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第207話 何よりも愛しい子

「うしゅらい!」  言葉を話すようになったアルマは、そばに居た側仕えの薄氷に向かいトタトタと軽い足音を立てて走っていく。  転げそうになった彼を抱きとめた薄氷は、苦く笑いながらめくれ上がったアルマの服を整えた。 「王子様、そんなに急いでは危のうございます。お呼びくだされば、私がすぐ参りますのに」 「うしゅらい!」 「はい、はい。どうされたのです」  まだ王子が赤子の頃は嫌われているのだと悲しんでいることもあった薄氷だが、今や父と母についで王子に懐かれている存在となった。 「うま!」  キラキラと硝子玉のような透き通った曇りない瞳にそう言われ、薄氷は床に四つ這いになる。 「清夏、王子を私の背に乗せてください。そのまま支えるようにして」 「……またですか。王妃様からあまり甘やかしてはいけませんと言われたでしょう」 「しかし……王子様のお顔をご覧なさい。とても楽しそうでいらっしゃる」  薄氷はアルマに対し、砂糖菓子のように甘い大人になっていた。  呆れた様子の清夏が、アルマを彼の背中に乗せる。 「きゃーっ!」 「王子様、薄氷の背中肩をしっかりとお持ちくださいな」 「うしゅらい! うま!」  子供のキャッキャとした明るい声は、人の心を穏やかにさせる。  薄氷は幸せを感じながら喜んで馬となっていた。  しかし。 「薄氷、何度も言っているでしょう。アルマを甘やかしすぎです」 「……はい。申し訳ございません」 「この先、アルマに無茶な要求をされたらどうします。厨房から茶菓子を盗んでこいなどと言われるかもしれませんよ」 「それは……王子様は、盗むなどという道理に反したことはなさらないはずです」 「わかっています。例えばの話です」  珍しく、アスカが怒っている。  しかしこれには事情があって、アルマにお願いされるがままに庭を駆け回った薄氷が、腰を痛めたからであった。  なので、薄氷は今、王妃であるアスカの前でうつ伏せとなり医務官に治療をしてもらっているところだ。 「体を労りなさい。アルマの世話をしてくれることはとても有難いけれど、まずは自身の体を大事にすることです」 「……はい。申し訳ございませんでした」 「……いえ。私の方こそ、ごめんなさい。それから……ありがとう。貴方には、とても助けられているよ」  アスカはそっと薄氷の肩を撫でる。  孫のお世話に張り切る祖父のような彼に、父を思い出した。  アルマが生まれてすぐの頃に王宮に来てくれたのだが、あれ以来会えていない。  いつかアルマを連れて実家に顔を出したいと薄ら思った。 □ 「あぁ〜! せーか! やだ、うまぁっ」 「清夏は馬ではありませんので、致しません」 「やぁぁっ!」 「泣いてもダメですよ。私は薄氷ではごさいませんからね」 「あ゛ぁぁっ!」 「まあ、そのようなお声を出して。王妃様に叱られてしまいますよ」  薄氷が腰痛で倒れ、アスカが忙しい間は清夏がアルマのお世話をすることになった。  アルマが小さい頃から一緒にいる清夏は、もはや第二の母のように王子と接している。  アスカはそれが嬉しかった。  平民として生まれ育った自分にとっては、甘やかされて育つよりも、ダメなことはダメだと伝えてくれる人がいる方が安心できるのだ。 「王子様、馬に乗りたいのであれば、もう少し大きくなられましたら、本物の馬に乗り庭を歩いてみましょう」 「うま……?」 「はい。よろしければ、今から会いに行ってみますか?」  アルマは清夏の言葉全てを理解できた訳ではないだろうが、しかし楽しそうに頷いた。  そうすれば清夏に抱き上げられ、部屋を出て外に連れていかれる。 「あー! ちょうちょ!」 「ええ、そうですね。綺麗な水色の蝶々ですね」 「せーか! ちょうちょ!」 「はい。蝶々はいますが、馬を見に行きますよ」 「うま!」 「ええ。馬ですよ」  淡々と応える清夏だけれど、アルマは泣くことは無かった。  それどころか、連れて行ってもらった先で本当の馬を見て感激し、今度はなかなか後宮に帰ってくれなくなった。  