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弱虫の独りよがり

 公演が終わり、規制退場のアナウンスが行われている。僕は生気が抜けたように全身の力を抜いて、椅子に腰掛けていた。  何にも言葉が出てこない。緊張の糸が弛んだような感覚。少しでもさっき見た景色を記憶に残しておこうと、脳みそがフル回転している。  短い人生において何にも代え難い、とてつもなく素晴らしい二時間半だった。生はやっぱり違う。アイドルの東雲律をより一層好きになった。  「はぁ……」  「紡さん!」  最高だったと幸せのため息をこぼしていれば、余韻に浸る暇もなく普段より少しテンションの高い楠木さんがやってくる。  やっぱりマネージャーさんもコンサートは楽しいものなのかな。呑気にそんなことを考えていれば、遠慮なく投下される爆弾。  「律さんが呼んでます」  「お断りします」  「だから、紡さんを連れて行かないと僕が死ぬんですよ」  「今回だけは絶対に無理です!」  ついさっきまで五万人の歓声を浴びていた、アイドルモードの律に合わせる顔なんてない。直視したら目が潰れるし、同じ空間にいたら息ができない。  この距離で、更に五万人に希釈されていたから、二時間半経っても生き残っていられたのに。アリーナだったら、一曲目で僕の命は尽きていた。目の前で純度百パーセントの律に会うなんて、即死ものだ。  「紡、あんまり楠木さんを困らせるなって」  「奏さん……!」  「奏……」  羞恥心をかなぐり捨てて椅子にしがみついて抵抗していれば、見かねた奏が間に入る。  奏だけは、いつでも僕の味方だったはずなのに。何故か楠木さんの肩を持たれて、僕の味方はどこにもいないのかとショックを受けた。  「……僕の命がどうなってもいいの」  「お前の息が止まったら、律に人工呼吸するよう頼んでおくよ」  「おいこらバカ、絶対にやめろ。とどめ刺すな。そんなことされたら、確実に死んじゃうから」  気分はまるで、ヒステリックに泣き叫びながら自分にナイフを突き刺す寸前のヒロインだ。  ぶるぶると震えながら首を横に振ると、やりとりに飽きたのか、奏はそそくさと荷物をまとめて立ち上がる。薄情者めと、その姿を睨みつけた。  「ほら、俺もついていってやるから」  「……奏の裏切り者」  いつもクールなのに、そうやって見せる優しさがずるい。悔しいけど、かっこいいと思う。本人には絶対言ってやらないけど。  奏にそこまで言われたら、もう逃げ場なんてどこにもなかった。コンサート終わりとは思えないほど暗く沈んだオーラを背負い込んだ僕は、今から刑が執行される罪人のように重たい足取りで前を歩く楠木さんと奏を嫌々追いかけた。  楠木さんに案内されて、控え室に通される。今まで感じたことのない緊張が襲ってくる。息を止めながら部屋に入るけれど、そこに律はいなかった。  「あ、つむちゃんだ」  「春野さん」  ほっと息を吐いた僕にひらひらと手を振りながら声をかけてきたのは、自分の楽屋かのように堂々とソファで寛ぐ春野さんだった。  お会いするのは、収録を見学させてもらったとき以来。こんなところでまた会うことになるとは思っていなかったから、ぴしっと背筋が伸びた。  「つむちゃんも律に招待されたの?」  「……はい」  「ふふ、嫌そうだね」  「…………」  「あはは、否定しないと律が悲しむよ」  そう言われましても、と顔を顰める僕を見て、春野さんがこれは愉快だと大笑いする。  「俺が何だって?」  じとりと黙ってその姿を見つめていれば、するりと背中から手が回されて、すっかり嗅ぎ慣れた香りに包まれる。  イケメンにしか許されていないバックハグ。どきっと心臓が跳ねて、そのまま喉から出てきていないかと心配になる。身体がかちんこちんに硬直して、感覚がない。  「んー、つむちゃんが律のこと嫌がってるって話」  「そうなの、紡?」  尋ねられると同時にぽたりと雫が落ちてきて、彼がシャワーを浴びていたのだと分かった。  