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◉2◉結婚記念日(蒼のスパダリエピソード)

結婚記念日 『おはよう』  耳元に甘い声が響く。ああ、また朝が来たのかと思い、蒼のキスを待っていた。  でも、いくら待ってもそれは来ない。それに、挨拶より後の言葉を聴かせてくれない。 「あれ……、いないのか?」  朝はいつだって、挨拶、キス、柔らかな抱擁、それに蒼が運ぶコーヒーとカフェラテの香りで始まる。それなのに、今日は何故かそのうちの一つも存在しない。それどころか、蒼の気配すら感じられない。 「……蒼、どうかしたのか?」  気だるい体を持ち上げると、さらさらとシーツが滑っていく。今日と明日は休みだから、昨日の夜は心が幸せに震えるほど抱き合った。だから、正直今ここにいてくれないと、俺は座るのが精一杯。鈍く痛む体を引きずるようにして、探す元気が無い。 「今日なんか予定あったか……?」  そう独り言ちても、何も思い出せない。ただ、遠くへ行くならはっきりと俺に告げているはずだ。おそらく事務所にいるんだろう。  それなら、龍にお願いするかと思い、意識を集中させた。 『悪いんだけど、お前の番がどこにいるか探して来てくんない?』  そう尋ねると、龍はくっと目を細めた。それはこいつの『了解』という仕草だ。つんとした表情のまま、目的を定めるとそのまますっと消えた。 「頼んだぞー」  俺たちのスピリットアニマルは気位が高い龍ともあって、本来は俺の頼みなど聞いてはくれない。俺と魂を分け合っているくせに、頼み事をするには相当な集中が必要になる。そうなると仕事にならないため、俺たちは出来るだけスピリットアニマルを介せずに過ごすようにしている。使ったことがあるのは、俺が誘拐されて血を抜かれていた時に蒼が助けに来て、その居場所を咲人に伝えた時だけだ。  それでも、今回はあいつの番を探して来てくれと頼んだからか、スムーズに要望を聞き入れてくれた。あの調子なら、すぐに蒼を見つけて来てくれるだろう。俺はもう一度眠って待つことにした。  眠っている間、二人で過ごした日々を思い出していた。その時の蒼の表情を一つひとつ思い浮かべていく。  高校の階段の踊り場で、日々の捜査協力とケアの辛さに泣いていた俺を見つけて優しくしてくれた時の顔や、大学に入ってから田崎と三人でつるむようになった時の友人としての顔、その後すぐに付き合ってくれと言われた時の顔、愛し合う者同士として抱き合った時の顔、お母さんを亡くした時の悲しみに暮れる顔、そして、人生をともに歩み始めた日の嬉しそうな顔。全てが夢に流れてくる。  思い出す表情の全てが優しくて愛しくて、一緒にいた時の自分の胸に沸き起こっていた甘さや嬉しさにまた浸されるような心地がした。それを感じていると、幸せの毛布に包まれているようで、全ての感覚が解き放たれて溶け出してしまいそうになる。 「……幸せだなあー」  思わずそう呟いた。  すると、耳元にクスッと笑う声が響いた。それは、間違いなく蒼のものだ。驚いて目を開ける。 「……蒼!」 「おはよう、翠。すっごく気持ちよさそうに寝てたね」  目の前には笑いながら俺の顔を拭いている蒼がいた。 「びっくりするくらい気持ち良さそうに寝てたんだ。あまり刺激しちゃいけないだろうと思ったから、顔を拭いてみた。ちょうどいい刺激だった?」 「おお、うん、あんまりびっくりせずに済んだかも。ありがとう」  おかしい、俺は龍に蒼を探してこいと言ったはずだ。見つけたのなら起こしてでも伝えるべきだろう。それなのに、どうして何も言ってこないんだろうか……。そう思っていると、蒼の向こう側で、龍がいちゃついている姿が見えた。 「……お前! 見つけたら教えろって言っただろう!」  俺の叫び声に、龍は一瞬こちらを振り返った。しかし、ふんと鼻を鳴らすとまた元の調子に戻っていく。なんだ、あいつ。今まであんな態度をとったことなんてなかったはずなのに……そう思いながら、起き上がった。  ふわりと風が吹く。日が暮れたとあって、やや冷え込んでいた。 「……風? あれ、ここ外だな。いつの間に外に出た? 俺何も感じなかったぞ」  慌てる俺に、蒼はふふふと笑う。何か悪戯を仕掛けられているようだ。 「ずっと夢を見続けるように、手を握って話しかけ続けてたんだ。あの家で俺と二人の時には、警戒心はゼロでしょう? だから、ずっかり騙されてくれたよね。テレパスと耳からの言葉で、夢をコントロールしちゃった」  そう言ってニコニコと笑う蒼に、俺は若干肝が冷えた。この俺の感覚を騙してしまうなんて、恐ろしい男だ。 「怖いことするなよ……。確かに家にいる時は警戒は解いてるけど、こんなことをされたら、そうしたらいけないって思うだろ? 寛げなくなるじゃないか」 「ううん、大丈夫だよ。