6 / 6

◉3◉翼と晶_別れの日

「晶、じゃあ、またな。……ごめんな、一緒にいてやれなくて。……その、オレは……」 「もういいよ」  私は彼のTシャツの裾を掴んだ。  そして、少しだけ背伸びをして、最後のキスをする。 「ごめんを言うのは私なんだよ、翼。あなたは何も悪くないでしょ?」  そう言って、精一杯の笑顔を貼り付けた。 「私が、自分のことを何でも全て受け入れてもらえるなんて、甘いことを考えたからダメだったんだよ。大丈夫だから、行って。お願いだから、幸せになってね」  私は晶の体を包み込んだ。その華奢な体には、仕事で付いたという逞しい筋肉がある。小柄ながらも建設現場で働いて鍛えられたその体は、日々男らしくなっていった。それが自慢だと言って笑う姿を見るのが、何よりも好きだった。 「次に会うときは、どんな風になってるんだろうな……」  翼はそういうと、悲しげに微笑む。そして、私の唇へと手を伸ばした。  指先でそこに触れると、そのまま下へと降りていく。首の中央にある少し膨れた部分に触れると、うっすらと目を潤ませた。 「これも無くなるのか。残念だな」  翼は、私の声が好きだとよく言っていた。優しく丸みを帯びた低音が、彼を安心させてくれるのだという。  そう言われるたびに胸の奥に柔らかな温もりが生まれるのを、私は知っていた。でも、それと同時に、抜けない棘のようなものがある事に気づいてしまったのも、その頃だった。 「……変わってしまっても、晶は晶だ。それは間違いない。オレが絶対に好きでいてやれるって言い切ってあげられなくてごめんな」  翼はひとつ大きな涙滴を落とすと、そのまま肩を振るわせた。 「翼……」  そんな彼に、私がかけられる言葉はない。  今まで世界中の誰よりも大切にして来た相手を、さらに大切にするために、私たちは今日でお別れをする。  何度もこの腕で包み込んだその体に、これまでの感謝の気持ちを込めて、お互いの骨が砕けそうなほどの抱擁を贈る。離れたく無い、ずっとこの腕の中に翼を閉じ込めておきたい。そう思っても、理屈ではどうにもならないものが、私から翼を遠ざけていく。 「さよなら、翼。今までありがとう。……今度はちゃんとした人と一緒になって」  そう言って、私は彼から離れた。  私は男として生まれて来た。そして、心の中には女としての自分がいる。ただ、男としての大垣晶がいないわけではない。  私の中には、二つの性別が存在していた。最初は何か病気になって、人格が二つあるのかとも思ったけれど、男も女も私である自覚がある。それに気がついてからは、なぜかあっさりとそれを受け入れ、自分はそういう人なのだろうと思い、それを使い分けて生きてきた。  時にずるいと言われ、時に羨ましいと言われた。便利なのかもしれないと、自分ですら思った。でも、もしかしたらそう思って浅い付き合いをしていくうちに、何かの罪を背負ったのかもしれない。まさかこんなことになるとは、少しも思っていなかった。  翼に愛され続ける事で、そのうちのひとつに収まりたくなり、そのせいで翼と別れなければならなくなるなんて……。 ——神様は、どこまでも意地悪なんだな。  私が誰よりも愛した翼は、女を愛せない。でも、そんな彼に愛され続けた事で、私は身も心も女として生きていきたいという気持ちが固まってしまった。  何度もその気持ちを振り払って、自分を誤魔化そうとした。でも、晶の顔を見るたびに胸が痛んで、息が苦しくて、それが幸せによるものじゃ無くなってしまった事に気づいてしまって……。  隣にいることが辛くなってしまったんだ。 「晶、ゲイだよね。オレ、その、女に生まれたかったっていう気持ちがあるって言ったことあったよな」  私がそう言ったのが、崩壊の始まり。  彼は自分から私を触れなくなった。 『俺は体は女のままで心は男、晶は体は男のままで心は女。今まで不自由はあったけれど、戸籍や体の違和感に目をつぶれば、結婚も出来るね』  そう言って笑い合っていたのに、こんな事になるなんて……。  私がどうしても女になりたいと思い始めてからの崩壊は、とても早かった。翼は私の中の女性性と言われる部分が大きくなる度に、彼は私に触れられなくなっていく。  越えられない壁の存在を知った時、別れを選ぶ道しか残されていないことに気付かされた。あの時の気持ちは、どんな言葉でも言い表せない。胸がちぎれて、体もバラバラになって、全部無くなればいいのにと願った事だけを、今でもはっきりと覚えている。 「お前が女になりたいなら止めないけど、俺は女になったお前を好きでいられないかもしれない。今でもそれは隠せてないと思うから、なんとなく分かるだろう? お前が変わった後にそうなってから傷つけ合う可能性があるなら、今のうちに別れたい。勝手だけど……どうしても受け入れられなかった。ごめん、晶」  そう言って泣き崩れた翼を、私には責める事は出来なかった。  私だって、彼が実は身も心も女なんだと言ったら、自分から触れることはできないかもしれない。翼の体は女でも、心は男だからこそ、私たちは繋がり合えたのだから。  もうずっと考え続けていて、訳が分からなくなっていた。気持ちがどうだとか、体がどうだとか、もう考えられない。これ以上苦しみたくない。その想いは、私も同じだった。  とにかく、私という存在は、彼には受け入れられなかった。  でも、私は今でも彼を愛している。  愛しているからこそ。 「翼、今まで本当にありがとう。必ず幸せになってね」  私はずっと見守ってるよ。  いつか必ず、あなたが心から愛せる人と幸せになれる日が来る。それを願って待っている。 「……じゃあな」  扉を閉める翼の頬から、夕陽が差し込んで来た。きらりと光ったその場所に触れることは、私にはもう出来ない。  パタンと音を立てた見慣れた場所は、今日だけ私に冷たい現実を突きつけてくる。ここを境に、私たちは他人になったのだ。  その向こう側に、私たちの思い出の半分を詰め込んだトラックが去っていく音が聞こえた。そして、彼は私の知らない場所へと向かっていく。  お互いにこれから生きていく場所は伝えない。偶然会えたら、その時は友人になろうと約束して別れた。 「さようなら」  そう口にすると、体の中から何かが抜け落ちていくような感じがした。それは体を震わせて、私の決意を潰したがっていく。 「……潰させないから。後悔なんてしない。私にそれをしていい資格はない」  そう呟いて、自分を叱咤する。  悔やむ想いに負けてしまう前に、残り半分の思い出を詰め込んだバッグをもって、その場から駆け出した。 「さあ、明日からも頑張って生きていこう。そのために別れたんだから」  今日までよりも幸せに生きていくんだ。それが、最後に翼と交わした約束だから。 (了)

ともだちにシェアしよう!