嗚呼、どうしようもなく彼が好きだ。  何にも言葉が出せない。  後ろを振り向くことすらできない。  どんどん赤く染まっていく頬や耳には、とっくの昔に気づかれているだろう。  「つむちゃん、そのままだと声出せないって。離してやりなよ」  「勝手につむちゃんって呼ぶなよ」  「いいじゃん、かわいいでしょ」  「見んな、喋んな」  「はぁ~、ケチな男は嫌われるよ」  「うるさい」  春野さんの助けが入って、温もりが離れていく。背中は寂しくなったけど、ちゃんと呼吸ができて少しだけ落ち着くことができた。  【side K】  部屋に入ってから紡しか見えていなかった男が体を離して、やっとその他の存在に気がついた。ぽんと紡の頭を叩いた後、こちらにやってくる。  紡とそれ以外、あまりにもはっきりとした線引き。つい数分前まで五万人を魅了して、全力でアイドルをしていた人と同一人物かと苦笑する。  東雲律、幼馴染の神さま。  そしてつい最近、恋人になったらしい。  口角を緩やかに上げて、浮かべるのは柔らかな微笑み。完璧なまでに計算された表情。別に好きじゃないけれど、恐ろしいほどに綺麗な顔だと同性ながらそう思う。  だけど、張り付けられたそれが作り笑いだと気づけるひとはそうそういないだろう。ぱちんと目が合って、そう思った。  「あ、君が奏くん?」  「はい、紡がお世話になってます」  朗らかな口調でフレンドリーに話しかけてくるけれど、瞳の奥で警戒されているのを感じる。他人行儀に返せば、心の内を読むようにじっと見つめられた。  一瞬の間、お互いに腹の中を探り合った。同族嫌悪、ほんのちょっといけ好かないって、多分あっちも思ってる。  まぁ、恋人に一番近い男が俺だって分かってるだろうし。それだけ紡が愛されているのだと思えば、何にも気にならなかった。  俺は東雲律なんて興味無いし、今日だって無理やり連れて来られたみたいなものだから、本当はさっさと帰りたかった。  けれど、楽屋について行こうと思ったのは、律にひとつだけ言いたいことがあったから。  あんなでも俺にとっては唯一無二の幼馴染だから、たとえスーパーアイドルでも紡を傷つけることがあったら許さない。  律の背後を見れば、春野響との話に花を咲かせる紡が確認できた。言うなら今しかない。  「どうだった、」  「東雲さん」  笑顔を貼り付けたままの律が今日の感想を尋ねてくる。無礼を承知の上、それを遮って低い声で囁いた。  何だと眉間に皺を寄せる彼に構うことなく、ボリュームを更に抑えて言葉を続けた。  「紡が不安がってました」  「……は」  「貴方が手を出してこないって」  紡が本人に言えるわけがない。ましてや相手はあの東雲律、そんなの無理に決まってる。自分で言えとは言ったものの、紡にできるわけがないと知っていた。  紡が今なお不安を抱えているのは、見ていればすぐに分かる。これまで度々様子がおかしかったときも、きっと原因はすべてこの人にあった。  これは幼馴染のお節介。でも無駄じゃなかったって、この人の顔を見ればよく分かる。  さっきまでの余所行きの東雲律をどこにやったのか。ギラギラと抑えきれない欲望を滲ませて、余裕のない表情をしている律は随分人間らしいと思う。    「……教えてくれてありがとう」  浮かべる表情は作り笑いなんかじゃない。綺麗に弧を描く唇を舐めながら、妖艶に笑う東雲律は紡を見据える。それはまるで肉食動物が獲物に食らいつく寸前のよう。  幼馴染の性事情なんて全然知りたくないけれど、いつまでも隣でため息を吐かれるのも鬱陶しい。  だけど、これでもう大丈夫。俺の役目は終わりだ。紡に向かって足を進める律の後ろ姿を見つめて、ほっと息を吐いた。  そんな俺の肩をポンと叩いて労うのは、同じように、否それ以上に苦労しているひと。  「奏さんも大変ですね……」  「分かってくれます?」  「はい、お互いに頑張りましょう」  数分前と比べて一気に老け込んだ表情になった楠木さんと固い握手を交わす。