俺だから、でしょ? 他の人の時は、匂いですでに警戒すると思うよ。だって、俺は翠にとって特別だからね」 「自信満々か。……で、なんでわざわざここに来たんだ? ここ、屋上だよな」  俺はいつの間にか自宅のあるホテルのペントハウスから、蒼に連れられて屋上へと移動していた。そこには、料理や酒の並んだテーブルと、ゆったりとくつろげるような大きなソファがひとつ置いてある。ソファ……なんだろうか。その座面の大きさを考えると、ほぼベッドのようにも見えるものだ。 「最近結構仕事が立て込んでたからさ、慰労も兼ねて、記念日をゆっくりお祝いしたいなって」 「記念日? ……あ、そうか。結婚記念日だ」 「やっぱりまた忘れてたね」  そう言ってくすくすと笑う夫に、俺は申し訳なくなって頭を下げる。 「……ごめん、クリスマスも記念日もすっかり忘れてた。お前、これ準備してくれてたのか? だから昼からずっといなかったのか? 龍にお前を呼びに行かせたのに、何も言わないからどうしたんだろうって思ってたんだよ」  すると、蒼は微笑みながら頷いた。  見渡すと、テーブルの上にある料理は蒼の手作りのものばかりだった。それに、俺が誰かのお土産や飲み会の時に食べてうまいと言ったもの、うまいと言った酒。とにかく、俺の好きなもので埋め尽くされていた。  俺は毎年のようにその準備を忘れてしまうのに、蒼はこうして毎年俺を喜ばせるために全力を尽くしてくれる。申し訳なくて涙が出そうだ。 「翠、俺と結婚してくれてありがとう」  俺の最高の旦那様は、そう言って俺なんかを大切そうに抱きしめながら、優しくて蕩けそうなキスを落とす。俺は、包み込まれる安心感に、また溶け出してしまいそうになった。 「……それは俺のセリフだ。こんなやつと一緒になってくれてありがとう」  そう言って抱きしめ返すと、蒼への愛しさが爆発した。  手のかかるセンチネルという生き物とは、一緒にいるだけで大変だ。それなのに、俺とずっと一緒にいるために努力し続けてくれて、こうして愛し続けてくれている……。 「俺、お前と一緒になって、生まれて来てよかったって本当に思えた。あの時、階段の踊り場でもこうして抱きしめてくれただろう? 俺はあの日をずっと忘れない。あの時お前が抱きしめてくれなかったら、きっと次のミッションで失敗してた。生きてるのもお前のおかげ、幸せなのもお前のおかげだ」  ありがとう、そう言おうと思ったのに……。  その言葉は、二人の口の中で消えた。 「俺だってそうだから。翠がいなかったら、きっと色々うまく行かなくて生きていけなかったと思う。ここまでのガイドになれたのだって、翠と一緒にいたかったからだから。で、今日は二人でここでゆっくり星空を見たいんだ。星なら、眺めてても翠の目も痛くならないでしょ?」 「ああ、そういうこと」  俺は昔、よく辛いことから逃げるために屋上へ行った。そこで人からの刺激を断ち、自分を取り戻すようにしていたんだ。その時唯一の楽しみが、暗い空の中に浮かぶ真っ白な煌めきたちだった。自然の光は、優しい。俺の目でも痛みより美しさを拾う事が出来る。  ここ最近は、その頃と変わらないくらいに忙しかった。息つく暇もないくらいに他人に化け続け、色々な場所で悪事を暴いていた。そろそろリセットしなければ、自分を見失いそうなタイミングで迎えた記念日。俺に無理をさせないように考えてくれたのだろう。 ——やべ、また泣きそうだ。  そう思いながら、幸せを噛み締める。 「はい、座って」  長身でスラリとした体躯の美丈夫が、手を広げて俺を迎え入れようとしてくれている。それだけで、俺にはどこに座るべきかが分かった。 「……ここだよな?」  そう言いながらその背中にもたれかかるようにして座る。すると、 「せいかーい。はい、これ持ってね。じゃあ、結婚十年おめでとう」  そう言って、シャンパンの入ったフルートグラスを持たされた。 「……え、じゅ、十年記念? ごめっ……そんな節目だと思ってなかった!」  なんて最低なんだ俺は! と思い、振り返って謝ろうとする。その唇を塞がれた。 「……ン」  ぶどうの香りとアルコールの刺激が、俺の方へと押し寄せる。何も食べていなかった俺の胃から、急速にシャンパンと果貫蒼の情報が押し寄せた。 「……触覚が働いてるよね。でも、ここでは何もしないよ。とりあえず、お酒飲んで星を見てから……」  今度は、俺がその口を塞ぐ。ここまで嬉しい興奮ばかりさせられて、我慢出来る方がどうかしてるだろう。 「……残念だけど、酒と料理は後で」  向かい合って座り直した俺に、蒼は困った顔で笑い始めた。 「まあ、やっぱりそうなるよね」  そう言って俺の顎を引くと、強く抱きしめながら俺の服に手をかけた。

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