抱き上げれば大声で泣こうとするので、清夏は困ってしまい、遂には──父である国王陛下が現れたのである。  咄嗟に頭を下げた清夏に、リオールは片手で制すると、そっとアルマに近寄った。 「おや、アルマ。こんなところで何をしているのだ」 「あ!」 「父が来たぞ。さあ、部屋に戻ろう」  政務の時とは全く違う柔和な表情。  リオールに抱かれ、アルマは嬉しそうにキャッキャと笑い声を上げた。  父親の首にぎゅっと腕を回し、その肩に顔を埋める。 「陛下、どうしてこちらに……」 「王子が馬小屋にいるらしいと、陽春から報告があってな」 「……そうでしたか」 「手を焼かせてしまって、すまない。王子は、興味を持ったことには一途だからな」  清夏はつい苦笑をこぼす。  たしかにそうだわ、と頷いていた。   「この性格が、吉と出るか凶と出るかはわからぬが、そなたらが傍に居てくれるのであれば、誤った道にはすすまぬだろうな」 「! そ、そんな、もったいないお言葉……」 「いいや、本心だ。私も王妃も、そう思っている」  王としてではなく、一人の子の父として、そう言ったリオールに清夏は思わず息を飲んだ。  そして、身が引き締まるような感覚に、スッと背筋を伸ばした。 「私は、死すまで王様と王妃様、そして王子様のお傍に居ることを誓います。皆様が幸福を感じられるよう、一生支えてまいります」  力強く迷いの無い言葉に、リオールはふっと笑う。  そして、アルマを抱きながら清夏を振り返り── 「ああ。ありがとう」  とても穏やかに、微笑んだのだった。  そして、月日が経ち── 「王子様! どちらにいらっしゃるのです!」 「王子様ぁっ! どうかお返事をなさってください!」  王子 アルマは相変わらず薄氷と清夏を困らせていた。  彼は今年で齢七歳となる。  しかし既に読み書きも計算も達者であるし、運動も得意で、同年代の子供と比べると優秀であった。  そのせいか、大人の隙を潜っては住まいを抜け出し、どこかへ出かけてしまう。  とはいっても、王宮の中だけなので、安全ではあるのだが。  今日のアルマは昔からよく遊びに来ている馬小屋に訪れて、そこにいる馬達に挨拶をした後、餌を与えたり、馬を相手に話をしていた。 「王宮の中を探検してるんだ。とはいっても迷子になったら困るから、ここか……父上のいらっしゃる場所か、ああ、たまに政務宮にも行ったりするんだよ。……誰かに知られたらきっと、怒られちゃうね」  ニシシ、と笑う姿はまるで悪いことを企んでいる様子にも見える。 「父上はお忙しいかなぁ。昨日もお会いできなかった。母上とは毎日話をするんだ。知ってる? 私の母上は、とても美しくてね、銀色の髪がサラサラとしていて、私はそれが大好きなんだ」  馬はむしゃむしゃと餌を食べているが、アルマには関係がないらしい。 「でも……皆、母上のことが大好きだから、母上とふたりきりになれる時間が少し……少なくなっていて、寂しい気もする」  シュン、と肩を落とす。  毎日少し話しはするが、昔のように遊ぶことはできない。  読み書きや計算も、母上が褒めてくれたから頑張れたが、最近はあまり楽しくない。 「──王子様! ここにいらっしゃいましたか!」 「っ! ……薄氷」  馬と話していると突然やってきたのは薄氷だった。  肩で息をする彼は、ヘナヘナと地面に座り込むと安心したように眉を八の字にして微笑む。 「もしや、王宮の外へ出かけられたのかと思いましたが……。安心いたしました……」 「……すまない」 「いいえ。馬とお話をされていたのですか?」 「うん。……最近の、父上と母上のこと」 「王様と、王妃様の……?」  そこでアルマはつい、小さな頃から甘やかしてくれる薄氷に対して不満を零した。  自分だけの父と母なのに。  本当はもっとお話がしたいのに。  でも、我慢しないといけない。  なぜなら、父は王様で母は王妃様。  国の父と、母だから。  薄氷はそれを聞いてつい鼻の奥をツンとさせると、静かに頷き立ち上がった。 「良いのです、王子様」 「……なにが、良いの?」 「親に甘えて、何がいけないのでしょう。お話がしたい時は、そうお伝えしましょう。貴方様の父上様と母上様は、必ず王子様のお話を聞いてくださいます」 「でも……お忙しいから……」 「いいえ、いいえ、王子様。