これからもきっと、俺たちはこのふたりに振り回されるんだろうなと思いながら。  【side K 終】  「あーあ、何が楽しくて聖なる夜に親友のコンサートに来てるんだろう」  ソファに脱力する春野さんは拗ねたように唇を尖らせる。律より歳上のはずだけど、春野さんの方が子どもっぽい。  「つむちゃんはいいよね、好きな人と過ごせるんだもん」  「えっ、あ、そんな……」  「ほんとすぐ真っ赤になっちゃうね。かわいいけど、そんなんだったら夜の方も大変じゃない?」  「…………えと、」  「え、何その反応。もしかして、まだしてないの!?」  「ちょっと! 声大きいですよ!」  ガバッと起き上がって、驚きに目を見開く春野さんの口元を手で抑える。いくら限られたひとしかいない楽屋だとはいえ、声が大きすぎる。  それ以上言うなと睨みつければ、ぺちぺちと塞いでいた手を叩かれた。ゆっくりと離せば、理解してくれたのか、声のトーンを抑えた春野さんの隣に座らされる。  「あー、びっくりした。で、つむちゃんが拒んでんの?」  「…………いえ、」  「はあ?」  ドスの効いた低い声にびくっと体が跳ねた。  いつも柔和な笑みを浮かべた優しいお兄さんっていうイメージだったのに、どんどん崩れ去っていく。  「つむちゃんはそれでいいの?」  「…………よくないです」  「そうだよね」  うーんと唸る春野さんになら、相談してもいいかもしれない。だって、楠木さんに次いで律をよく知っているだろうから。  「あの、どうやったら、手、出してもらえますかね……」  「やだ、健気」  歯切れ悪く問えば、きゅーんと鳴った胸を押さえた春野さんによしよしと撫でられる。  「つむちゃんは無理に頑張ろうとしなくていいよ」  「でも……」  「悪いのは律だから、つむちゃんはそのままでいいの」  手を出そうと律に思ってもらえないほど、魅力のない僕が悪いのに。絶対律が悪いとぶつくさ言っている春野さんは、それをはっきりと否定する。  「春野さんは好きな人としたいって思いますか?」  「もちろん。まぁ、俺はまだ手を出していい関係じゃないから、今は我慢の時だけどね」  「……片思い?」  「そう。何回告白しても、毎回同じ台詞で断られるの。諦めたら楽になれるのに、離れる方がきっと辛いんだよね」  その感情を、よく知っている。  痛いぐらいに気持ちを理解できて、なんだか僕が泣きそうになった。  「その恋が実ることを祈ってます」  「ありがと。……はぁ、ほんと、せっかくのクリスマスの誘いも全部断って会いに来てるっていうのに、つれないよね」  「え、」  いったい誰のことを。まさか片思いの相手がここにいる人だとは思ってもいなくて、間抜けな声が漏れる。  項垂れている春野さんに詳しく聞こうとしたら、後ろから伸びてきた手が僕の肩を掴んだ。  「あ、律」  その言葉に誰が掴んでいるか分かって、硬直する。触れられた部分だけがひどく熱い。  「お前、凄い顔してんね」  「黙ってろ」  口の悪い律はレアだ。  オタクが顔を出しかけていれば、それを遮るように律が覗き込んでくる。目の前に突然現れたあまりにも美しすぎるご尊顔に体が仰け反った。思わず息を飲めば、一瞬で呼吸の仕方を忘れてしまう。  「紡」  「は、はい」  「これあげるから、いい子で待ってて」  耳元で囁かれて、手のひらに落とされたのは律の家の合鍵。黙って見上げれば、律は綺麗な微笑みをこぼした。その威力に萎縮しながら、恐る恐る口を開く。  「……いいの?」  「うん」  「疲れてない?」  「平気」  「……わかった、待ってる」  疲れているなら断ろうと思ったけれど、今日が何日かを思い出したら欲が出た。アイドルモードの律にはやっぱり慣れない。でも、今夜はどうしてもふたりで過ごしたかった。  ぎゅっと握りしめた手の中にある固い感触が愛おしくて、僕はにやける顔を隠すのに必死だった。  律の指示を受けた楠木さんに用意された二台のタクシー。僕も奏も電車で帰れるからと断ろうとしたけれど、既に到着してますと言われては諦めるしかなかった。  