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22 3日目―8回目の注射

ふと、凛が立ち上がった。 「……次の注射の準備、するね」 そう告げて、小さなトレイを手に、部屋の奥へと歩いていく。 俺はただ、その背中を見送っていた。 ……いや、見送ったというより、目を逸らすこともできなかったのだ。 身体が、そこに釘付けになったみたいに。 (……来る……) 思考は霞んでいたのに、それだけははっきりしていた。 次の――8回目の注射。 『あと3回』 昨日、凛がそう言った。 その言葉が、何度も何度も、頭の中でこだまする。 7回目が終わったあとの、8回目。 俺はこれで何を失って、何を得るのか。 オメガになった俺に、待っているのは―― いったい、どんな「何か」なんだ? カツン、カツン。 冷たい足音と、微かな金属音が戻ってくる。 音のたびに、部屋の空気が裂けていくような感覚があった。 戻ってきた凛の姿が、ベッドの視界に重なる。 その手には、見慣れてしまったペン型の注射器。 「れーちゃん、注射するね」 看護師のように、優しくて穏やかな声。 だからこそ、余計におかしい。 その声が、どうしても――正気に思えなかった。 「……いらない……やめろ……」 喉から漏れた声は、擦れて掠れて、凛に届いたかすら怪しかった。 けれど、それでも言葉にしたかった。 せめて最後の一線くらい、自分の意思で。 「怖いよね。でも、大丈夫」 優しい顔で、凛は俺の腕をそっと撫でた。 拒絶の感覚は、もうなかった。 その事実が、いちばんの絶望だった。 (触れるな……いや、触れてくれ……) 分からない。 どっちが本音で、どっちが嘘かも。 「少し、冷たいよ」 注射器の先端が、俺の肌にそっと触れる。 その一瞬、背筋を撫でるような震えが走った。 けれど、その恐怖にさえ慣れつつある。 「っ……や、め――」 言葉が終わるより先に、皮膚にチクリと刺さる感覚。 あまりにも、静かな侵入だった。 痛みはなかった。 その“痛みのなさ”こそが、今の俺には恐ろしかった。 体が、異物を“拒まなくなっている”という事実。 「うん、注入完了。お疲れさま」 あくまで穏やかな口調で、針を抜いた凛が、ガーゼを押し当てる。 その手つきはまるで、看病だった。 どこまでも、優しく、丁寧に。 「……っ……何……した……」 遅れて届いた、自分の声が機械のようだった。 数秒のラグが、現実感を削っていく。 「8回目だよ。これで、れーちゃんの体はもう……僕の番を受け入れる準備ができる」 言葉が、鼓膜ではなく、脳に直接沁みてくる。 ゆっくりと、じわりと、脳の中心で染みて、溶けていく。 「冗談、だろ……っ」 細切れの声。 凛は、静かに首を横に振った。 「ううん、ほんとうだよ。ね、れーちゃん……自分の体、感じてみて?」 感じたくなんてなかった。 けれど、分かる。 腹の奥、骨盤の内側が、疼いている。 昨日までの“曖昧な違和感”ではない。 今は、明確な熱がそこにある。 寝転がっているだけなのに、臓器がじんわりと拡張していくような感覚。 心臓が脈打つたびに、その熱が内側を移動していく―― 奥から、もっと奥へ。 まるで何かを“迎え入れる場所”が、開いていくように。 (違う、違う、違う……!) いくら心の中で否定しても、 身体は、もう――従わなかった。 呼吸が乱れ、目の奥がじんわりと濡れる。 涙じゃない。けれど、近い。 「れーちゃん……」 凛の顔が、耳元へ近づく。 その瞬間、ふわっと甘い匂いが鼻腔を満たした。 「ん……!」 喉がひくりと痙攣する。 空気が、甘く重く粘る。 思考より先に、皮膚が、凛の存在を受け入れてしまう。 熱い。 苦しい。 でも、心地いい。 「出てるよ、れーちゃんの匂い。すごく甘くて……僕が我慢してるの分かる?」 囁かれただけで、下腹が反応する。 今まで意識の外にあった場所が、凛の声ひとつで疼くようになっている。 「これが、発情だよ」 あまりにも優しく、あまりにも当然のように言われる。 もう、否定の余地はなかった。 凛の指が、そっと俺の胸元に触れる。 ただ撫でられるだけなのに、ぞくりと、全身が粟立つ。 「れーちゃんの身体……全部、感じるようになってきてるね」 「っ……やめろ……!」 声は、風にさらわれたように弱々しい。 それでも凛の手は止まらない。むしろ、慈しむように優しく続ける。 「全部、僕が教えるから。れーちゃんは、ただ感じてくれればいいよ。9回目が終わったら、たくさんセックスしようね? れーちゃんが孕むまで」 それは、どこか神の言葉のようで―― けれど、俺にとってはすべてを奪う宣告だった。 セックス。凛と。 嫌だと思ったはずなのに、その言葉を聞いただけで、身体は僅かに高揚していた。 呼吸が止まらない。 心臓が苦しい。 でも、どこか期待している自分がいる。 腹の奥が、ずくり、と熱を持つ。 (なんで、こんな……っ) 唇が震える。 目の奥が熱い。 涙じゃないけれど、溢れてしまいそうな感覚。 「れーちゃん……可愛い。僕の、れーちゃん……」 凛が、俺の髪を撫でた。 その手のひらに、 ほんの少しだけ――安心してしまった自分がいた。 気づいたときには、もう、すべてが――遅かった。 -------------------- 20250831:改稿 リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪ -------------------

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