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第206話 その笑顔が曇らぬように
薄氷には、最近ひとつだけ悩みがあった。
それは、王子アルマに関することだ。
「薄氷、少しの間だけアルマを見ていてくれない? 私は陛下に話があって、すぐ戻るとは思うけれど」
「ええ、もちろんでございます。どうぞごゆっくり。王子様は、私がお守りいたしますので」
「ありがとう」
王妃アスカに頼まれて部屋をあとにされ、薄氷はお行儀よく座っている王子の前に膝をついた。
柔らかな微笑みを浮かべたその時だった。
「ふぇっ」
「!」
「うぇ、ぇっ……」
薄氷の顔を見た瞬間、王子が泣き出してしまった。
──これは一度や二度ではない。もう、何度も経験していることだった。
最初は人見知りかとも思った。だが、清夏には決して泣かない。
その清夏は今、出産で弱ったアスカの代わりに、定期の炊き出し視察に出ていて王宮には不在だった。
「お、王子様……。申し訳ありません。王妃様でないことに、さみしさを覚えておられるのですね。清夏もおらず、こんなむさくるしい男と二人きりで……お心苦しいことでしょう」
「うええぇぇっ!」
「重ねてお詫び申し上げます! しかし今しばらく、どうかご堪忍くださいませ……。王妃様は、もうすぐお戻りになられますゆえ……!」
泣き続ける王子に焦って、薄氷は早口で言葉を重ねた。だがもちろん、アルマに届くはずもない。
そうこうしているうちに、アスカがリオールを伴って戻ってきた。
目にしたのは、泣きじゃくるアルマの前で、平伏すように謝り続ける薄氷の姿だった。
「な、なにをしてるの……?」
「薄氷……どうしたのだ」
アルマはすぐにアスカに手を伸ばし、アスカは泣く子を抱き上げてあやす。
リオールがそっと薄氷の背に手を置き、低く問う。
「……何があった?」
だが薄氷は、顔を上げることすらできなかった。自身の不甲斐なさに、ただ俯いたまま──
「王子様は……」
「ああ」
「私のことが……お嫌いなようです……」
アスカもリオールも、ぽかんとした顔で薄氷を見つめた。
その気配に気づきながらも、彼は目を伏せたままだ。
「そんなことないよ」とアスカは優しく言った。
けれど薄氷は、そっと首を横に振る。
なぜなら、王子は清夏には笑顔さえ見せる。泣かないどころか、まるで花が綻ぶような顔で彼女に応えるのだ。
その日を境に、薄氷は王子と極力ふたりきりにならぬよう努めた。
炊き出しの視察は自ら買って出て、清夏の負担を減らす代わりに、王子との距離も保とうとした。
「ええ? それはかまいませんが……何か、ありましたか?」
「……私自身の不甲斐なさに打ちのめされただけです」
「……?」
そんなやりとりの裏で、薄氷が去った部屋では──
「泣く理由なんて、大したことじゃないのにな」
「ふふ。子供は泣くのが仕事ですからね」
王と王妃が、どこか困ったように微笑んでいた。
それから月日が流れた。王子は寝返りを覚え、這って動き、着実に成長していた。
初めて寝返った瞬間を、清夏は見届けたらしい。あまりの愛らしさに感動し、泣いてしまったのだという。
その話を聞いた薄氷は、目から血が出るのではないかというほどの悔しさをこらえながら、「それは、よかったですね」と微笑んだ。
──そんなある日。
偶然が重なり、薄氷はまたしても王子とふたりきりになってしまった。
王の会議で炊き出しの話題が出て、急遽アスカも呼ばれた。
そのとき清夏は厨房に出ていて、王子の傍にいられるのは薄氷だけだったのだ。
久しぶりのふたりきりに、薄氷は緊張し、遠くから話しかけるようにした。
「王子様。王妃様が戻られたら、お庭に出ると仰っていましたよ」
「あー!」
声をかけると、まるで返事をするように王子が声を上げた。
その愛らしさに、薄氷の胸がふわりと温かくなる。
「王子様の寝返りを、私も見たかったです」
「あー」
「清夏が言っておりました。とても愛らしかったと」
「う?」
「私も、拝見したかった……」
そうつぶやいて顔を手で覆った時──
小さな手が、そっと膝の上に乗せられた。
ハッとして、指の隙間から下を覗く。
「……!」
王子アルマが、よちよちと這ってきて、薄氷の膝に登ろうとしていたのだ。
小さな体を支えるように薄氷が手を伸ばすと、彼は嫌がることなく、むしろ見上げて笑ってくれる。
「お……王子様……」
「あぅー!」
薄氷は、感動のあまり顔を赤らめた。
このままもう少し、この幸せな時間が続いてくれれば──
そう願っていたが、アスカが戻ってきたことで、アルマは彼の元へ戻っていった。
けれど、薄氷の胸には確かなものが残っていた。
この思いを、誰かに聞いてほしかった。
「王妃様」
「はい?」
「……」
「……? 薄氷、どうかしたの」
口にするのを一瞬迷った。
清夏に話せば、自慢だと思われてしまうかもしれない──そう思ったのだ。
「あの……王子様が……」
「ええ。王子が?」
「……私の膝に、自らお乗りくださったのです」
アスカは目を見開き、すぐに笑顔になった。
恥ずかしさに、薄氷は少し俯いた。
「薄氷。アルマはね、貴方のことが嫌いなわけじゃないんですよ」
「……はい」
「自ら膝に乗ったということは、それだけ貴方に安心しているということです」
「っ、ありがたい……幸せに存じます……!」
目に涙が浮かび、袖で拭う。
薄氷は、小さく笑った。
「どうか、これからも王子をよろしくお願いします。安心できる場所として、傍にいてあげて」
「はい。何があっても、王子様をお守りいたします……!」
「ありがとう」
アスカは知っていた。薄氷の言葉は、決して偽りなどではないことを。
──王宮に来て間もない頃、彼はこう言ってくれた。
『もしも、アスカ様の御前で貴方様を笑う者が居たのなら、私が責任を持って、その者を排除しましょう。──ですから、ご安心ください。』
あの時の安心は、今も胸に残っている。
「アルマが話せるようになるのが楽しみだね。たくさん、言葉を教えてあげて」
「はい。もちろんです」
薄氷のアスカへの忠誠は変わらない。
そして──その主の子であるアルマへの愛情も、確かなものになっていた。
にっこりと笑いながら手を伸ばしてくる王子に、薄氷は心の中で静かに誓った。
──この笑顔が、決して曇らぬように。必ず、王子様の未来を明るく照らしてゆこう、と。
【その笑顔が曇らぬように】 完
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