楠木さんって何でこんなに仕事が早いんだろう。ふたりから恨めしげに見られても、楠木さんは気にした様子を見せず、微笑むだけだった。  その余裕そうなところが崩れる場面を見てみたい。そんなことを思いながら、奏とふたりでタクシー乗り場に着いた。  「奏、今日は付き合ってくれてありがとう」  「いや、いつものことだろ」  「ううん、すごく楽しかった。僕ひとりだったら知らないままだったから」  「そ。じゃあ、またな」  「うん、気をつけて」  「お前も……、あー、嫌なことは嫌って言えよ」  「ん? わかった」  珍しく歯切れの悪い言葉を残して、そそくさと奏はタクシーに乗り込んだ。気まずそうな表情が引っかかったけど、特に追及することなく都会の闇に消えていくのを見送った。  僕ももう一台のタクシーに乗り込んで、すっかり暗くなった窓の外を眺める。クリスマスムード一色、寒そうだけど寄り添って歩くカップルは幸せなオーラをばら蒔いている。  クリスマス、か。  ぼーっと移ろいゆく景色を見つめて、はっと思い出す。  律と過ごす初めてのクリスマスだというのに、何もプレゼントを用意できていない。誕生日プレゼントだって、まだ渡せていないのに。  言い訳じみたことを言うけれど、ちゃんと渡そうと思ってはいたのだ。だけど、律は欲しいものも流行りのものも何でも手に入れられるだけの財力や知名度を持っている。  律が「欲しい」と言えば、それを聞きつけた企業はこぞってプレゼントするだろうし。あわよくば宣伝してもらおうとするだろう。  いくらバイトをしているとはいえ、大学生が稼げる金額なんてたかが知れてる。プレゼントは金額じゃないとは思いつつ、彼の喜ぶものが全く思い浮かばなかった。  この世の全てを手に入れているといっても過言ではないスーパーアイドル相手に何を渡せばいいのか分からなくなって、一旦考えるのを止めたのが悪かった。あっという間に時間は経って、クリスマス当日になってしまっていた。  今すぐにでもタクシーから降りて、自分の家に帰りたい。どうしようと冷や汗をかきながら窓の外を見ていれば、ぱっと目に入った一軒のお店。  「すみません、止まってください」  突然の制止にも関わらず、運転手さんは不機嫌な顔もしないで快くそのお店の前に停車してくれた。  「クリスマスですもんね。素敵な思い出になるよう、お手伝いさせてください」  「ありがとうございます」  閉店の準備を始めているそこに慌てて飛び込べば、笑顔の店員さんに迎え入れられる。優柔不断な僕だけど、ぐるりと店内を見回して、一目見た瞬間にこれがいいってすぐに決まった。  淋しい律の部屋に少しでも彩りを加えられたら。そう思って選んだのは、一際目を引いた青いバラがメインのブリザードフラワー。  「贈る相手は恋人ですか?」  「……はい」  ラッピングをしながら、優しそうな店員さんに質問される。恥ずかしさに躊躇いながら頷くと、店員さんは「素敵ですね」とにこっと笑った。  「ブルーローズとブルースターの花言葉はご存知ですか?」  「いえ」  「ブルーローズは『奇跡』と『夢叶う』、ブルースターは『幸福な愛』と『信じ合う心』なんです。少し恥ずかしいかもしれませんが、よかったら渡す時に伝えてみてください」  「……がんばります」  律が言うなら様になるけど、僕はそういうことにとことん向いていない。口だけの返事をすれば、見透かされたように笑われてしまった。  「素敵なクリスマスを」  「ありがとうございました」  柔らかな声を背に受けて、びゅうと冷たい風が吹く外に出る。小走りでタクシーに戻れば、車内の暖かさに気が緩んだ。  教えてもらった花言葉を噛み締めながら、潰さないよう大事に抱えていた。これは僕の気持ちそのもの、ちゃんと受け取ってくれるといいな。  見慣れた街並みが近づいて、僕は早く律に会いたくなった。

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