のように漏れた言葉を聞き逃さなかった律は、悲しみの色を纏いながら下を向いて微笑んだ。  「怖がらせるって分かってた。だけど、それ以上にもう会えなくなる方が嫌だった」  「…………」  「ごめんね、紡が思っているような健全な神さまじゃなくて」  それはあまりにも切ない懺悔。  僕の神さまは、清廉潔白な神様ではなかった。  どう声をかければいいのか、分からない。  隣にいるはずなのに、映画のワンシーンを観ているかのような。  どこか他人事のような心地で、自分が当事者であることを忘れてしまいそうだった。  「こんなに執着するほど誰かを好きになったのは初めてなんだ」  「…………」  「紡が俺から離れていくのが怖い」  長い睫毛で瞳に影ができる。  その横顔は何よりも美しくて、けれど確かに愛おしかった。  「ごめんね」  「……謝らなくていいよ」  「うん、それでもごめん」  「……狡いなぁ」  だって、謝られたら許すしかないじゃないか。元よりそれ以外の選択肢は持ち合わせていないのだけど。  悪いことをしたと反省している子犬のような姿に絆された僕は仕方ないなぁと、小さな笑みを零すしかできなかった。結局、律になら何をされたって嫌いになることなんてできないのだから。  この話はもう終わりだと寝室に向かった後、最早恒例とも言うべきか、一緒に寝る・寝ないの論争を繰り広げた僕ら。結局大方の予想通り、「じゃあ俺が床で寝るよ」という律の一言で決着がついた。  いつもそう。僕の負け。    だけど文句の一言さえ言えない僕は先にベッドに入った律を一瞥して、緊張しながら同じベッドの端に寝転んだ。  しんとした真っ暗な部屋。  ぼんやりと天井を眺めても、まだ夜に目が慣れない。  「ふふ、今日がずっと続けばいいのに……」  約束通り僕に触れることはせず、律は独りごちた。その声がホットミルクみたいに優しい甘さを孕んでいるものだから、胸の奥がきゅっと切なく泣いた。  しばらくすれば、律の寝息が聞こえてくる。それは僕にとって、静かな夜に聞く極上のBGM。  寝返りを打って、律の方を向く。  天使のような寝顔がぼんやりと見えた。  手を伸ばせば触れられる距離に律がいる。  ただそれだけで胸の高鳴りは止まらなくて、心臓の音が部屋中に響いているようで落ち着かない。  距離を縮められた分だけ、後ろに下がっている自覚はある。だから僕は、いつまで経っても律に触れることはできない。  それは勇気が出ないとか、そんな簡単な理由じゃない。    ……僕はただ、終わりが来ることが怖いのだ。    僕の人生は律ファースト。  律だけがナンバーワンで、オンリーワン。    これから先もずっと、律は僕の人生のセンターを陣取り続ける。どんなことがあっても、何をされても、この気持ちだけは変わらないと確信している。  ……だけど、律は違う。    僕を好きになった?  それは律が勘違いしてるだけだよ。    あの東雲律が僕なんかに恋するわけがない。そんなこと、誰よりも理解している。    百歩譲ってもし仮にその気持ちが本当だったとしよう。だけど、情熱的に愛を囁いていたって、次の日にはその熱がすっかり冷めているかもしれない。  ゴールのない僕らの関係は、いつかきっと終わりがやってくる。    地味で平凡な上、男である僕は綺麗な女の人に勝てっこない。結婚という形でお互いを縛る関係にもなれない僕らに、未来の確証なんてないのだから。  律に運命の人が現れたら、僕はあっさりと捨てられる。泣いて縋ることもできず、律の前から姿を消すことしかできない未来が目に見える。  そのうち僕との思い出さえ綺麗に忘れられて、律の記憶の片隅から吉良紡は存在しなくなる。  そうなった時、僕は僕でいられるだろうか。律から消えるということは、僕にとって死を意味するのと同じだ。    それなら、ただのオタクとして遠くから見守っていたい。それができなくても、せめて今の距離感を保ったままの方がいいんじゃないって思ってしまう。  本当は、僕だって律のことが好きだと伝えたい。  だけど、一度手に入れてしまったらそれだけ離れがたくなるから。幸せをもらった分だけ、傷付くことが怖いから。  だから一歩踏み出すことを躊躇って、逃げ出すこともできず、臆病者はその場で足踏みをすることしかできないのだ。  ◇◇  翌朝、目が覚めた僕はなぜか律と肩を並べて、迎えにやって来た楠木さんを玄関で出迎えた。  始発が動き出したら帰ろうと思っていたのに。  そんな僕の考えなんてお見通しだったのか、律にいろいろと言いくるめられた結果、こんなことになった。  楠木さんは死んだ目をする僕と上機嫌にニコニコしている律を視界に入れると、ハッと息を飲んだ。  「まさか……」  「いや何も無いですからね」  「あんなに熱い夜を過ごしたのに、ひど~い」  即座に否定すれば、律が悪ノリする。  「プライベートはお任せしてますけど、紡さんの気持ちは尊重しないと駄目ですよ」  「何でマネージャーが背中押してるんですか」  「合意だから大丈夫」  「ならいいです」  「いや、こっちがよくないです」  日本で一番売れているスーパーアイドルのマネージャーがそれでいいのか。  僕の声なんて聞こえていないみたいに巫山戯たやりとりを続ける二人。  朝から何なんだ、無駄なカロリーを消費している気がしてならない。わざとらしくため息を吐き出せば、楠木さんは咳払いをすると居住まいを正した。  「さて茶番はこの辺りにして、紡さんの家まで先にお送りしますね」  「それなら大丈夫です。もう電車も動いてるので」  「駄目、ちょっとでも一緒にいたい」  「律さんもこう言ってますし、少し早めに来ているので時間なら大丈夫ですよ」  頭の回る二人によって、包囲網は既に完成されていた。  「ほら行くよ、家の場所なら分かってるんだから」  「……こわいよ」  「逃げられないってやっと分かった?」  「…………」  「ふふ、ごめんね。俺も本気だから」  口調は冗談じみているのに、目の奥が本気だった。青い炎がゆらゆらと揺れていて、僕はそれ以上何も言えずに黙って車に乗り込んだ。

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