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第1話

何しろどちらを見ても、まっ黒で、たまにそのくら闇からぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらござりません。        芥川龍之介(蜘蛛の糸より)                 桃源郷へ参り、仙桃の花を一輪貰ってくるように————————  地獄に堕ちてより長期に仕え続けている主人から、綸旨と共に命を受けたのが、今より数刻前である。  こまったなぁ…  天国からほど遠く、現世からはやや近い奈落の底、地獄。  瑠璃色の括り袴と白い水干を身にまとう平安貴族の装いしている優美な少年の憂鬱なため息は止まらない。  足元に転がる真っ黒で毒々しい小石をけぽりけぽりと蹴りながら、歩みを止めてはうんうん唸り、また蹴り始めるの繰り返しである。  本来ならば、駿馬の如き速さで桃源郷へと向かいたいのだが、仙桃が成る桃源郷は、邪気を払う浄化の力が強い領地なのだ。  衣食住の全てを地獄にて過ごしてる穢れや邪気が巣食う少年の体は、彼の地に一歩、足を踏み入れた途端に使者としての役目を果たせないだろう。  ダメ元で他の者に助力を請うてみても、頼み込む端から無理だと口を揃えて断られた。  その度に、少年は品の良い美貌を可哀想なほどに歪めた。その表情は心ある者ならば、自身の胸を締め付けられずにはいられないだろう。  しかし、ここは地獄。  少年の憂いを晴そうと思う慈悲深い仏も神も無し。  否、神も仏もいるにはいるが、少年の遥か頭上の先、分厚い雲に覆われて神々が座す高天ヶ原はここからはとんっと見えぬ。  久しぶりに神頼みでもしてみるかなぁ。  住処と家族を失い。国を追われ、敵討ちすら叶わず無念な死を遂げたのを機に神に縋るのをやめて、早数百年の心変わりである。  少年は両手を合わせて目を閉じた。  この際、生前のことは水に流そう。なので、死後くらいは、慈悲をかけて欲しい。 「阿鼻地獄に落ちる寸前の運命であった私を救ってくださったご恩に報いるためにも、我が君の願い。なんとしてでも叶えとうございます」  そんな切実な訴えを絶望的な空模様に向かって念じてみる。  しかし、事態が好転する事はなかった。  少年は更に言葉を重ねる。 「決して贅沢は申しません。私の力添えになる者だけでも、授けてくださいまし」  溺れるもの藁をも掴む勢いで助けを乞う少年の前に突如、地面がピカッと輝いた。  ついに天が少年の思いに応える気になったのか、はたまた只の気まぐれか。  地獄では見ない異質な光に少年は気圧されて、うわぁっと情けない声を上げながら、その場で尻餅をついても、目だけは逸らさずひたすらに光を見続けた。  周りにいた鬼たちも突然のことに驚いて、なんだなんだと少年の前に集まり出す。 「おぉい!将国(まさくに)。こりゃあ、一体何の騒ぎだ?」  カンカンに熱した煮湯を一気に飲まされたかのな肌色の赤鬼が雑踏の中を掻き分けて、少年の名前を呼ぶ。 「さ、さぁ何が何やら……」  将国本人すら預かり知らぬことである。  放たれた光が徐々に弱くなって行くと、人の形を模した何かが、地面に横たわっているのが見えてきた。  はて、あの光の中に立ち現れた人型はなんなのか?  新たな神がお産まれになったのか。それにしては地獄に場違いである。  疑念が次々と湧いている将国の隣で、あっと赤鬼は声をあげた。 「これって、もしかして生贄じゃねぇのか」 「生贄…て、あの神に捧げる生贄ですか?」  馴染みのある言葉に、将国は赤鬼を見る。 「そうだ。オレも見たのは何千年ぶりだが、こんな感じで、地面が急に光り出したんだ」  間違いない。赤鬼は筋肉隆々の巨体を揺らしながら大きく首を縦に振ると、将国はへぇっと興味深そうに光を眺めた。  生前、神の怒りを鎮め、天候を願い。建築物を立てたり、川に橋をかけたりする際に決まって生贄を捧げていたので、割と身近な存在ではあったが、その後を見たのはこれが初めてだった。  そこで、ふっと疑問が湧いた。 「ちなみにこれは誰の生贄なのでしょうか?」 「そりゃ、おまえの生贄に決まってんだろう」 「えぇ!私ですか。何かの間違えでしょう」  本日、二回目の度肝を抜かれた将国は、口早に捲し立てる。 「それが間違いじゃねぇんだな」  どういう仕掛けかはわからないが、生贄というのは捧げられる者の前にしか、現れないらしいと赤鬼は補足する。 「では、仮に生贄の生肝を捧げられたら、それだけが届くのですか?」 「あぁ、届く。理屈はわからぬがな」 「えぇ、そうでしょう。この世には理にそぐわぬ事も御座りましょう。それにしても、何故、今になって私に生贄なのでしょうか」  将国は困惑するしかない。 「もしや、私がっというより、私の父宛てかもしれませんね。ついに本格的に怒りを鎮めるための生贄が謝って私のところに来たのかも」  まるで自分は清廉潔白だと言わんばかりの将国の口振に、赤鬼の顔は渋くなる。 「確かに、おまえの親父さんすごい怨霊だったが、将国だって百年ばっかし怨霊をやってただろう。もう忘れたのか?」 「ちょっと、過去の古傷に触れないでくださいよ!」 「過去って言っても、八百年前の話なんだから、つい最近だろう」 「鬼からすればそうでしょう。しかし、人の世であれば、当にお伽話です」 「なんだいそりゃあ、怨みってもんは、それっぽちで消える軽いものなのかい」  呆れたような口調になる赤鬼に、将国はフンッと鼻を鳴らす。 「なんとでも言いなさい。それに今の私は心を入れ替えて、我が君の元で仏の道を歩んでいる身の上、このような生贄は無用です」 「それだよそれ、本気で仏様になりたいなら、ここは不釣り合いだろう」  赤鬼に言われずとも将国とて承知の上である。 「お忘れですか。私はこれでも罪人ですよ。死後の裁判で懲役一万年の判決を受けているのだから、地獄で悟りの境地に至るしかないでしょう」  もうかれこれ何度目かになるやり取りを赤鬼とした後、将国は赤鬼から視線を落とした。 「それにしても、この生贄の成りはなんですか。烏の羽翼のような衣が、贄を捧げる正装だと申すのですか」  将国が生きていた頃の生贄の正装といえば白装束である。  この様に袖丈なく、腰の辺りてばっさりと切られている直垂(ひたたれ)に、足首まで隠れるほどに丈の長い小袴(こばかま)という随分と面妖な装いは初めて見た。 「将国よ。おそらく、この者の着物は確か学ランというものではないか」 「ガクラン…とな?」 「現代の童子が着る正装らしい」 「ど、童子?このデカい大男が童子だというのですか!」  赤鬼から説明に将国は別の衝撃を受けた。  衣の上からでもわかる盛り上がった筋肉に加えて、目測だけで見積もっても、六尺二寸(百八十八センチ)はある長身。  将国の隣にいる赤鬼が十三尺二寸(四メートル)で筋肉隆々なのは納得いくが、人の身でその体躯は異様である。  それが童子だと知るとなると、これはもう物怪の類であろう。  将国は泡を食ったかのように取り乱していると、倒れていた生贄の体がピクリと震える。 「ここは───」  どこだ。と、正気を取り戻した生贄は気怠げに体を起こし、今だに覚醒しきれていない様子のまま辺りを見渡した。  

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