だからといって貴方様を蔑ろにするような方々ではございませんよ」  そうこう話しているうちに清夏もやって来て、薄氷が事情を説明すれば、彼女もアルマの背中を押してくれた。 「今すぐ、私が王様と王妃様にお伝えしてきます。王子様がお話がしたいと仰っている旨を、必ず伝えましょう」 「あ、あ……でも、そんな、大袈裟なことではなくて……」 「? ええ。ただ、親子の会話を楽しみたいのでしょう?」  清夏の言葉に躊躇いながらも頷いたアルマは、しかし、きゅっと目を瞑る。  お忙しいのに、寂しいからという理由で甘えてもいいのだろうか。  きっと、そうして与えられる時間は、困っている人たちを助けられる時間になるはずなのに。  清夏が馬小屋から出ていく。  アルマは薄氷と共にとぼとぼ住まいに戻り、そして早くも後悔していた。 「……王子であるのに、父上と母上に甘えたいなど……きっと、情けないと呆れてしまわれる……」 「そんなことありません」 「……涙が、出てきそう」 「! ああ、王子様。大丈夫ですよ。王様も王妃様も、きっと王子様を抱きしめてくださいます。貴方様は愛されているのですから」  胸の中に広がる不安の渦が、涙となって溢れそうだった。  ムッと下唇を突き出して、目に力を入れ、涙を堪える。  外から、多くの足音が聞こえてきた。  アルマは袖で涙を拭う。  そして、薄氷により扉が開かれると、そこには父と母の姿があった。 「アルマ」  母に優しい声で名前を呼ばれ、拭ったばかりの涙が溢れてくる。 「どうした、アルマ。そのように泣いては目が腫れてしまうぞ」  父は小さく笑いながら、傍に来ると丁寧に涙を拭ってくれた。  アルマはつい、その手に甘えたくなって、離れていきそうだった父の手を掴むと、そのまま彼に抱きついた。 「お……よしよし。寂しい思いをさせていてすまないな」 「アルマ。気づけなくて、ごめんね」  父と母に頭を撫でられる。  アルマはまたしても涙を流し、珍しくただの子供のように声を上げて泣いた。  涙が落ち着く頃。  アルマはリオールの膝の上に座り、アスカと手を繋いでぼんやりと宙を見ていた。  泣きすぎて疲れてしまったのだ。 「アルマは賢くて大人びた子だと、勝手に思ってしまっていた。しかし……そうではないに決まっている。少し考えればわかることなのに……。すまなかった」 「ん……ちちうえ」 「私も、話をしているつもりで、いつの間にかアルマが心を隠してしまっていることに気づけませんでした。ごめんなさい」 「……」  アスカの琥珀色の目に涙が溜まっている。  それに気がついたアルマは、慌ててアスカの前に立つと優しく彼を抱きしめた。 「母上、泣かないで……」 「っ、」 「……私は、母上の笑顔が、一番好きです」 「アルマ……」  アスカは涙を拭うと、アルマと向き合って柔らかく、そして優しく微笑む。   「母も、アルマの笑顔が何よりも大好きですよ」 「! ふふ」 「ほら、とっても素敵な笑顔。愛しい子。もういちど抱き締めてもいい?」 「もちろんです」  アルマは自然と口角が上がり、胸の奥がホクホクとあたたかくなっていくのに気がついた。  そうしてアスカに抱きしめられる。  寂しいと感じていた心が、だんだんと幸せに変わっていく。 「なんだ、二人とも。私を混ぜてくれないのか」 「父上も!」  アルマが腕を広げると、そこにリオールが入ってくる。  三人でギュッと抱き合えば、もう寂しさを感じることは無かった。 「これからは寂しいときや、悲しい時は、いつでも、言うのだぞ。父も母も、アルマを誰よりも大事に思っている」 「っ、はいっ!」 「良い返事だ。ほら、久々に……こうしてやる!」 「わぁっ!」  リオールに抱っこされたアルマが、高くまで持ち上げられる。  幼い頃、よくしてもらっていたこれは、もう随分と久しぶりだった。  明るい家族の声が、一室に響いている。  傍に控えていた薄氷と清夏は静かに目に涙を浮かべ、そして王に着いてきていた陽春は──誰よりも涙を流し顔をしわくちゃにしていたのだった。 【何よりも愛しい子】 完

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